第5話 クロんクロむクロる≪分枝系色彩塩化石灰≫

     1


 逆さ吊りで市中引き回しのほうが幾分もマシではないだろうか。

 ひどい運転だった。ひどいなんてもんじゃない。

 ひどすぎる。

 脳味噌がぐちゃぐちゃに攪拌されてるせいで、天と地の区別がつかないほど宿命的な上下不覚に陥ってる。

 全方向の重力が拒絶されたただっ広い空間に、

 たった一人で置き去りにされたみたいな無力感と。遠心分離によって、

 身体内部の臓器が残らず排出されてしまった空虚感と。

 ばっくれてもいいだろうか。むしろばっくれたい気満々なのだが、

 如何せん。

 重い。ここまで重量級だとは思いも寄らない。

 三億分の札束だってこんなに重かない。

 三億分の札束よりも遥かに重いくせして、きっかり三億分の札束の価値しかない。

 詐欺だ。ぼったくりだ。

 このままばっくれれば目的は果たされる。社長サンを見殺しにして。

 現地解散で置き去りにした現社長サマが悪い。

 俺の目的は、宿主の命を危機一髪のところで救うことではない。

 これだ。この、

 臓器シリーズ

 最高傑作と名高い。

 心臓

 これさえ手に入れば。無事に明け渡しができれば。

 社長サンがどうなろうと、KREが滅ぼうと。どうだっていいのだが。

 重い。

 動く気配がない。

 ついさっきまで現社長サマの、泣く子も凍りつく遠心分離器的自動車で攪拌の刑に処されていたので。

 車に載ったのだ。載せた人間がいる。

 人間じゃない。

 たまたま通りかかった人間以外が、ひょいと。現社長サマのお手伝いを買って出たのだ。その末恐ろしい立ち居振る舞いに竦みあがって脊髄反射で。

 そうでなければあり得ない。

 もっとあり得ない。車から降りている。降ろした人間はついいましがた、

 遠心分離器で走り去った。

 どうゆう怪力だ。

 びくともしない。もしかすると合言葉で足が生えたりは、

 しないか。

 鳥居横付けなのは有り難いが、どうにもこうにも。

 社長サンを救うには俺単体では不可能だ。からこそ、

 現社長サマはわざわざ。忘れものだなんだと道を引き返してこんな重いものを持ってきたのだ。

 持ってきたら持ってきた本人が現地まで運ぶのが筋ではないのか。責任を持って。

 どうして自分で行かない?

 KREの問題だ。俺には関係ない。

 俺に関係するのは、この。気色の悪い金属の塊。

 入手を報せれば取りに来てくれるかもしれない。欲しいならお前が来い。

「返しにきていただいて有り難うございます」どこからともなく平行移動してきた緋の巫女が。

 心臓をがっちりホールドしている。抱き枕のごとく。

 いつの間に。

「正直なあなたには必ずや幸が」

「要らんわ、んなもん」返せ、の代わりに。心臓を。

 触われない。いま、

 動かなかったか?緋の巫女が抱きかかえて。

「返していただいたお礼に、不当な監禁に遭っている方々を解放するお力添えをしましょう。付いてきてください」と言うと、心臓を。躊躇いもなく蹴り倒して。

 蹴り倒れた。

 下が石畳じゃなくてよかった。砂地で。

 砂埃が上がる。

 地響き。

 やはり重いのだ。地面に窪みができて。

 これまたどこからともなく持ってきた竹ぼうきで。転がし始めた。

 転がる。

 いろいろと重力と質量の関係がおかしくないだろうか?

「ちょお、どないなって」呼び止めようとしたが呼び止まらない。

 竹ぼうきによる緋の巫女のための心臓カーリング大会が開幕してしまった。

「ご案内します」

「どこ?」

 てゆうか、それ。

「持ってかんといて」俺の。心臓。

「私はあのにやけた偽善者が大嫌いです」朝頼アズマのことだろう。「あいつを不幸に叩き落すためなら」なんだってします。

 緋の巫女が真顔で云う。

「四の五の言わずに付き合ってください」

 嫌とは言えなかった。


      2


 嫌とは言えない。

 総裁は俺だけ逃げろと。自ら犠牲になると申し出てくれている。

 何のために?

