第39話 朝のひととき
ご飯が炊きあがった六時台に、由美子が作った味噌汁と絹子手作りの漬物などで女性たちは朝食を済ませてしまったが、男性たちが起きる気配はない。
家の前の道路などを掃除しようとする絹子に代わって、由美子と司が外に出て、絹子は家の中で片づけをすることになった。
長いのと短いの、庭にあった箒をそれぞれに持って、表に回る。
先に立っていた由美子が、門の手前で急に立ち止まったので、後ろの司はたたらを踏んで彼女の背にぶつかりそうになった。
どうかしましたかと訊ねる間もなく、かちゃっ、かちゃっと音がした。
司が由美子の脇から顔をのぞかせてみると、白男川家の先から下がる石段のてすりに、一羽のカラスが止まっていた。両脚をそろえて飛び跳ねるときの音が聞こえていたのだ。
そのカラスは、もう一度ぴょんと飛び跳ねてから、どこかへ行ってしまった。
「何というか、どっきりしてしまうものねえ」
由美子は振り返って、司に笑いかけた。
「さあ、ここの階段をお願い。ほら、これは火山灰よ」
玄関脇の目の粗い黒い砂のようなものを、由美子が指し示した。
掃き掃除を始めてすぐに、由美子はご近所さんにつかまって、立ち話をするはめになった。
司は大学の教え子だと説明されてすぐに放免されたが、久しぶりの帰郷だという由美子はなかなか離してもらえない。
よそ者向けの配慮のないお年寄りの言葉は、司には難易度が高すぎ、まるで外国語のように聞き流しながら黙々と掃除をした。
結局、由美子が解放されたころには、階段部分はほぼ終わっていた。
「一人でやらせちゃって、悪かったわ」
由美子は黄色いビニール袋を持ってきた。
表に<克灰袋>と大きく印刷されている。
「灰はこれに入れて、降灰の置き場に出すの。私がいたころは、普通に降灰袋って書いてあったんだけど」
「灰を克服しようっていう意味でしょうか?」
「そうなのかしら」
「何にせよ、大変なんですね」
「そうね。風向きによっては洗濯物も干せないし。いろいろ大変」
由美子は、しゃがみこんで袋を広げた。
「見えている者の目をのぞけって言ったわね」
灰の話の続きのように、彼女は言った。
「はい」
「残念ながら、私じゃないわ。私は、空間がゆがんでいるのは見えても、その向こうは見えない」
「私が、何らかの結び目を解いたら、先生に向こうが見えるようになるとかは?」
「さあ。何とも言えないわね」
由美子はふうっと息をついた。
「ねえ、前に魂のお話をしたわよね。ここにきて、似たような話が出てくるとは思わなかったわ」
「はい。私もそのことを思い出していました」
「やっぱり、さっきのカラスの話は、あなたの話なんでしょう。つないで、つないで、ここで母が教えてくれた」
「はい。昨夜、陸斗君が言いましたよね。絹子さんと私を合わせるために、クリパレがあったんじゃないかって」
「え? リクがそんなこと言ったかしら?」
「言いました。新しいゲームを作るための出会いだとかなんだとか、ぐちゃぐちゃに盛り上がりましたよ」
「やだ、覚えていないわ」
「先生も、思った以上に酔ってらしたんですね」
司はくすくす笑い、由美子もそれにつられた。
しかし、由美子はすぐに笑いを収めた。
「でもあなた、魂の数が人より一個多いって」
「マブイグミどころじゃなかったですね。誰かに返さなきゃいけない」
「落とす方は、事故とか驚いたときってわかっているけど、余分に背負うだなんて。超人的に力が有り余るわけではないのね。重いのが辛い、背負うのが辛いっていう出来事は、あったのかしら? ああ、具体的に言わなくていいのよ」
「…ありましたね。さっきから、ずっと考えていました」
司は由美子と目を合わせないままに、ほんの少し笑った。
「中学三年、十五歳のころです。クリパレⅥ的には、成人になる前の年です」
「え? ああ、そうなの」
由美子はそこには興味がなさそうだった。
「とある出来事をきっかけに、父との関係が悪くなりました。そのことで母とも距離ができたり、兄も父に対して怒りを爆発させたりしてしまいました。つまり、我が家も<結び目を解くマリア>様の祈りが必要な状態なんです。今でも」
