第7話 女神フレイヤ

「そのファブニルのことがなかったら、眠れなくなることはなかったんでしょうか」


 司は胸の前で両腕を交差させ、両のてのひらをさわさわと動かしながらつぶやいた。

「見慣れたはずのものが、ある日突然姿を変える、いえ、そのものの意味を変えることがありますね。幼なじみが恋愛の対象になってしまうとか」

「何それ。よくあるやつ」

「そう。よくあることなんです」

 直哉は鼻で笑ったのだが、司はいたって真面目だった。

「ファブニルは好きなゲームである。内容は熟知している。恐怖を呼び起こすものではなかった。そうであるなら、原因ではなく、単なるきっかけだったのかもしれません」

「見えてくるのは、ファブニルの世界のものだけだよ? だったら、それが原因だろ」

「いえ。問題は見えるものというより、眠るのが嫌になるということではないでしょうか。だったら」

 言いさして司は、腕は組んだままで動きを止めた。二人はそのまましばらく黙り込んだ。


「フレイア村でしたね」

 司は唐突に言った。

「うん? そうだけど」

「村に、女神像とか、なかったですか?」

「は? あそこ、話に出てきたとたん、あんなことになったからなあ」

「じゃあ、直前の場面とか。どうしてあの村が話題になったんですか?」

「主人公たちのパーティーが、隣村の酒場で情報収集してたんだ。ほら、ちょっと前のゲームってさ、村人とか見かけたら、ともかく話を聞くシステムになってるから。一つの村に必ず一つ、酒場って拠点があるわけ。そこで、フレイア村出身のやつに会って、もうすぐ祭りだから行ってみたらどうだーって誘われるんだ。たまには祭りもいいな!って盛り上がってたら、酒場でもちょっとした地震がおきて、いやいやいや、びっくりしたねー、この辺りで地震なんて珍しいねーって。で、後日、まあ、時間の流れは適当だけど、フレイア村が大変だあって話につながるんだ」

 直哉の声はいくぶん大きくなり、しゃべり方もかなりなめらかになっていた。対する司は、いつも通りの静かな口調だ。

「どんな祭りかなんて話は?」

「ああ!」

 直哉は、大きくうなずいた。

「ネコグルマの女神さまだわ」

「ネコグルマ?」

 おうむ返しをして、司は盛大に首をひねった。

「女神さまがネコ車を押してくるんですか?」

「なんで、女神が押してくるんだよ」

 呆れたように膝を叩いて、直哉は笑った。たぶん、結構本気で笑った。

「だったら、ネコ車に特別な祝福でも与えてるんですか?」

「は?」

「農作業にはつきものでしょうね。いや、ネコ車の発明って、何時代でしたっけ? ゲームの世界にはなんでもありでしょうけど」


「…いや、何の話?」

「女神さまのネコ車ですが」

 司は組んでいた腕を解き、両手で何かつかんで押すようなしぐさを見せた。

「…やっぱ、押してるし?!」


 しばし二人は見つめ合った。


「…それって、ベビーカー押してる的な? そこに猫が乗っかってるみたいな?」

「え? まあ、動きとしては。一輪車に、そこまでの安定感はないんじゃないかと思いますが」

「なんで一輪車?!」

「一輪車じゃないネコ車はないでしょう?」


「ごめん。今更だけど、お姉さんの言ってるのと俺の思ってるの、違うくね?」

 天井を仰いだ直哉は、しかめっ面をした。

「山田です」

 司の声は小さくて、直哉の耳には届いていなかった。

「ええと、もうすぐ祭りだから、絶対に猫をいじめちゃだめだぞと。女神さまの車をひいてくる猫たちは、すべての猫の上に立ってるんだぞと。いじめられた猫が訴え出たら、必ず仕返しされるぞと。そんな話だったな」

