第38話 帰宅

 タクシーに乗る前、支払いをするときにはひと悶着あった。

 全員分を持つという有村に、由美子はもちろん、緑川と司も払うと言い張ったからだ。

「これが大人のレジ前争い?」

 うっすらと笑いを浮かべた陸斗のぼそりとした声に、全員の手が止まった。

「よし、争いは無しだ。俺に任せろ。クリパレプロデューサーの財力、なめるなよ」

 結果、有村がおごるという形になったのだ。



 白男川家に帰り着くと、午前一時を回っていた。

 一同は静かに中に入ると、とりあえず十畳間に集合した。

 玄関の横、ゲーム部屋の反対側にあるので、仏間に寝るという絹子から遠いということもある。

 勝手知ったるという調子で、有村が早速、押入れから布団を出し始めた。

「シーツとかは明日俺がコインランドリーに持って行くから。この気温だ、上に掛けるものはいらないだろう」

「いや、欲しいです」

「ミドリ、見た目によらず軟弱だな。とはいえ、お嬢さん方にも必要か。よし、タオルケットも出すか」

 四組の寝具が取り出された。

「女性は、僕の部屋に寝てください。僕はここに寝ますから」

 手伝う陸斗が顔を上げた。

「そうだわね。でも、悪いわね。ここは酒臭いでしょう」

 由美子が言い、司もなんとなくもじもじした。

「いや、今更だし」

 陸斗はそう言って、布団を一組、奥の部屋に運んでくれた。

「あの。おばさんが、僕の布団を使ってください」

「はいはい。妙齢の山田さんを寝かせたりしませんよ」

 由美子が適当にあしらうと、彼は赤くなりながら部屋を出て行った。


 寝る前の行動も極力静かに行って、それぞれが部屋に引っ込んだ。

 仏間はずっと静まり返ったままだった。


「なんだかんだで疲れたわ」

 陸斗の部屋で布団に座った由美子は、あくびをした。

「もう遅いし、とにかく寝ましょう。シャワーくらい浴びたかったでしょうに、ごめんなさいね」

「いえ、とんでもない」

「この辺りは、銭湯みたいな温泉がいくつもあるんだけど。まあ、明日のことね。おやすみなさい」

「はい。おやすみなさい」


 由美子が疲れたと言ったのは本当らしく、すぐに寝息が聞こえてきた。

 司はさすがに、なかなか寝付けなかった




 年寄りの朝は得てして早い。

 絹子が起き出した気配に、女性二人の目が覚めたのは、五時前だった。

 十畳間はまだ静かなものだ。

「ごめんなさいね。まだ眠いでしょう。寝ていていいのよ」

「いえ、大丈夫です。それに、お手伝いすることがあれば」

「そうねえ。ちょっと見てこようかしら」

 二人は揃って部屋から出た。

 台所や洗面所を行き来していたらしい絹子の姿は、その辺りには見えなかった。

「仏壇かしら」

 そういう由美子に続いて、司も仏間に入った。

 布団はすでに畳まれて、部屋の隅に置いてある。

 そして、絹子本人は新聞を広げていた。

「おはよう」

「おはようございます」

 二人が声をかけると、彼女は老眼鏡をはずした。

「おはようございます。あたいがうるさかで、起きたとですか」

「いいえ、とんでもないです。職業柄、朝は早いんです」

「ですかー。睡眠ば研究したら、夜はぐーっすり眠れっとでしょう」

 どれ、お茶をと立ちかけた彼女を制して、由美子が台所に立った。


「お言葉に甘えて、みんなで泊まりました。有村さんと緑川さんも。あちらの部屋で寝かせていただいています」

 絹子の向かいに座って、司は頭を下げた。

「そうですかー。それは良かった。陽ちゃんな酒が好きやっで、相当飲んだでしょう」

「そうですね、はい。緑川も、ついついつられたようです」

「よか。ゆっくいとしていきやい」

「ありがとうございます」

「天文館には、よか店のあったとですか」

「おいしかったです」

 良かったという返事が返ってくるものと思っていた司は、絹子が黙っているのでその顔を凝視した。

 目は開いている。しかし、目の前にいる司のことでさえ、とても認識しているようには思えなかった。

 背後で、茶器を持ってきた由美子が音を立てるのに気付いて、彼女は振り返った。

「ひっくり返すところだったわ」

 盆を机に置きながら、由美子はささやいた。

「この状態が、そうですか」

「そうよ」

 由美子が司の隣に座り、二人が絹子と向かい合う形になった。



「あ、ああ? うん」

 相づちか、うなり声のようなものをときどき漏らしながらも、絹子は瞬きもしない。

 由美子と司も、固唾をのんで見守っていた。

 

