第45話 沖縄の娘

 差し伸べた腕が、温かさに包まれたのを感じた。

 体の奥底から、抑えがたい思いがこみ上げてくるのを感じた。

 指先に、心地良いとろりとした何かが行き渡ったのを感じた。





 いつの間にか閉じていたまぶたを開くと、司の目の前には、わかばが立っていた。


「とどいたよ」

 わかばは、そう言った。




 自分の足でちゃんと立っていることに、司はまず驚いた。

「とってもとおいの。でも、とってもちかいの」

 わかばは、そう言ってにっこりした。

「つながったの。またいくよ」

「え? 私、またあの子たちに会いに行けるの?」

 司が思わず呆けたように口にすると、わかばはしっかりとうなずいた。

「いけるとこには、いける。いけないとこは、ぜーったい、いけないの」

「…わかばちゃんは、あそこに行ったことがあるの?」

「ない。いっちゃだめって。だめなの」

 それでも、わかばはにこにこしていた。


「ねえ、つかさちゃん。ゆみこせんせいが、よんでる」

 後ろから服を引っ張られて、司は静電気に触れたようにびくっとした。晴菜のことを、すっかり忘れていた。

 きまりが悪いなと振り返ると、幸い、晴菜はさっさと駆け出していた。


「わかばちゃん、ありがとう」

「いーいーよ」

 向き直った司が礼を言うと、わかばは節をつけて歌うように返事をした。

「じゃあ、またね」

「うん。ばいばい」

 わかばは、あっさりとコンクリートブロックの向こうに引っ込んだ。

 ちょっと立ちすくんでいた司は「つかさちゃーん」という晴菜の声に、無理に歩を進めた。


 駆け寄ってくる晴菜の向こうには、白男川がいた。

「どう、山田さん。わかばちゃんに会えたっていうけど」

 どうだった、と続けようとしたのだろう言葉を切って、彼女は司をしげしげと見た。

「夢から覚めたようなっていうけど、そうねえ。むしろ、お風呂上りっていう顔をしているわ、あなた」

「そうですか。耳鳴りが消えました」

「それは、良かったわねえ」

 白男川は、心を込めた様子で言ってくれた。


「ところで先生。マブイグミの正式な作法をご存知ですか?」

 晴菜の手を引く白男川と停めた車に向かいながら、司は問いかけた。

「マブイグミ? いいえ、ざっと知っているだけよ。でも有希が、ひいおばあちゃんにやってもらったんですって。小さいころに」

「そうなんですか?!」

 思わず食い気味に大きな声を出した司に、白男川はくすっと笑った。

「仕事が終わったら家に来るんだから、待っていたらいいじゃないの。一緒に晩御飯を食べて行きなさいな」

「わーい、つかさちゃんもごはんたべてくのー?」

 司が何か言う前に、晴菜がはしゃいだ声を上げた。

「そうしましょうね。今夜は、はるちゃんの好きな天ぷらを揚げるわよ」

「やったー!」

 晴菜は、つないでいない方の手を高く上げた。

「ごはんまで、はるなとあそぼーねっ」

「ほらほら、こう言われて断ったりしないわよねえ?」

「いつもありがとうございます。ご一緒させてください」

 司は素直に頭を下げて、再び白男川の車に乗った。



 上原、白男川と二枚の表札の掛かった家は、似たような築年数の家々が立ち並ぶ古めかしい住宅地の一角にあった。

「じゃあ、支度ができるまで、晴菜のお相手をよろしくね」

 そうきっぱりと言い渡されたので、司は晴菜に言われるがまま、遊びに付き合うことになった。

 ときどき泊まりにくるそうで、おままごとセットもそろっている。といっても、おもちゃ屋で売られているようなものではなく、使いこまれた紙皿や紙コップなどだ。そして、晴菜が大切そうに取り出した箱には、チラシから切り抜いたらしい料理写真がたくさん入っていた。

