第2話 襲われた?
「ニックネームとあだ名って、同じ意味じゃない気がしませんか? …しない? 本名以外の名前って意味では同じだろうけど。他の日本語で言ったら何だろう」
「ん、どういうこと?」
時任はしばらくぽかんとしていたが、徐々に眉をひそめた。
「あー、良くないこと思い出させちゃったか」
しかし、司は聞いていないようだった。淡々と掃除を続けながら話し始める。
「山田司。司会者の司。ツカサの字は、シって読むでしょう。小四で習って、ヤマダシって呼ばれるようになって。それで、氏っていう字も習って、ヤマダウジになって。長いからって、ウジになって」
「小学生男子にありがちな流れだねえ」
時任は、こめかみ辺りをぽりぽりとかいた。
「その年頃に、馬鹿は麗しいって漢字、読めなかっただろうな」
司は、そのつぶやきも聞いていないようだった。
「でも、蛆虫のウジって思われてたわけじゃないんです、よ」
「え、そうなの? やだ、変に気をまわしすぎちゃった。ごめん」
慌てた時任は、ごしごしとモップを動かすことに集中するふりをした。
「蛆虫を見る機会なんて、そうそうないでしょう? 私だって、見たことないから気にしてなかった。高校になって、初めて良くない感じに言われて、ああ、とうとうたどり着いちゃったかって思ったくらい…」
時任はますます激しくモップを動かした。しかし、その動きをぴたりと止めて、彼女はややうわずった声を上げた。
「つ、かさ。ヘアアクセサリーとか、つけないの?」
ゆっくり振り返った司は、ほんのりと笑みを深めたように見えた。その髪は肩の下までの長さで、首筋の低いところで黒いゴムで一つにくくっただけだ。
「持ってない」
「えーっ。校則の厳しい女子高生じゃないんだから」
本気でびっくりした声を出されて、司は首を傾げた。
「あ、本当だ。高校の頃から、ずっと同じ」
「いや、そこ。自分で納得するとこじゃないし」
時任は呆れたように片手を上げた。
「もしかして、大学って理系? あ、これって偏見?」
「え? 私は心理学科だったけど。笑っちゃうでしょ」
「ん? 笑うとこかどうか、わかんないよ」
「そう? 変なこと言って、ごめん」
司が肩をすぼめたので、時任は慌てて手を横に振った。
「いやいやいや、いちいち謝らなくていいから。でもさ、一応客商売なんだから、シュシュとか買いに行かない? それで、ちょっとご飯でも。って、なんか私、ナンパしてるみたいじゃん?!」
照れて笑う時任にたいして、司はまじめだった。
「ありがとう。でも、正直に言っとくけど、あんまり余裕なくって。一人暮らししてるから」
「そうなの? じゃあさ、今度プール行こう」
「プール? スポーツジムのプールか何か?」
「ううん、市営の屋内プール。一回五百円。夜の九時までやってるから」
「うわあ、時任がプールに誘ってるう」
掃除を始めていた同僚が、わざとらしく身震いして見せた。彼女が近付いてくるのを見ていた司は落ち着いていたが、振り返った時任はちょっと赤くなっていた。
「何よう」
「だって、だって。山田さん、この子、高校まで水泳部だったのよ。二十五メートルプールで延々とクロールなんて、誰が付き合うもんですか」
「えー」
時任は不満げに唇をとがらせた。
「あそこのプール、ジャグジーも採暖室もあるのに。なんだったら、トレーニングルームも使えるし」
「ホテルのプールでビキニ着て、カクテルでも飲んでそうな見た目してんのに、何言ってんだか」
それを聞いたとたん、司がぷっと吹き出したので、言った本人も時任も驚いた顔を向けた。
「あっ、ごめんなさい…」
赤くなって肩をすぼめる司に、二人は違う違うと激しく首を横に振った。
「山田さん、そういう風に笑うんじゃん」
「つかさー、そうやって笑おうよ」
ほぼ同時に二人に言われて、彼女はますます縮こまった。
「それで、私と一緒にプール行こ! あっ、うなずいた! 今、うなずいたよね!」
「はーい、掃除は終わったの?」
きゃあきゃあ騒いでいるところに中林が現れて「はーい」と良い返事をする三人だった。
なんとか職場に馴染んできた頃、司はしばらくぶりに、時任とロッカールームで二人きりになった。
「おはよう。あれ? どうしたの、顔が赤いよ」
先に来て着替えていた時任は、ブラウスのボタンをはずす手を止めた。
「うん…」
司は、ロッカーの扉を開けて、小さな鏡をのぞき込んだ。
「そうかな?」
「なあに、熱でもあるんじゃないの?」
「あ、それはない」
司はショルダーバッグをロッカーにしまいながら、普通の調子で付け加えた。
「さっき、カラスに襲われたから」
「えーっ、何それ! 怖い!」
思わず叫んだ時任が、両手で口元を覆ったのを見て、司はかすかに首を傾げた。
表情はいつも通り、微笑みの固定である。
「血、血は出てないね? 服とか、破れて、ないみたいだけど。何かした? カラスを怒らせるようなこと、何かした?」
ブラウスの前をはだけたままで詰め寄った時任は、司の体に触りまくりながら矢継ぎ早に言った。
「やだ、なんで笑ってるの? 笑ったよね? あれ? 怖すぎて変になったんじゃないよね?」