 長いときがたったと思われたが、実際は五分ほどたったところで、絹子は水中から上がって来たかのような深い息遣いになった。

 由美子がそっと腕に触ってきたので、司は慌てて盆の上にあった湯呑の一つを手にした。由美子も、わざと音を立てるようにして、茶筒のふたを取った。


「仏さんのお茶はあげちょったけ?」

 絹子はいきなりそう言った。


「まだ。最初のお茶をあげるよ」

 由美子が答えると、彼女はほっとしたように笑った。

「炊飯器んスイッチは、さっき入れたばっかいじゃっで。炊き立てを仏さんにな」

「うん、わかった」

 由美子が仏壇に茶を備え拝んだ後から、絹子が、そして司が拝んだ。

 それから、三人に茶が行き渡った。


「昨夜はやっぱりうるさかったんじゃないの? 朝からうとうとしてたから」

「何も覚えんかったけどな、ついうとうとしたもんじゃ」

「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」

 司が頭を下げると、絹子は「んにゃー」と手を横に振った。


「カラスの夢を見ちょってなあ」

「…カラス、ですか」

 司は、ぐらりとしかけたが、なんとか平静を保とうとした。

「ちょうど起きる前ごろに鳴くでしょう。そいで、夢に見っとかなあ」

「そういうこともあるかもね」

 由美子がさりげなく相づちを打った。

「そう言えば、有村のお兄ちゃんが、カラスの出てくるゲームを作った話をしていたわ」

「ああ、あったかもなあ。ゲームじゃっで、しゃべるカラスがよ。夢のカラスもしゃべったですよー」

 絹子は、由美子から司へと視線を移す。

「そうなんですね」

「うん。そんカラスが、寄越せ、寄越せって言うから、ほれ、鳥っちゅうもんは、横を向いたときが、じっと見とるときじゃっで、こう、横を向いて」

 絹子は、司に横顔を見せた。

「ああ、はい。そうらしいですね」

「何を寄越せち言うか訊ねたら、盗って行ったもんじゃって、なあ。カラスから物は盗らんど、カラスが人から盗っとじゃろって言うたら、おいが盗ったんじゃなか、おいは頼まれて来たち言うてなあ」

「はあ」

 司が体を固くしているのを見て勘違いしたのか、絹子は「唐芋弁が、わかりますか」と言って笑った。

「かごっまの、鹿児島の言葉はからいも弁、さつまいも弁って言いますからなあ」

「なんとか、わかります」

「そうですか。それで、そのカラスがよ、タマを返せって言ったんですよ」

「タマ? 何の、どんなタマでしょう」

 司が胸の前で、指で丸い形を作ってみせると、絹子も真似をした。

「七つあるタマの一つが、間違って飛んで行った。それを盗った。返せ。そげん言われたですよ」

「はあ」

「一つ二つ足らん人間はよくあるが、一つ余分に持ったら重かろうとも言うから、知らんち言うたとですよ。そしたら、タマはこけ、ここへ入れるもんじゃーって」

 絹子は、胸を叩いてみせた。

「カラスが、羽で、あたいのここを叩いて」

「ああ、もしかして、タマっていうのは、たましい?」

 司は、考え考え、ゆっくりと言った。

「どうも、そんな話ですよなあ。誰のタマか、誰に頼まれたか訊いても、そこんとこの答えが、どうしても聞き取れん。そこだけ、カアカアちカラスの鳴き声になっちょってなあ」

「はい」

 司の相づちの声はかすれた。

「ああ、茶を飲んでくいやい。どうぞ」

 勧めた絹子も、湯呑を手にした。しかし、口に運びかけた手をふと止めた。


「見たら届くっち言うたか」


「え、何が、どこにですか?」

 司は湯呑を握りしめた。


「うん? そんタマじゃろかい? 見えとるもんの目をじーっとのぞけ、そけ映る、じゃったけ。じゃっどん、じーっとのぞいたら、こっちの姿が映るはずじゃっどが。夢よ、夢の話ですが」

 絹子は笑い声を上げ、今度こそ湯呑を口に運んだ。

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