 何の得がある?俺なんか生かして。

「君に死なれては困るのだよ」誰に気を遣ってる?「社長が悲しがるじゃないか」

「どうでしょうか」悲しがるか?いないほうが。

 俺は、生まれてこないほうがよかったらしいから。

「総裁が出てはいかがですか。そのほうが」社長も喜ぶ。

 俺が死んで、

 総裁が生き残る。このほうが利点が大きい。

 俺の代わりは幾らでもいるが、総裁の代わりが。

 朝頼アズマでは、KREは吸収合併させられてしまう。遅かれ早かれ。

 照明は、オレンジの裸電球のみ。

 寒くもないが暑くもない。この世から追い出された吹き溜まりの空気がどん、と居座っている。居心地の悪い空間だ。

 この茶褐色のような黒褐色のような部屋の趣旨は、総裁から聞いた。部屋内の質量を百キログラム以下にして扉を閉めると。内容物が黒焦げになるらしい。

 死ぬんならもっとまともな方法がよかったが。

 生き残るには総裁を犠牲にするほかない。とかいうことだが、それでは。

 いくらなんでも寝覚めが悪い。

 白竜胆会そのものに喧嘩を売ることと同義。できればあまり周囲に敵を作らないように穏便に生き抜きたい。とかいってるから付け込まれるのだ。白竜胆会に。

 浅樋うすほに。

 扉にロックは掛かっていない。出ようと思えばすぐにでも逃げられる。

 総裁を置き去りにして。

「何をしているんだい」総裁は立とうともしない。「私のことはいいから早く」

「参考のために聞いておきたいんですが、総裁の体重は」

「訊いてどうするんだね。君がここから出ればいいだけの」

「何キロですか?」

 総裁は七十とちょっと。俺は、いくつだったか。最近測ってないからいまいち正確な数字はわからないが。五十そこそこだったろうから。

 なるほど。いまのところ二人合わせて百キロオーヴァだ。

 ケータイは没収された。気を失っているときに浅樋うすほが持ち出したのだろう。

 扉を開けても百キロを切らなければ大丈夫らしいので。「誰かいないですか?すみません」原始的な方法に頼ってみる。表は夜のようだが。

「無駄だよ。境内の裏の森だ。誰も来やしないさ」なんでこんなに余裕なのだ?

 死を受け入れている?

 自分はここで死ぬ。ことを唯々諾々と承知している。

「死にたいんですか?」死んだら困るだろう。という意味ではなくて。

 本当に死にたいのか。単純な意思の確認。

「貴方が死んだら白竜胆会は」

「息子がいる」朝頼アズマだ。公式で次期総裁に内定している。「もしものときは頼むと、くれぐれも言いつけてある。私亡き後あれをどうしようと私の知ったことではないさ。存続させるなり好きにすればいい」

「意外ですね。もっと執着があるのかと」

「ないさ。私がこんなことをしているのは」

 扉は開けっ放し。

 なにかが。転がってくる。

 聞き覚えのある抑揚と共に。「せやからちょお、待ちい。なあ?三億キズもんにしたったらあかんて。それ三億やさかいに、三億やぞ三億」

「何してるんだ」純粋に質問したかった。

 緋色の袴を履いた巫女が、

 全長一メートルほどの不可思議な塊を、竹ぼうきで転がしながら。

 扉の前で停止。「間に合ったようですね」

 それをぎゃあぎゃあ喚きながら追ってきたうちのバイト。

 臨時だが。「俺の三億」

「三億がどうしたって?」まさかその、如何わしい物体が。「三億?」

 これか。かけゆきが言っていた。

 こんなもののために俺は。

 ツネが屈んでその塊を間近で検分する。傷がないかどうか確めているらしかったが。あの山道を竹ぼうきで転がしてきたんなら。「あかんたれ。ハゲ散らかってはる」

「おい」無視するな。「何しに来た」今更。

 勝手に出ていっておいて。

 どのツラ提げて。

 会えばいい。俺が。「そいつに眼が眩んだんだろ」三億。

「あ、おばんどす。しゃちょーサン」見もしない。そんなにだいじか。

 三億が。

 三億くらい。

「本当に何しに来たんだ」用がないなら帰れ。

「助けに参りました」巫女が云う。黒くて長い髪が背後の夜と同化する。「総裁?そちらの都合で勝手に命を絶たれますと、会員の方に大ホラ語って歩かないといけなくなるのは私です」

