序章②

良太が両膝を故障した。

 夏休みの前半に手術が行われ、個人種目で全国大会の出場が期待されていた、予選大会への出場は、あきらめなければならなくなった。けれど、二学期から復帰できたため、中学最後の全国へ繋がる、秋の駅伝大会には間に合わせることができた。

 三〇〇〇メートルの記録も、自己ベストを出すことはまだできなかったけれど、部員の中で一番速いことに変わりはなかった。

 村岡先生は地区予選大会のメンバーから良太を外した。

 上位三チームが県大会に出場できるため、良太なしでも突破できることを見越して、良太の足に負担をかけさせまいとしたのだ。

 良太がいない。失って初めて気付く、という言葉があるように、良太の欠場はタスキの重さを二倍にも、三倍にも増した。これまでは、全力を出し切ったつもりでいても、良太がどうにかしてくれると頼る気持ちがあったのだ、ということに気付かされた。

 良太と、良太の代わりになったメンバー、二年生の田中とのタイム差を、自分が縮めなければならない。皆がこの思いで走ったのだろう。その結果が、全員が自己ベストを更新して区間賞を取るという、完全優勝だった。

 だから、村岡先生は決めたのだ。

 大会一週間前の練習後、村岡先生はグラウンドに部員全員を整列させた。男子の長距離部門だけでなく、地区大会で予選落ちした女子長距離部門も、三年生が夏の大会で一足先に引退した、男女の短距離部門も。

 部員全員の前で、駅伝メンバーの発表が始まった。

 一区から順に、名前を呼ばれたら「はい」と返事をして挙手をし、前に出て行く。県大会のコースでは、エース区間といわれる二区で、良太の名前が呼ばれるのを僕は待っていた。だけど、聞こえてきたのは、二年生のエースの名前だった。

 えっ、と口に出したヤツはいなかったけれど、明らかに空気が揺れるのを感じた。

 三区で自分の名前を呼ばれたときも、動揺はまだ続いていて、代返のような、間抜けな返事をしながら、僕は前に出て行った。

 先生は良太をアンカーにもっていくつもりか。もしくは、地区大会と同じ並び順になるよう、繰り上がりの田中が走った、五区に指名するつもりか。それは少しもったいないのではないか。

 部員たちと対面するような恰好で立った僕は、チラチラと良太の方に目を遣った。いつもと変わらない、風を切るような走り方と同様の、何を考えているのかいまいち把握できない、ひょうひょうとした表情で、良太は先生の方を見ていた。

 五区で田中の名前が呼ばれた瞬間、今度は、「えっ」という声が至るところから上がった。田中本人でさえ「えっはい」と、とまどったような返事をし、悪いことで呼び出しをくらったように、頭を下げたまま前に出てきた。

 六区のアンカーの名前が呼ばれ、前に並んだのは、地区大会とまったく同じメンバー、走り順となった。

 良太の名前は補欠一で呼ばれた。良太はメンバーに選ばれたときと同じように返事をして、前に出てきた。つい、視線が膝へ行ってしまう。

 ケガがまだ完治していなかったのか。悪化してしまったのか。でも、良太は毎日皆と同じ練習メニューをこなしている。昨日、最終予選のように行われた三〇〇〇メートル走も、良太が一位だった。

 僕は村岡先生の言葉を待った。

 どうしてこのメンバーを選んだのか。先生はそれを伝えるために、部員全員を集合させたはずなのだから。

 ――県大会出場メンバーは以上の通りだ。今年は、各地区大会で強豪校が軒並み予選落ちするという、波乱の事態が起きた。

 これは僕も知っていた。優勝候補の学校の第一走者が脱水症状を起こして倒れ、タスキを繋ぐことができなかった。こういった、メンバーの誰かが走行中にトラブルを起こし、棄権するという事態が、強豪校に続けて生じたのだ。

 他人の、他校の、不幸を喜んではいけないけれど、運は僕たち三崎中の味方をしてくれていると感じた。おまけに、三崎中は今年、奇跡のチームと呼ばれるくらい、選手に恵まれている。多分今年限りだ。今の一年生に期待できる選手はいない。

 全国大会に出場できる、最初で最後のチャンスだと、皆が思っているはずだ。

 なのに、良太が選ばれていない。

 ――良太を控え選手にしたのは、県大会のコースが、どの区間も、激しいアップダウンの続く、膝に負担がかかるコースだからだ。

 確かに、どの県もこんな山奥のコースを走っているんだろうか、と去年走った際に思った。強豪校が山間部の地域に多いことにも納得できた。

 県大会で足を壊して、全国大会で走れないのでは、他のメンバーを全国に行かせるために、犠牲になるようなものだ。

 ――全員が地区大会通りのタイムを出せば、優勝は夢じゃない。いや、良太を全国大会で走らせたい、という気持ちをもって臨めば、県大会でも、全員が自己ベストを更新できると俺は信じている。