「これねえ、はるながちょきちょきしたのー。おいしそうでしょー」

 自慢げな晴菜がお店屋さん、司がお客で延々と同じようなやり取りが続いた。それこそ、子ども慣れしていない司がげっそりしてしまうほどに。


「お疲れさま。すっかり懐かれちゃったのね」

 お手伝いしてちょうだいと呼ばれた晴菜が張り切っている横で、白男川はくすくす笑いっぱなしだった。

「あなたがそんな顔をしているところ、初めてだわ」

「すみません。身内の子とかもいないものですから」


 娘の有希や上原氏を待たなくてもいいと強く言われたので、司も早めの食事を始めることになった。

「これは、沖縄風なんですか?」

 二つの大皿にどっさり盛られた天ぷらは、一皿が見慣れたえびや野菜の天ぷら、もう一皿は一見さつま揚げのようだ。

「もずくの天ぷらよ。一度食べたらやみつきになってしまって」

 勧められてそのまま何もつけずに食べると、ぽってりした衣にはしっかり味が付いている。

「こっちの沖縄風は、他にいかとおいもとゴーヤがあるの」

「はるな、おいもだーいすき!」

 晴菜は張り切って食べていたが、小さな子なので、すぐに満腹になったらしい。それでも、司が食べ終えていないので、さすがに遊ぼうとは誘ってこなかった。そのうちにお気に入りのテレビ番組が始まったので、テーブルから離れて行き、司はほっとした。


 そして、食後のビワをいただいているとき、有希が仕事から帰って来た。



 ドアから入って来た彼女を初めて見たとき、司は大急ぎで、店頭用の笑顔をフル動員した。

「団らんのお時間にお邪魔しております。山田と申します」

「ああ、良かった! 鹿児島にご一緒してくださった山田さんですね。お会いしたかったんです」

 大きな目の濃い顔立ちが印象的な有希は、美人の範疇に入るだろうが、それ以上に目立つほど体が大きかった。百七十センチはあるかもしれない高さに加え、横幅もかなりある。ぽっちゃりというより、がっしりという肉の付き方だ。

 見た目を裏切らないというか、疲れて空腹だという彼女は、手洗いうがいを済ませてくると、挨拶もそこそこに食事にとりかかった。

 食べる合間に、自分のことも話したし、司への質問も失礼なく繰り出す器用さである。

 かつて、白男川の教え子であったこと。ずっと幼稚園の先生になりたいと思っていたけれど、在学中に疑問を感じたこと。

 理学療法士こそ自分がなりたかったものだと気づいて、他の大学を再受験しようとしたこと。心配する父と白男川が何度か話をしたこと。それが縁結びになったこと。


「でも、私が母親になってもらいたかったんです」

 白男川が台所に立ったすきに、有希はそう言って笑った。

「生みの母は、私が小学校に上がる直前に、お腹にいた妹と一緒に命を落としました。私は沖縄の祖父母の家に預けられて、あちらの小学校に入学したんですよ。でも父が、私といられるようにって転職してまで、迎えに来てくれたんです。母親ばかりか父親まで失わせるわけにはいかないって。その分、定年を過ぎた今になって、好きなことをしていますけどね」


 司は、痛々しそうな顔から喜び、感心へとくるくると表情を変えながら聞き入っていた。本人はその変化を意識していないようだが。

 それをじっと見ながら話し続けていた有希は、面白そうな嬉しそうな顔をしていた。


「山田さん。鹿児島の祖母に会いに行ったっていうことは、何か解決したいことがあったんでしょう?」

「え?」

 とっさに警戒の表情になってしまった司に、有希は違うよというように手を振った。

「大丈夫。お婆ちゃんやお母さんの能力については、それなりに理解してるから。それに、個人的な事情に立ち入るつもりもないから」

「すみません。私、ひどい顔したでしょう」

 司は、自分の両頬を押えて赤くなった。

「当たり前の顔をしただけですよ。気にしないで」

 有希は、ゆったりと笑った。


「マブイグミのことを聞きにきたんでしょう?」


 今度は驚愕の表情で固まった司だったが、すぐに緊張を解いた。


「…亡くなられたお母様も、沖縄のご出身だったんですか?」

「ええ。生まれ育ちはこちらだったそうですけどね。父は、大人になってからこっちに来た人ですけど。私が沖縄で住んでいたのは、父方の家です」

 司は黙ってうなずいた。


「曾祖母はセジの高い人でした。セジっていうのは、霊能力って言っていいのかな。私自身には何もないけど、曾祖母が来てくれたときだけはわかるんです。今朝、報せがありました。マブイグミのことを話してあげなさいって。相手は誰とも言いませんでしたけど」


 いつの間にか部屋に戻っていた白男川と小さくうなずきあって、有希は司を包み込むような笑顔を見せた。

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