「君か」総裁が溜息をつく。安堵以外を表していることだけはわかった。「まだ根に持っているのかね」

「当然です。どうして私ではないのですか?男尊女卑です」

「私の意志ではないさ」

「インチキなお告げ?」

 総裁がまたも溜息。

 今度は深く長く。「我が儘を言わないでくれ。君にはヤシロを任せると」

「あんなものもらっても嬉しくもなんとも」

「まーまー、そんくらいに。親子喧嘩は」見かねたツネが仲裁に入るが。

「親ではありません」

「子ではないさ」同時だった。

 親子じゃないのか?てっきり朝頼アズマの妹か何かだと。

 その理屈っぽい粘着質なところとか。そっくりではないか。

「助けるのと違うん?」

「助けますよ」巫女がたったいま思い出した。みたいな素振りで。

 へんてこな物体の端を蹴り上げて。

 立たせる。「助けますから退いててください」

 退けと言ったら普通は、退くまで待つのが筋じゃないのか。

 退いててくださいのアナウンスと、

 物体を蹴飛ばすのが同時とはこれ如何に。

「あー、そないにらんぼーに」ツネはひやひやだ。三億を眼の前で蹴飛ばされては黙ってもいられないだろう。

 転がった物体は総裁の膝付近で急停止する。

 そうゆう魔法をかけたのかもしれない。呪いか。

「出てください。ドア閉めますので」巫女が有り難い説法みたいに云うが。

 出るったって。「出たら」黒焦げでは?

「つべこべ言わずに出てください。死にたいんですか?」

「百キロ切ったら黒焦げだとか伺ってますが」つべこべも言いたくなる。

「ですから百キロ切らないように転がしてきたんです。こんな重いものを。どんだけ重かったと思ってるんですか」逆切れし出した。巫女は扉に手をかける。「出てください。あのチビに地団太踏ませたいんです」

 チビ?目線でツネに確認を取ったが。おそらくは、

 朝頼アズマのことだろうと。

 兄妹喧嘩か?

「百キロ?したんですか」これが。

 百キログラム?するものを竹ぼうきで転がしてきた?

 ツッコミどころは多々あったが、せっかく助けに来てもらったので。

 お言葉に甘えて外に出るとする。

 夜風が体温を奪う。冬支度の大樹の真下にそれはあった。

 外から見ると、周囲の鬱蒼とした森に溶け込んでいるとも言えなくもない。夜だからかもしれないが。

「助けに来てくれたのか」三億を、人質ならぬ物質に取られて。「悪かったな」

「そらずどかん勘違いやわ、しゃちょーサン」ツネは黒い部屋を覗き込む。「わかってはったやん。せーかいやて」そいつに眼が眩んだんだろ。

 行きがかり上でも、もののついででも。

 助けに来てくれたことには変わりない。「俺の命は高いぞ。なにせKREの次期」

「あーそら帰ってからにしたって」

「出てくださいと言ってるんです」巫女は引き続き説得中だった。「こんなところで死んでどうするんですか?馬鹿莫迦しい。未練があるんじゃないんですか?」

「ないさ」総裁は三億を撫でる。愛おしそうに。「神像と共に逝けるというのならこれほど名誉なことはない。さあ、扉を閉めてくれ」

「あんたが出てからね」巫女とツネを押しのけて。

 中にずかずかと。

 いつもの格好。フォーマルスーツ。ただしいつもより配色が大人しめだった。

 法事の帰りみたいな。

 黒一色。

「社長」総裁は驚いたようだった。多少だが。「どうしたんだいこんな」

 俺も驚いた。

 やっぱり多少だが。

 何しに来たんだ?

