第3話 お客様たち

 遅番の二人が店内に入った時は、すでに数人の客がいた。

 時任は小さく手を振って、そそくさと司から離れて行った。


 オフィスビルの五階、空きビル同然の場所にあるというのに、客の入りはいつも悪くない。

 靴のまま上がれるようにと、足元にビニールカバーをかけたベッドが数種類。お試し用の枕がずらりと並ぶ棚。

 見本の生地を触って確かめられる敷布類は言うに及ばず、就寝時用の締め付けない下着に、寝つきを良くするだの目覚めを良くするだの言われる香り製品、サプリメント、ハーブティー。眠りに関係すると思われるものは幅広く取り揃えてある店、それが<睡眠研究所・こもれび>だ。

 それに、昼下がりから客を集める人気の設備もある。

 この日、司がその場所の担当だった。


 もうすぐ午後二時になろうという頃、近くの官公庁でよく見かけるタイプの、ちょっとくたびれたスーツ姿の男性が来店した。

「空き、ありますか?」

「はい、ございます」

 店の奥、ホテルのフロントをうんと縮小したようなスペースで、司はにっこりと微笑んだ。

「電動リクライニングと、腰の部分のサポートを高めたコイルマットレス、この二種類がただいま空いております」

「ああ、じゃあ、腰サポートの方で」

「かしこまりました」

 司は客の先に立って、木製の壁の向こうへと案内した。

 入り口には、枕を十ほど並べた棚。その向こうには等間隔でドアが五つ並び、最も奥にはそれより広めの部屋が一つ。

 司は二番目のドアを開けた。シングルベッドと荷物置きの棚が一つあるだけの部屋だ。壁にはハンガーの掛かったフックが二つと、電話機。

 狭い部屋だが、店舗スペースと同じく天井が高いのと、やわらかな色調の壁紙のため、圧迫感はない。

「それでは、三十分後にお電話いたします」

 もうネクタイを緩め始めた男性客にお辞儀をして、司は静かにドアを閉めた。


 三十分後、出てきた男性客は疲れの取れた顔をしていた。

「いやあ、本当に良かったですよ、ここがあって。五百円で極上のベッドだもんなあ。いっとき流行ったお昼寝スペースとは、比べ物にならない」

「ありがとうございます」

 かすかに朱をはいた司の表情を見て、客は笑みを深めた。

「やっぱり、泊りの方は満室? 予約も難しかったりする?」

「いえ、そこまでではありません。よろしければ、ぜひ一度、お試しください」

「そうだね。また頼むよ」


 客を送り出したところで、司はカウンター下のボタンを押した。そうすると、誰かが枕カバーやシーツを取り換えに来る。この日は、中林がやって来た。

 二番の部屋を片付けている間に、四番の客も帰った。こちらも彼女が引き受けると言った。

「お昼寝サービス、人気が出すぎても赤字じゃないのかしら」

 カウンターに立ち寄った中林は「ねえ?」と同意を求めるように司を見た。

 司はいつもの表情で首を傾げただけだったが、同意と受け止めたのか話し続ける構えになった。

「私もね、森脇寝具店時代から、三十年近くお世話になっているわけよ。この店が社長、じゃない、所長の夢だったことはわかるけど、でもねえ」

 その時、カウンターの電話が鳴った。

 司がちょっと頭を下げながら受話器を取るのを見て、中林は残念そうに離れて行った。


 司の電話の相手はその所長で、担当を交代する時間になったら事務所に来てほしいというものだった。


 小一時間ほどして顔を出すと、奥の机に向かっていた森脇はにこにこしながら応接スペースを指し示した。

 電卓を叩いていた森脇夫人も、すぐに腰を上げた。

「所長はお茶ね? 山田さんはコーヒーとお茶、どっちがいい?」

「すみません、私もお茶で」

「はぁい」

 五十代の夫婦は、ほんわかした雰囲気が似ているとよく言われている。緊張していた司は、ほっとした様子でソファに腰かけた。


「お昼寝サービスは盛況だね。帰り際のトラブルとか、報告上がってないけど大丈夫? ほら、延長料金とか」