司は淡々と話す。
「その出来事は、私の過失によるものではありません。それは誓って言えます。向こうから飛び込んできたものと、言えなくもないんです。だったらそのとき、誰かの魂を余分に負ってしまったのかもしれないです」
「そう。そうだったの。じゃあ、それを持ち主に返さなくては。そう、これが返さんならっていうことなのね」
由美子はうんうんとうなずいた。
二人が家周りの掃除を済ませ、手を洗って仏間に戻ると、いい匂いがしていた。
「ありがとうございます。お客様に掃除ばさせて、申し訳ないです」
茶の用意をしてくれた絹子が、茶色い蒸しパンのようなものを持ってきた。
「ふくれ菓子を作ってみたですよ。食べてくいやい」
粉の黒砂糖を入れた生地に、さらに塊りを砕いた黒砂糖をまぜこんだという、まあ蒸しパンである。
「まあ、朝からこんなにしていただいて、ありがとうございます」
司は恐縮した。
ほかほか、蒸したてのふくれ菓子は、とてもおいしかった。
表で会ったご近所さんの話をしている母子は置いておいて、司は遠慮なく大きな一切れをいただいた。
食べながら、聞くともなしに、まあ意味はわからないながら聞いていると、母と娘はわだかまりも何もない、仲の良い二人に感じられた。
話しているうちに、由美子はポケットからスマートフォンを取り出した。
「見て、この子、有希の娘。晴菜っていうの。私の孫」
さっと操作した由美子は、写真を出して母に見せている。
前日のやり取りを思い出した司は、びくっとして食べる手を止めた。
「まあ、我が孫は可愛いもんじゃ。どれ」
絹子は、手を伸ばして老眼鏡を取って掛けた。
「ああ、こいはむぜ子じゃ」
「でしょう。運動会で、一等賞を取ったときの写真よ」
「由美子も、かけっこは一等賞を取りよったどなあ」
「そうねえ」
司が顔を向けたので、由美子はスマートフォンを見せてくれた。
そこには、青いはちまきをしめて、Vサインをする女の子が写っていた。
「先月の、保育園の運動会よ。むぜっていうのは、鹿児島弁でかわいいっていう意味」
目の大きな勝気そうな子で、確かにかわいい顔立ちだ。
しかし司の視線は、顔ではなく着ている体操服にくぎ付けになった。
襟ぐりに青のラインが入った白い半袖シャツと、青色の半ズボン。ズボンの裾にかけて、白と赤の稲妻のような模様が入っている。その特徴的な模様に見覚えがあった。
「すみません、この体操服」
「え、どうかした?」
「わかばちゃんと同じです。どこの保育園ですか?」
「四つ葉保育園だけど。わかばちゃんって?」
「あの、お話していませんでしたっけ」
司は、迷いながら言葉を探した。
「ええと、その、よく見える子で」
由美子の眉がぴくんと動いた。
「話をしたんです。もう一度会いたいと思ってたんですが、会えずにきました。もしも同じ保育園なら、あ、でも部外者が行くわけには」
司は、思ったことを慌てて口に出してしまった。
「由美子、山田さんをそん子に会わせてあげやい。そげんせんにゃならん」
「お母さん?」
由美子と一緒に、司も驚いて絹子を見た。
「人助けがでくっときは、するもんじゃっど」
絹子は、どことなく重々しくきっぱり言った。
「え、はい。そうね」
わずかに動揺しながらも、由美子もきっぱり返事をした。
「そいでよ。また、いつでん戻って来やい。武志の代わりに、リクにもたまに会ってやれ。武志は、まだリクに会うのは早か」
「うん、わかった」
「山田さん」
絹子は司を呼んで、その手を握ってきた。
「おまんさあには礼を言います。よく、一緒に来てくださった」
「えっ、私は何も。ただ、お世話になるばかりで」
「いんにゃ。あたいには、わかっど。ありがとう。またいつでん、来てくいやい」
司は落ち着かなさげに、しきりにまばたきをした。
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