 目だけを動かして左右を見ると、皆、先生をじっとみつめながら力強く頷いていた。

 ――選手の思いだけじゃない。控え選手、それにも選ばれなかった長距離部門のメンバー、種目は違えど、共に切磋琢磨してきた陸上部員全員、そして、支えてくれた保護者の方々。すべての思いがこめられたタスキを繋ぐのが、駅伝なんだ。

 村岡先生の言いたいことは理解できた。だけど、最後まで、僕は頷くことができなかった。できない理由もわからなかった。

 しかし、メンバー発表時のどよめきやとまどいが漂った空気は、先生が話し終えたころには、すっかり晴れているように感じた。

 解散後も、良太はもちろん、他の三年生の部員も、駅伝メンバーについて不服を唱えることはなかった。僕にしても、良太が納得してるならまあいっか、くらいにまで気持ちは落ち着いていた。

 帰り道が逆方向なら、良太はあの話を別のところで僕にしただろうか。互いに、スマホは持っていない。

 ――俺のため、じゃない。

 自転車に乗った背中越しに、良太の吐き出すような声が聞こえた。

 ――えっ?

 振り向くと、声の調子とは裏腹に、良太の顔はいつも通りのひょうひょうとした表情だった。だけど、僕は良太の顔は膝に立っていられないほどの激痛が走ったときも、これと同じだったことを思い出し、自転車を停めた。良太も自転車を停め、僕の方をまっすぐ向いた。

 ――昼休みに、村岡先生に呼び出されたんだ。今日、メンバー発表をするって。

 ――やっぱり、先に良太に伝えてたんだ。

 ――だけど、さっき、みんなの前で話したことだけじゃない。もちろん、膝のことも言われたけど、むしろ、そこでやめておいてほしかったよ。まあ、俺が、全国で走れなくなってもいいから県に出たい、って言ったのがまずかったんだろうけど。

 ――良太が走りたいって言ってんのに、外さなきゃなんない理由なんてあんの?

 まったく思いつかなかった。良太は口を開いて、続きを話そうとしたけれど、あっ、と何か思い出したふうに、顔をしかめた。

 ――何? 僕に関係すること?

 ――そうじゃないけど……。気を悪くしたらゴメン。田中のお父さんが、癌か何かの病気なんだってさ。今年いっぱいもつかどうかの。

 良太が言い淀んだ理由がわかった。

 ――田中がお父さんを喜ばせたいから、県大会も走らせてほしいって、村岡先生に頼んだってこと?

 僕が訊ねると、良太は首を横に振った。

 ――多分、田中や田中の家族が頼んだんじゃないと思う。

 確かに、メンバー発表で名前を呼ばれたとき、田中は心底驚き、とまどっているように見えた。

 ――先生は田中の担任だから、お父さんの病気のことを知って、見舞いにでも行ったんじゃないかな。そこで、いつもの調子で熱くなって、息子さんもがんばって全国大会を目指すので、お父さんも負けないでください、みたいなことを言っちゃったんじゃないかと思う。

 良太の想像を、僕も鮮明に思い浮かべることができた。もしかすると、見舞いにも行かず、余命わずかという情報だけで、先生が勝手に暴走しているんじゃないかとも考えた。

 ――まあ、田中は地区大会、本当にがんばったからな。自己ベスト、四〇秒更新だっけ? 正直、あんなに速く走れるとは思わなかった。まだまだ伸びそうな気もするよ。

 良太は田中を憎らしく思ってはいないようだ。

 ――だからって、良太を外すことないじゃん。

 ――じゃあ、誰を外すの?

 僕はすぐに答えることができなかった。学年順でいえば、もう一人の二年生メンバーだけど、彼は良太に次ぐエースだ。三年生メンバーを誰か外す? 田中の記録が上がったとはいえ、僕を含め、田中より遅いヤツはいない。

 ――先生がメンバー全員に田中のお父さんのこと話して、頼む、誰か一人外れてくれ、って頭下げて、引き受けるヤツなんている?

 僕は無理だ。

 ――逆に、そんなことしたら、田中自身が辞退するだろうし。俺の膝を心配するふりをするのが、一番まるくおさまるんだよ。

 体の中心が震え、徐々に全身に広がっていった。そんなのおかしいよ、という叫びが喉元まで込み上げている。それをゆっくり飲み込んで、良太に訊ねた。

 ――あきらめていいの?

 他人である良太のことで、歯を食いしばっていないと震えが止まらないほどの腹立たしさが、全身を覆っているのに、良太本人は、まるで他人事のように、淡々と話している。

 僕は、良太が答える前に、言葉を重ねた。怒りを、体内から放出するように。

 ――このことを三年全員に話して、村岡先生に抗議しに行こうよ。どうせ、先生は一時的な感情に流されているだけなんだから。僕らがこの三年間、どれだけ練習を重ねてきたかは、先生が一番よく知ってるはずだ。全員で訴えれば、先生も間違ってたことに気付くはずだよ。

 ――ありがとう。

 良太は少し照れたように笑った。シュッと消火剤をかけられたような気分になる。

 ――いや、そうじゃなくて……。

 僕に怒りを再燃させるエネルギーは残っていなかった。もやもやとした思いがくすぶっているだけだ。

 ――俺だって悔しかったけど、理由がバカバカしすぎて、逆に、もういいやって思ったんだ。でも、やっぱり、誰かに聞いてほしくて。圭祐が怒ってくれたおかげで、もう本当に、どうでもよくなったよ。

 ――そう……、なんだ。

 言われてみれば、自転車を停めたときよりも、良太の顔は晴れやかに見えた。

 ――それに、決意もできた。

 僕は一瞬、良太が陸上をやめると言い出すのではないかと、ドキリとした。どうか違いますようにと、おそるおそる訊ねた。

 ――何の?

