ご飯を食べよう!
彼女から「ご飯でもいかがですか」という連絡がきたのは、美術館から1週間ほど経ってからだった。
私は小躍りしたい気分になった。白状すれば実際に小躍りした。
深夜の公園で1時間にわたって前衛舞踏を披露し、全身の筋肉痛と不審者情報を生成した行為を“小躍り”、と表現して差し支えなければ、私の喜びようは正に小躍りであった。
しかし私は重大な問題に気が付いてしまった。致命的だ。私は相沢のもとへと走った。
「よお相沢!金貸して!」
そう。金がないのである。
ただでさえ我が家計は火の車だったが、この間の美術館の入館料や交通費、相沢に指示された「最低限の身だしなみ」(特にこれが高かった)によって出費がかさみ、いまや台所は全焼目前である。
「エロ本代なら貸さないよ」
「違うのだ、相沢!飯に誘われたのだ、彼女に!」
「倒置法ばかりで気持ち悪いな。それはよかったじゃないか」
相沢はやけに嬉しそうである。
「もうどこに行くのかは決まってるのかい?」
「いいやそれはまだだが、女子大生というのは不必要に間接照明を設置して大きな皿に二口分づつ飯が盛られている、いわゆるオシャンティな店を喜ぶのだろう?」
「偏見がすごいな」
「そしてオシャンティというものはえてして高価だと風の噂で聞いたことがある」
「噂じゃなくて経験則から学んでほしかったな、それは」
「そしてやはり彼女にいいところを見せたいという気持ちもあるし、程度はさておき代金は多め以上に払いたいと考えている」
「なるほど」
「つまり、金を貸してくれ」
「部屋のエロ本を売れ」
「この悪魔!」
自室にため込んだ桃色コレクションを売却すればある程度の資産になることは分かっているが、あれは極めて学術的な価値の高いものだ。これを市井に流すのは見識学的知見からあまりに辛い。
社会的功利主義の観点からも相沢の財布に頼るのが最善だろう。
「不安ならばまあ多少なら貸してやらんこともないけど、そこまで心配することはないと思うよ」
「なんだその含みのある言い方は。気に食わんな。味噌汁ぶっかけるぞ」
「金の無心をしている人間の態度だとは思えないな…」
彼女と飯の行き先の相談を始めてほどなくして、「私が誘ったんですし、ご飯に関しては私がやります。せんぱいはラフな感じで来てください」とのメッセージが来た。
彼女に全部丸投げするのは申し訳なかったので何度か食い下がってみたが、もうこれは決定事項らしい。致し方ないので「ラフな感じ」の意味を探る禅問答をはじめるほかなかった。
さて当日。待ち合わせ場所として指定された少し郊外の駅前で彼女を待っている。
もっとこう原宿だ新宿なんだというあたりに行くのだとばかり思っていたから、少し意外だ。
まあ『静かな郊外の隠れ家的な落ち着いたカフェ』みたいな謳い文句も大いに想定できるので、そういう心積りでいるべきだろうか。
「せんぱい、お待たせしました」
「ひゃいっ!」
背後から彼女が現れた。まったく、君はいちいち私の心臓を止めないと気が済まないのか?望むところだぜ。
彼女はシンプルな白紺のワンピースを着ている。夏の足音を感じさせる涼しげなデザインだ。そこに少し大きめのキャンバス地のバッグを肩掛けしている。足元は底が厚いコルク地でできた、黒いリボンで編んだみたいなサンダルだ。めっちゃかわいいな。
なるほど、確かにラフな格好だ。「会場へは私服でお越しください」の罠に引っかかり、スーツ集団に半袖半パンで突撃した哀れな友人の事を思い出して燕尾服を用意しようとした私を、殴ってまで止めてくれた相沢に感謝しなければ。
「それじゃあせんぱい、行きましょうか」
彼女は近接した自然公園の方へすたすたと歩きだす。行先は緑の中のカフェといった感じだろうか。
ふと気が付いたが、彼女のバッグは大きめなだけでなくやけに重そうだ。この後にも予定があって着替えでも入れているのだろうか。ここは紳士なところを見せるべきだろう。
「あ、荷物持つよ」
すると彼女は驚いて目を見開くと、私から距離をとってバッグをギュッと胸に抱いた。
「え、…嫌です…」
その言葉は私の心に深々と刺さった。馴れ馴れしくしすぎたのだろうか。
やばい、ちょっと泣きそう。