「あんたまだ一度も家賃払ってないわよ」


      3


「あんたまだ死んでないでしょうね」ケータイがつながってよかった。別人が成りすまして代返をしていない限りは。

 生きてる?の定義が曖昧だけど。

「もとえさんは?どちらに」

「鳥居のとこ。どうせ近くにいるんでしょ?」正しくは、鳥居にフジミヤ君とグロテスクな三億の塊を置いて走り去ってから数分経ってるので。

 白竜胆会の総本山。

 世にも怪しい半球状のドームがぼこぼこ見える。

「わたくしなどに構わず、早く行ってくださいな。もとえさんのだいじな」

「だいじな?なによ」つる?それとも。

「ねえ、もしかして運転しながら」

「細かいとこうるさいわね。停めるわよ」路肩に停車。

 ハザード。降りて探してもいいけど、

 たぶん、

 向こうがこっちを見つける。やってくるかどうかは別として。

 やってこようかどうかうだうだやってるとこを無理矢理引っ張ってこればいい。

「お写真は見まして?」フジミヤ君が転送してくれたあれだ。

「あれってあれでしょ?」重さが「百キロ切ると黒焦げになるってゆう」

「憶えててくださったのね」

「あのときあんたがあたしにゆったこと」どちらかを犠牲にしないといけないように見えるけれど、ありますのよ?二人ともが無事に外に出る方法が。

 もとえさんにだけ、

 教えますわね。

「憶えててくださって嬉しいですわ」

「だからくれたわけ?」三億。「両方助けられるように」

「重くて苦労しましたわ。泥棒呼ばわりまでされて」

 バックミラー。いる。

 近づいてくる。

 喪服の。「ねえ、もとえさん。さねあつさんの父親が誰か、興味はございません?」

「あの子はあたしの子よ。それじゃいけない?」強がりじゃない。

 いまそんなこと聞いてる時間なんか。

「調べたわけ?あたしに黙って」

「ええ。知りたかったんですもの」なんでそんな、

 悪びれもせずに。

 すごいでしょ?わたし。みたいな自慢げに。

「あたしの子なのよ?」

「りつるがではございませんわ。残念ですけれど」

「知ってる」

 ミラー。

 うすほの真っ直ぐな眼が。「怖かったのでしょう?真実を知って絶望するのが」

「時間とカネの無駄だっただけよ」虚勢でもない。

 駄目だ。

 聞いては。ケータイを耳から。

 話せば聞こえなくなる。けど、

 そうしたら。

 直接話しかけてくる。ウィンドウを叩き割ってでも。

「覚悟はできまして?いまからお話しすることは」

「そんなまだるっこしいことしないで」電話を切る。

 ウィンドウを下ろして。

 顔を出す。「乗りなさい。聴いてあげるわ」


      4


「何の話だね?」

「とぼけないで。あたしが払ってないったら払ってないの」総裁の首根っこを捕まえて。軽々と移動する。「家賃踏み倒して死ぬ気?あり得ないわ。このあたしに家賃払わずに死ねると思ってるの?」

 白竜胆会が払う家賃?

 あったか?そんなもの。

 あったとしても白竜胆会じゃなくて、総裁個人だ。だとしても、

 家賃なら。

「口座引き落としにしているはずだが」総裁は特に抵抗しなかった。力では。

 敵わないとわかっている風だった。

 いつもそうやって強引に取り立てているみたいじゃないか。KREが。

「とにかくこんなとこでおちおち死んでないでさっさと払いに来なさい」意図も簡単に外に引きずり出した。

 なんでこんな怪力なのだ女というのは。どこに隠し持ってるのだ。

 総裁がしぶしぶ立ち上がる。「だから口座引き落としになっては」

「あのね、口座に入ってる分じゃ足りないのよ。どんだけ滞納してると思ってんの」

 あー、というツネの呻き声が聞こえると思ったら。

 扉が閉まっており、微かだが。

 轟々と。

 すぐ壁の外にいるのにちっとも熱くないので防火なんだろうと。窓がないので中を確認できないが、とにかくにも。

 三億は、

 灰になった。

「幾らだね」総裁が凄まじいカードを社長に渡そうとするが。

「三億よ」笑顔で突っ返す。「きっちり耳揃えて持ってきなさい。振込みなんか認めないわ。直接よ」

 疲労がピークで幻覚かなにかを見たんだろうと思うが。社長の笑顔?