 世間話のような軽い口調で問われて、司も笑みを浮かべて「大丈夫です」と答えた。

「そう。泊りの方は、まだまだみたいだね。やっぱり敷居が高いかなあ。あっ、いや、違うよ。集客の案を出せって言うんじゃないからね」

 所長はひらひらと手を振った。

 そこへ、茶を三つ持った夫人がやって来て、彼の隣に腰を下ろした。

「山田さん、お客様からお礼の電話があったのよ」

 彼女にそう言われて、司は首を傾げた。

「え? あ。ありがとうございます?」

 思わず疑問形になった司に、夫人は少女のようにくすくす笑った。しかし。


「おととい、ちょっと…うん、ちょっと変わったお客様がいらしたんでしょう? 泊りで」

「あ」

 つい今しがたの笑顔を微妙に引きつらせながら、夫人は隣の夫と目を見かわした。

「眠りを商売にしている以上、その手の話と無縁ではいられないのよねえ」

「そうなんだよ。君らがどの程度、認識しているのかわからないけど」

 夫妻は司を見たり、互いにうなずき合ったりしながら、じゃれ合いに見えなくもないつつき合いをしていた。そして結局、夫人が話すことになったようだ。

「ええと、なんだかいろいろおっしゃったのよねえ。つまりあれよ。あれに悩んでおられたと。で、眠れなくて苦しんでおられたと。そういうことでよかったのかしらね?」

「はい、そんなようなことを、お話しでした」

 一度はうなずいたものの、司は考え込むそぶりを見せた。

「なんだ、どうした?」

「いえ。…お客様のお話は、個人情報ではないかと思いまして」

「うん、そうだな。ただし、今回の件に関しては、ご本人が僕らに打ち明けてくださったんでね」

「ああ、そうでした」

 司は、ぴょこんと頭を下げた。

「僕が席を外してたから、女房がだいたいの話を聞いてて、途中から僕に代わって改めて聞いて。それだけお話しされたんだから、共有してほしかったってことだよな」

「はあ…」

 なんとなく三人で目を見かわしたが、ぎくしゃくというかもじもじというか、ぎこちない雰囲気が漂った。

「夜中に、お部屋に呼ばれたの?」

「はい」

「ここにまで、つまるところ、人ならざる何かが、追って来たって、そんなようなこと、おっしゃった?」

「はい」

「ここに、私たちのお店に、霊っぽい、何かが」

 話している夫人はだんだんと声が高くなるし、司の視線はどんどん下がっていった。

「確かに古いビルだけど。ほとんど空き家だけど。警備会社は二十四時間、人の出入りがあると思ったし」

「いやいや、そういう話じゃなかっただろ」

 所長が慌てて口をはさむと、夫人ははっと我に返った。

「そ、そうね。つまり、お客様にとっては絶望の時に、あなたが何ものをも恐れず、まっすぐに話を聞いてくれて、そうこうしているうちに、例のあれが消えて…」

「み、見えるのかな、君も?」


 夫妻と共に戸惑っていた司は、ぱっとスイッチが入ったかのようにうなずいた。

その瞬間、夫妻は文字通り飛び上がったと見えた。

「私が、お客様の見ていたものを一緒に見たと、お考えでしたか」


「そうなの?」「違うのか?」

 夫妻は同時に声を上げた。

 司はいつもの真面目な表情、静かに微笑んだような口元のまま首を横に振った。

「何も見ていません。ただ、お話を聞いていただけです」

「そっち、方面の力は、ないのね?」

「ありません」


「動じない!」

 所長は一声叫んで、ソファの背にどさりと体を預けた。

「なおかつ喜ばれる! 室井様さまだあー。いやあ、君に来てもらってよかった! 紹介してもらってよかったよ」

「本当! 山田さん、もしも、もしもね。そっち方面の口コミが広まったりしたら、今後ともよろしくね」

 喜ぶ夫妻をそのままに、司は黙って冷めたお茶を飲んだ。

 




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