第4話 教授の視線
店に戻った司は、進もうとする先に立っている大きな背中に気が付いた。格闘家のような背中。坊主頭。
緊張してその後ろを通り抜けようとした司は「あら!」という女性の声に足を止めた。
「あなた、歩道橋の」
はっとしてそちらを見ると、クラシックな若草色のパンツスーツの女性が立っていた。短い髪に緩いウェーブ。立ち姿は若々しいが、五十も後半かもしれない。小柄な彼女は、緑川の体にすっかり隠れていたらしかった。
「まあ、今朝の」
司は、ぱっと気を付けの姿勢をとった。そうして深々と頭を下げた。
「その節は、助けていただき、ありがとうございました」
「あら、これといって何もしていないのに。こちらにお勤めだったのねえ」
二人を見比べて挙動不審に陥っていた緑川が、やたら低姿勢に割り込んだ。
「あのう、先生。助けたというのは、一体」
「やだもう、たいしたことじゃないのよ。ハンカチ拾った程度のことよ」
上品なのに、からからと笑って、彼女は緑川の太い腕をぽんと叩いた。
しかし、その視線が自分のすぐ横、左側に何らかの意思を持って向けられたとき、一瞬だがきつく光ったのを、司は見逃さなかった。何かを見咎めるような、厳しい表情だった。
「袖触れ合うもってやつですね」
緑川は全く気付いていないらしく、羨ましげに言った。
幼い子どもが、指をくわえて見ているときのような声音だった。
「また、あなたは。それを言うなら袖すり合うもよ。袖すり合うも多生の縁」
客が笑いながら緑川の腕をばんばん叩いている隙に、司は左にそっと目をやった。しかし、たどってみても注意を引きそうなものは見つからない。
「あの、申し遅れました。私、山田司と申します。こちらのオープンにあたり、リバーサイド店からまいりました」
控えめに声をかけると、客本人より先に緑川が口を出した。
「こちら、光陽女子大学のシラオガワユミコ教授」
なぜだか、自慢げに胸を張っている。
「幼児教育学科だ。ダンス部の指導もなさっている」
「こんなおばちゃんが、教授なんて柄じゃないわねえ」
教授は、大きな口を開けて笑った。
「それで、とても姿勢が良くていらっしゃるんですね」
司がさも納得したように言うと、緑川が「だろだろ」とはしゃいで、また叩かれていた。
「森脇さんとも、長いお付き合いよ。またお目にかかると思うから、よろしくね」
司に向き直った表情に、先刻の厳しさはみじんもない。
彼女の後方に視線をさまよわせている客を見つけた司は、お辞儀をしてその場を離れようとした。
「マブイグミが必要かもと思ったけど、大丈夫そうね」
その教授の声が耳に届くまでは。
「マブ、何ですか、それ?」
緑川は不思議そうに首を傾げているが、司ははっとした後に、胸の前で両腕を交差させた。
「沖縄のご出身でいらっしゃいますか?」
「いいえ」
「やり方をご存知なのですか?」
「ごめんなさい、やったことはないの」
教授は、さも楽しそうに笑い声をたてた。
司の方は、腕を交差させたまま、てのひらでそれぞれの腕をさすっている。
そのとき、司が声をかけに行こうとしていた客がこちらを見て、小さく手を挙げた。
「あ、ちょっと失礼します」
「あら、お引き留めして悪かったわ。どうぞ」
急ぎ足でその場を離れる司の背後で「何なんですか」と食い下がる緑川の声と、「内緒」という教授の笑い声が続いていた。
店の外まで教授を送っていった緑川は、司の手が空くのをじりじりと待っているようだった。その様子は目に入っていたものの、どうしようもない。
ようやく一人の接客を終えたとき、待ち構えていた緑川は周囲を気にしながら寄って来た。
「ハンカチ、拾ってもらったのか」
「違います」
静かながらきっぱりと否定した司は、いつもの静かな笑顔のままだった。
「転んだので、気にしていただいたんです」
「転んだ?」
緑川の視線が、足元に向いた。司はとっさに一歩下がった。
「あっ、失礼。膝小僧でも打ったかと思って、つい」
彼の白すぎるほど白い頬が、真っ赤になった。
「いえ、大丈夫でした」
司は、そっと目を逸らした。
「そうか。なら、良かった。で、マブなんとかって、何?」
「おまじないですよ」
「転んだときの?」
「そんなような」
「ふうん。痛いの痛いの飛んでけー、みたいな?」
「まあ、そんなような」
だんだん声が小さくなる司を、緑川はなぜだか気の毒げに見た。
きびすを返しかけた彼に、司は「あ、そう言えば」と声をかけた。
「ん?」