「あのー、しゃちょーサン」ツネが呼びかけたのは、

 自惚れでも自意識過剰でもなんでもなくたぶん俺なんだろうと思うが。

 社長と呼びかければ、

 社長が振り返るだろう。正真正銘の社長が。「なによ?」

 ツネが俺を一瞥して。

 俺にも聞いてろということだ。それかただしくじったという自己反省か。

「止めよと思うたんやけど」出入り口を見遣って。「なんやらお取り込み中やったさかいに。中に」

「誰かいたのか」もともと俺と総裁しかいなかったところに、

 百キロが殴り込んできて。俺たち二人が出れば、

 中には。「いないだろ?」

「せやのうて。しゃちょーサンがそーさいはんを引きずって」この文脈の社長は俺じゃない。現社長。「家賃がどーたらやってはる間に」

 誰かが、

「入ったのか?」入った?だって中は。

 轟々と。

「誰が」入った。

 誰も減ってない。俺と、

 総裁と、

 社長と、

 ツネと、

 巫女と。

 現状維持じゃないか。

 五人。

 しかし、社長の顔色が。「まさか。ちょっと」出入り口を叩く。

 無意味なノック。

 応答はあるはずも。いないだろう。誰も。

 誰も減ってないんだから。

「なんで止めなかったのよ」社長がツネに掴みかかろうとするので。

「落ち着いてください」割って入る。「誰がいるんですか?誰もいなくなって」ない。

「うすほよ。うすほなんでしょ?」社長は目撃者のツネに確めると同時に、

 壁の向こうに話しかけている。

「うすほ。どうして」

「本当なのか?」

 ツネは浅樋うすほの顔と名前が一致しない。「髪がこう、ふわふわしてはって。存在も浮ついた感じの。カッコは喪服みたいな真っ黒でかちっとした」

 本人確認のつもりで社長を見る。

 見てられない。出入り口を抉じ開けようとしている。

 ところを総裁に止められた。「危ないよ。離れてくれ」

「あんたなんでそんな落ち着いてられるわけ?うすほが」燃えてる。

「黒い車を呼ぼうか」

 そんな音が聞こえた。


      5


 どんな音も聞こえない。

 無音の中、

 無音で。無音が駆け抜ける。

 このまま走ったら諸共に追突する。

「もう一回言ってくれる?」聞き間違いなら忘れるし。真実なら、

 とどめの一撃。

「よく聞こえなかった」

「ええ、何度でも言いますわ。さねあつさんは浅樋の血を」引いていない。「岐蘇の血も引いていません。もとえさんとは」まったくの他人。

 眩暈がした。

 駐めよう。やばい。

「急いでくださいな」うすほが、

 あたしの手に触れる。

 ギアを操作しようとしたあたしの。

 つるりとした小さな手だった。「どちらも助けたいのでしょう?」

「殺すんじゃなかったわけ?」さねあつを。「話が違うじゃない」つるには、

 手を出さないと。

「無理ですわ。わたくしに、できるはずがありません。もとえさんの子の心臓を止めるなどと、土台無理な試みでしたのよ」

 試み。

 なによその実験でしたみたいな言い草。

 うすほの案内で、近くのコインパーキングに入れる。下手に路駐してやれやれ帰ってきたら攫われてたなんてシャレにならない。

「来るの?どっち?」答えはわかってたけど一応訊いた。

「血の気が引いてますわよ?」うすほはあたしを見ずに言った。

 うすほには見えている。

「誰のせいで」

 うすほは眼を瞑る。「わたくしのせいですわね」

 駄目だ。こんなとこでイライラしてる場合じゃない。

「さっきの話。あとで詳しく聞くから」聞きたくもないけど。

「ええ、遺伝子上の父親の立ち会いの下お話しましょう」

 なんでいま言うの?

 いまじゃなくたって。

 うすほを置いてきたことを後悔する。場所がわからない。


      5黒


「今頃後悔してますよ?場所がわからなくて」血のつながらない息子が言う。

「でしたら案内してあげて?わたくしの命の恩人ですのよ」

 面白可笑しいにおいを嗅ぎつけて張っていたのだろう。

 なんでもお見通し。そんな顔で、

 血のつながらない息子が運転席に。

「そこは座らないでくださいな」

「失礼しました。気が利かなくて」後部座席に移り、バックミラーでわたくしと眼を合わせようとする。「どこがそんなにおよろしいのですか?あ、命の恩人でしたね」

 知っているくせに。

 わたくしの口から何一つ吐かせることなく、

 血のつながらない息子は。

 すべてを得た。噂も嘘も真実も。

「本当は僕を殺したかったんじゃないですか?KREのニセ令息じゃなくて。でも殺せない。殺した瞬間にバレますもんね?僕が」

 止める価値もない。心臓が、

 このすぐ後ろで鼓動している。どくどくと。

 どうしてこのような命が、

 生き永らえているのでしょう。優しさ?

 もとえさんは、優しすぎます。

「ゆっちゃったんですか?」さねあつさんのことだって。

 言わないほうがよかった。

 言いたくなんてなかった。「口が滑りましたの」

「遺言にしては後味最悪ですよ」

 車を降りる。

「ご出発ですか?」

「ええ、行くわね」もとえさんの傍で逝ける方法が。

 これしか思いつかなかったわたくしの発想の貧しさを。

「呪いますわ」

「くわばらくわばら」血のつながらない息子が顔の前で手をこすり合わせる。

 りつるがの息子の口から嫌がらせついでに明かされるより。

 いっそ、

 わたくしが明かして。わたくしをいつまでもいつまでも。

 憎しみでも何でも構いませんから憶えていてくださいますと、

 この上ない幸せです。

 ああ、もとえさん。

 最期に見たあなたのお顔が、笑顔だなんて。

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