くっつくほど顔を近づけてきた時任から逃れようとして、司は赤くなって首をねじった。
「あ、あの、時任。胸、胸が、その」
ブラウスから溢れ出んばかりの豊満な胸が、華やかなランジェリーをまとって眼前にぐいぐい迫っている。
「胸が何だって言うのよ。それよりカラス!」
彼女の目じりが吊り上がっているのを見て、司はへにゃりと脱力した。
「ごめん。言うんじゃなかった」
「そんなわけないでしょ!」
今日もいつものように白いブラウスを着た司の胸は、まあ無くはないという程度である。太ってはいないが引き締まってもいない体つきに、控えめにちょうどよいといったところか。
その胸の前に待て待てと上げた両方のてのひらに、とうとう時任の胸が押し付けられた。
「ごめん。とりあえず、着替えようか」
話を聞かずには一歩も引かないという時任に負けて、着替え終わった司は休憩室に彼女を誘った。
時計を確認すると、勤務開始時間までには、まだ余裕がある。コーヒーを淹れながら司は話し始めた。
「カラスって、今、繁殖期なんだって」
さりげなさを装ってみても、時任は早くその先をといきり立っている。
「まず、どこで?」
「…歩道橋の上」
「あー」
時任は、露骨にがっくりした。
ここ<睡眠研究所・こもれび>の近くで歩道橋といえば、一つしかない。しかも、通る人間はほとんどいない。その下の自転車用横断レーンを使うのが一般的だからだ。しかし、司はいつも歩道橋を渡る。
「いきなり?」
「うん、いきなり。あ、でも、変な鳴き声はした」
「変って?」
「普通にカアカアじゃなくって、ギャオギャオっていうか。それが威嚇の声だったそうなのね」
「え?」
時任は、待ってというように右手を突き出した。
「誰かがそう言ったってこと?」
「うん。助けてくれた人が」
司が頬を赤らめたのを見逃さず、時任は身を乗り出した。
「素敵な出会い?!」
「あっ、違うの! いや、違わないけど、違うの」
じんわりと微笑んだ司は「おばさまだった」と付け足した。
「えー」
がっくりとテーブルに伏せた時任だったが、すぐに体勢を直した。
「あんたが嘘つくはずないもんね。おばさんかあ」
「おばさんじゃないの。おばさま」
「いたんだ。あそこを通る人が、他にも」
珍しく言い切った司をスルーして、時任は妙に感心していた。
「あの方が、通りがかってくれて、本当に良かった」
司は、時任の反応に構わなかった。
「とっても姿勢の良い方でね。体の線が出るようなぴったりしたパンツスーツなのに、きれいに着こなしてらして。しゃべり方も、とってもきびきびしていて。あなた、大丈夫?って。座り込んでた私の後ろ頭に、ハンカチをそっと当てて、血はついていないわね、って」
話し方のまねまで交えて、司は早口で言った。
「本当に、けががないのは良かったわ。ねえ、あそこ通るのはもう止めたら?」
眉をひそめる時任に、司は手を振ってみせた。
「大丈夫。市役所に知り合いがいるからって、すぐに電話するって言ってくれたの」
「え? なんで?」
「巣があったの、歩道橋の脇の木に。巣を見下ろすものは敵とみなして、攻撃することがあるんだって。かわいそうだけど、巣は取ってもらうって」
「そうなんだ。まあ、仕方ないよね」
二人が飲み終わったコーヒーのカップを片付けていると、休憩室のドアが開いた。
「あ、おはようございます!」
いつも以上に明るい声で言った時任の陰で、司も「おはようございます」と言ったが、返ってきた声にびくっと震えた。
「よう、おはよう」
坊主頭に、骨太で筋肉質の岩のような体、それでいて白磁器のような肌をした男性が、ファイルを手にして立っていた。
「リョクさん、今日は店頭ですかぁ」
時任は、いかにも嬉しそうだ。
「ああ。えーっと、ああ、山田さん。どう、慣れた?」
急に話しかけられた司は「えっ、はい、まだまだですが」と上ずった声になってしまった。
<緑川>の名札を付けた男性は、色素が薄い上にうっすらとした眉毛と、ぐっと張り出した眉骨の下の奥まった目が怖い。
「おい、名札付け忘れてんぞ、トキトウ」
「はーい、トキトオ、でお願いしますね」
「トキトウだろがよ」
「トキト、オでーす。よろしくどうぞー」
語尾にハートやら音符やらが付きそうな明るい調子で終始した時任は、くすくす笑いながら店舗に出て行った。
後ろに張り付いた司の方は、いつもの笑みもない。
「ねえ、リョクさんのこと、怖い?」
くるりと振り向いた時任は楽しそうだったが、司はこわばった表情のままでうなずいた。
「ま、あの見た目じゃしょうがないか。早く飲み会しちゃえばいいのになー。オープンして一か月過ぎてるのに」
それを聞いた司は、しゅんとしおれた。
「あー、飲み会苦手なんだ。お酒、飲めない?」
「全然だめってわけでもない、けど…」
「大丈夫、大丈夫」
時任は、司の肩をぽんと叩いた。
「無理な飲み方しないから、ここ。面倒な人もいないし。あ、リョクさんもだよ」
そうして、いかにも楽しみなように笑った。
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