「お名前が、よくわからなくて。シラオガワ様とおっしゃいましたか?」
「ああ」
緑川は、ぱっと笑顔になった。
「色が白いの白。男と女の男。三本川。白男川由美子先生だ。珍しい苗字だよな」
「白男川様。はい、覚えました」
「音は良いんだけど、先生のお名前には男って字は入らないで欲しかったな。そう思うだろ?」
「…はい、そうですね」
司的に淡々と返したが、緑川は満足したように離れて行った。
「リョクさんと話してたね」
枕の箱をいくつか抱えた時任が、司に笑いかけた。
「どう、怖くなかったでしょ?」
「うん。でも」
上の方の箱を取って棚に並べる手伝いをしながら、司は言い淀んだ。
「…なんか、なじめなさそう」
時任は、ぷっと吹き出した。
「五月末になったら、新規開店記念の飲み会やるってさ。そしたら、リョクさんにも慣れるよ」
「そうかな…」
「はいはーい、心配無用ですよー」
茶化されても、納得いかなさそうな司だった。
それでも日々は過ぎてゆく。
いよいよ明日はその飲み会という前日、司は親子連れの接客をしていた。
制服姿の男子高校生と、顔立ちのよく似た母親という組み合わせは、この店ではかなり珍しかった。
「自動起床装置ですか?」
「そう。いっとき流行ったようなことを、聞いたんだけど」
母親は、いくぶん居丈高に訊いてきた。
「流行ったといいますか、それを題材にした小説がございまして。それをきっかけに、世間に知られたというようなことでございます」
「そう。それはいいわ。こちらにその商品はあるの、ないの?」
「申し訳ございません、当店では取り扱っておりません。たしか、JRさんの通信販売でのみだったかと思います」
「ここには、なんでもあるんじゃなかったの?」
眉間にしわを寄せた客に、司は何度も頭を下げてわびた。
「言っただろ、俺。普通の店には売ってないって」
離れたところにだるそうに立っていた息子が、いつの間にかそばに来ていた。
「ここはね、普通の店じゃないっていう触れ込みなのよ」
そう言われると、司も返す言葉がない。
眠りに関するすべてがここにあるというのが、店のコンセプトだからだ。
「あんなでかいもの邪魔だって。それより俺、これ試したい」
司は、息子のほうの顔をようやくはっきりと見た。
長身で痩せた彼の顔には、青黒い隈が目立った。それだけではなく、若いのに肌もかさついているし、髪もぼさぼさだ。
「何を試したいんですって?」
目を吊り上げた母親に、息子は柱に貼られた手書きのポスターを指さしてみせた。
「お泊り体験?」
「思い切ったお買い物であるベッドを、実際に寝てお試しいただける企画でございます」
司の説明を聞き流しながらポスターを読んでいた母親の目が、きらんと光った。
「一泊五百円?!」
「あの、本当にお休みいただくだけでございますので。別料金のシャワーはございますけれども」
「そうは言ってもお安いじゃないの。あら、高級ベッドだらけじゃない。目覚まし時計も、枕も試せるのね。これはいいわ」
オープン記念価格につき、今だけ千円の半額の五百円という表示に惹かれたようだ。
「光で起きる目覚まし、試したい」
「わかったわ。じゃ、予約して帰りましょうか」
あからさまにほっとした様子で、母親が司に向き直ったのを、息子がさえぎった。
「今夜だ」
母親がえっと驚くのと同時に、声は上げないながら司も驚いた。
「あらあら、それじゃお店の方もお困りじゃない。今夜は、シュンちゃんの送り迎えだってあるのよ」
いきなり気遣う客になっているあたり、さすがである。
しかし、息子は表情を動かさなかった。
「そうしたら、今度の実力テスト、受けられると思う」
「あ、あら…」
どうやらこれは、殺し文句だったようだ。
「それから、これも」
母親がバッグから手帳を取り出して何かを確かめている間に、息子はポスターの一点を押さえ、思わぬ強い力で司を見た。
<ご希望の方に、カウンセリングサービスも行います>
それは、所長が嬉々として付け加えた一文だった。
「今夜の部屋の空きはあるかしら。それと、光の目覚ましとやらも」
「少々お待ちください。確認してまいります」
「ぜひ、お願いします」
その場を離れようとした司にとどめを刺すかのように、息子の低い声が飛んだ。
びくっと体が震えたのをごまかすために、司は早足になった。
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