「あ!いや違うんです、せんぱいに持たせるの申し訳ないなって!ホントそれだけなんで!嫌とかじゃなくて結構ですってことで!」
「いや、こちらこそ申し訳ない…気にしないでくれたまえ…」
もしかすると、自分の着替えを男に持たれるのは嫌なものなのだろうか。だとしたらデリカシーのない発言をしてしまった。女心は難解だ。
「………」
「………」
うわ、気まずい。
沈黙が続く。何とか会話をしなければ。
「今日はいい天気だな」
「そうですね」
「………」
「………」
会話が終わってしまった。困った。沈黙が焦りを加速させる。
ここは相沢に授かった秘策を用いるしかあるまい。
「服、素敵だね。特に靴がとてもいい」
「――ッ…!」
彼女は歩みを止めてこちらを向き、口をパクパクさせている。みるみるうちに顔が耳の先まで真っ赤に染まった。
数秒間、彼女はいったいどうしたのだろうと呆けた顔をしていたが、やっと自分の吐いたセリフがとんでもなく気障なものであったことに気が付いた。
会話を続けなければという焦りから、とんでもないことを口走ってしまったらしい。
自分の顔が紅潮してゆくのがわかる。
「………がとうございます……。」
下を向いた彼女が消え入りそうな声で言う。
「いいえ……」
私もたまらず下を向く。
うつむいた二つの焼き林檎は、一層黙り込んで歩いていった。
「ここでご飯にしましょう」
彼女が歩みを止めた。見れば日当たりのいい芝生の広場だ。しかしあたりにカフェのような建物はない。
これは一体どういうことだろうか。
まさか私が春先に生活費が底を尽きて食費をどうしても捻出できなくなった際、キャンパス内の林に自生する山菜を天ぷらにしてカロリーを稼いでいたことが、彼女に知れてしまったのだろうか?
まさか彼女は私がそういう嗜好の人間だと勘違いしたのではあるまいな?
そんなことを考えていると、彼女はレジャーシートを敷き始めた。
「せんぱい、突っ立ってないでどうぞお座りくださいませ」
彼女はなにやらニヤニヤ笑っている。
「何が何やらわからないって顔してますね。ふふふ、きょうはお店には行きません!」
え、ほんとに野草天ぷらやるの?
彼女は「じゃじゃーん!」と言うと、自分で効果音をつけたのが少し恥ずかしくなったのか少し頬を赤くしながら大きめの包みを取り出した。
「今日はお弁当を作ってきました‼」
「……………………」
感無量だった。
もう何の言葉も出てこない。
涙がこぼれないようにこらえるのに必死で、唇をギュッと結んで、弁当の包みをじっと見つめていることしかできなかった。
作ってくれた?彼女が?これを、私と食べるために?こんな幸せがあっていいんだろうか⁉
「あの、せんぱい…」
彼女が怪訝な顔でこちらを見る。
「もし苦手だったりしたら、ほんと無理しないでください。晩ご飯で食べますから」
瞬間、私は彼女の手を握っていた。
私自身、なぜそんなことができたのか分からない。
身を乗り出して彼女の手を握って、紫水晶の瞳を真っ直ぐ見つめた。ふわふわした髪のシャンプーの香りに包まれる。
「ありがとう。いただきます」
ふとここで正気に戻った。慌てて手を放す。
「どうぞ…お食べください……」
彼女が明後日の方向を向きながら上ずった声で答える。
その後、私たちはおにぎりを落とすわお茶は零すわで、まるで人間に転生したて一週間目かのような拙さで弁当を食べた。
残念ながら味はよく覚えていない。
しあわせの感覚だけが残っている。
駅での別れ際に、はたとお金のことを思い出した。
これは彼女に奢ってもらった形になってしまったのではあるまいか?
「おべんとう、美味しかった。ありがとう。材料費は出すよ」
財布には相沢からせしめた金が詰まっていることだし。
しかし彼女は眉根を寄せると、ずいとこちらに顔を突き出してきた。
「せんぱい、それは野暮ってやつですよ」
「いやしかし…」
「じゃあそれなら…」
彼女はいたずらっぽく笑う。
「こんどまたどこかに連れて行ってくださいね。お代はそれでいいです」
彼女はそこまで言うと返事をする間もなく電車の中に消えていった。
今日は電車の走行音が「きゅん、きゅん」に聞こえる。
あ、これは僕の胸の音か。
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