 ――推薦。青海学院から来ているんだ。

 私立青海学院高等学校は、県内有数のスポーツ強豪校だ。特に駅伝では、ここ二年は出場を逃しているけれど、全国大会の常連校として知られている。

 ――すごいじゃん。まあ、良太なら当然か。

 ――そんなことない。この夏の大会に出場できなかったから、三〇〇〇メートルの記録も、去年の県大会のタイムのままだし。

 四位入賞した好記録だ。

 ――やめとこうかなって、迷ってたんだ。

 ――ええっ、どうして? もったいない。

 もしも、自分に来たら、夢のような話なのに。

 ――県内のライバルたちはみんな、二年生のときより、うんと伸びている。だけど俺は、今の記録が人生のベストタイムになるかもしれない。

 そんなことを言われると、視線は良太の膝に行ってしまう。ジャージの長ズボンの上からでは、何もわからないけれど。無責任に励ますこともできない。

 ――だから、今回の駅伝には、願掛けのような思いもあったんだ。去年のタイムを一秒でも上回ることができたら、まだ終わりじゃない。青海学院に行こうって。

 ――それじゃあ、なおさら……。

 村岡先生に対する怒りがまた込み上げてきた。練習している姿だけではない。先生は良太がケガと戦い、克服する姿だって、間近で見ていたはずじゃないか、と。

 ――いや。自分が勝負をかけるのはこんなところでじゃない、って思うことができた。私立の強豪校なら、絶対に家庭の事情なんかで選ばないはずだから。実力でレギュラーを勝ち取って、全国で走ってやるんだ。

 良太の視線は僕の方を向いているけれど、僕を通り越し、もっと先を見ているように感じた。

 僕は県大会のことで頭がいっぱいで、そのあとのことなどまったく考えていなかった。受験勉強をして、自宅から近い公立高校で、陸上部に入るのかどうなのか……。

 ところが、良太はとんでもないことを言い出した。

 ――圭祐も、青海学院行こうよ。陸上部でまた一緒に走ろう。

 僕はぽかんと口を開けたままの、間抜けな顔で、良太を見返したはずだ。

 ――いや、いや、いや……。僕が青海学院なんてありえないよ。第一、良太みたいに推薦の話だって来るはずないし。

 ――一般入試で入ればいいじゃん。

 ――いや、それだって……。

 青海学院はスポーツに特化しているだけの学校ではない。

 人間科学科という、全員がスポーツ推薦で入るコースの他は、名称こそ文理科という単純なものだけれども、超がつくほど偏差値が高い。県内有数の進学校でもあるのだ。

 ――圭祐の成績なら、この冬からスパートかけたらいけるよ。

 ――そうかな。でも、授業料がな……。

 通学できない距離ではない。しかし、公立の三倍かかるといわれる授業料を、母さんに負担してもらうのは気が引ける。

 ――奨学金制度もあるらしいよ。

 前から、僕のために調べてくれていたような口ぶりだ。それでも、まだ抵抗はある。

 ――あのさ、良太が誘ってくれるのは嬉しいけど、僕じゃなくてもいいんじゃない? 青海入ったら、速いヤツ、いっぱいいるわけだし。

 謙遜ではない。そもそも、僕なんか、青海学院に受かっても、陸上部に入れてもらえるかどうかすらわからない。

 ――全国大会を目指してるチームの選手が何言ってんの?

 ――あっ……。

 県大会に出ない良太にとっては、中学での活動は、長い陸上人生の通過点。そんなふうに勝手に解釈し、県大会で走る自分にとっては、陸上人生のゴールだと、無意識のうちに決めつけていた。

 ここがマックス。人生のベストタイム。

 良太が言っていたことと同じ思いを、僕こそが持っていた。だから、良太は僕に、次の道を示してくれているのか。

 ――圭祐はもっと速くなる。

 ――そう、かな……。とりあえず、県大会でベストを尽くすよ。

 嬉しい! ありがとう! そんな単純な言葉を口にすることができず、僕は確実にできそうなことだけを言って、自転車のハンドルを強く握りしめた。

 良太はそれを、帰ろう、の合図だと勘違いしたのか、「じゃあ」と自転車にまたがった。

 互いに無言のまま自転車を走らせる目の前には、真っ赤な夕焼けが広がっていた。

 ペダルを一漕ぎするごとに、全国大会に行けたら、青海学院に行って、陸上部に入ろう、という思いが強まっていった。

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