「しまった…」

 うつむいた司の口元が、ほんのわずかだが、悔しそうにゆがんだ。その声もあまりにかすかだったので、直哉は「え?」と聞き返した。

「映像的に間違ってとらえてました。そりゃそうです。フレイヤは、猫が牽く車に乗ってますね、はい」

 一人で納得してうなずいている司を見て、直哉はちょっと肩を引いた。

「そして、寺田さま」

 ぱっと顔を上げた司に見つめられて、更にのけぞった。

「もしかして、ネコ車というものをご存知ないのでは?」

「いや、現実にあったら怖いっしょ」

「違います。運搬用の一輪車、と言ったらおわかりでしょうか。工事現場とかで使われている、あれです。学校にもあったように思いますが」

「一輪車ー? そりゃ、知ってるし。なに、お姉さん、どこの出身? よそではネコ車って名前なの、あれ?」

「山田です。地方による呼び名の違いについては知りませんが、たぶん全国でネコ車と呼ばれているはずです」

「そうなのか。俺、初めて聞いた」

「年代差なんでしょうか?」

 視線を斜め下に向けた司を見て、直哉は少々慌てた。

「あ、あー、それにしても、あれだね。フレイアって女神をあがめてるから、フレイア村なのか」

「フレイヤ。まあフレイアとも言うようですから。ドイツ語で女性を意味するフラウという言葉の語源になったようです」

 ほんのりした笑みを取り戻した司は、そう説明した。

「ビーナスみたいに有名な女神だったんだな。知らなかった」

 直哉は、何だかほっとした様子だった。

「ビーナスのような、愛の女神っていう側面もあるようですよ。村の祭りという点では、豊穣の神という部分が取り上げられているだと思いますが。他には、死者を迎える役目があるとか」


「そんな女神の名前つけといて、出たと思ったら壊滅とか、なんでだろ」


 直哉のつぶやきに、司ははっと口をつぐんだ。

「すみません、関係ない話を、つい」

 赤くなった彼女に、直哉は大丈夫だと笑いかけた。

「そんな村にも、存在してるからには価値があったんだってことかな。それにしても、詳しいなあ」

「いえ、最近たまたまネットで読んだ記事に出てたから、覚えていたんです。ちなみに、ファブニルという名前も、関連があると思います」

「え、そうなの?」

「その記事ではファフニールと書かれていましたが、似ていませんか? ドラゴンに変身するドワーフの名前ですが。宝物を抱え込むというような意味がある名前だそうです」

「ファフニール。ファフニール?」

 何が気になったのか、直哉は右手の人差し指でこつこつとこめかみを叩きだした。

 司は、左手の指先で口元を押さえた。強制的に口を閉ざすかのように。

「なんだか、出そうで出ない何かがあるんだけどなあ」

 うんうんうなっている彼に、司はいくぶん恥ずかしそうに切り出した。

「某有名消臭剤の名前にも、ちょっと似ていますよね?」


「ん? それかよ!」

 叫んだ直哉は、驚いた表情だった。


「ごめん、それだわ。消臭剤だわ」

 椅子の上に脱力した彼を見て、司はぽかんと口を開けた。


「うん。あのさ、その消臭剤が除霊に効くって話、知ってる?」

「あ、はい。ネットで知りました」

「結構有名だもんな。そもそも、ゲームの開発にからんで出てきた話なんだよ。でさ、心霊スポットに行くときの必需品とか、ホラーゲームする奴は部屋に撒いとけとかになって。あのときも、そんな話が出てたんだよ、オタク女の」

 司は、促すように首をわずかに倒した。

「いや、積極的に聞いてたわけじゃないんだ。でも、俺の席から近いところで話してたから。乙女ゲーだけどホラー要素があるような、俺にはよくわからないゲームの話。ナリチカだかノウチカだか、たぶんイケメンの妖が降臨してくれるんなら、取り憑かれてもいいーとか、やばそうな流れになったら部屋にファブっとけとか、そういうくだらねえ話」

 司がゲームをしないと決めて安心して話している直哉は、かなり辛辣だった。

「俺がせっせと辞書引いて、宿題かなんかやってたから、聞いてないって思ったんだろ。三人して、誰がいいだの、どこが素敵だの、あつーく語りだしちゃって。みんながみんな、同じキャラ推してるわけじゃないじゃん? あいつはいやだー、除菌してやるーとか盛り上がってるから、つい笑ったんだよな、俺。それが、すっげー馬鹿にしてたとかキレられて、馬鹿にしてない、いやしてた、ってくだらない言い合いになって」

「はい」

「そもそも俺も、クラスでは大人しくしてるっていうか、あんま、しゃべる相手とかいないんだ。だから、男連中も遠くから見てるだけでさ。あっちもなんとなく浮いてるやつらだし、誰も止めなかった。授業が始まるギリギリになって、しょうがないから席に戻るってときに、あいつ、捨て台詞を吐いたんだ」

 直哉は、ふうとため息をついた。


「夜の女神と袂を分かつがよい、だって」





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