第5話 パイナップル小袋

     1


 もとえさんが結婚する。だとかいう幸せな出来事が耳に入ったけれど。

 わたくしは呼ばれませんでした。

 招待状も何も届かない。

 わたくしは、もとえさんのお友だちではないのでしょうか。

 そう思っていたのはわたくしだけで。いいえ、そんなことはどうでもいいのです。

 もとえさんが幸せならばわたくしは。それ以上に望むものはなにも。

 ですが、様子がおかしいのです。わたくしが呼ばれないはずがございません。

 わたくしと。

 もとえさんの関係ですよ?

 きっと、わたくしを呼べないような事情が。わたくしに祝福されたくないという。幸福ではない式だということ。

 望まぬ。無理矢理の。もとえさんの意志を無視した。

 浅樋アサヒまさむら。それが新郎の名だという。

 おかしいですわ。おかしい。わたくしが思っていた方と違う。

 浅樋りつるが。ではございませんの?

 事情を聞こうにも。もとえさんは。

 もとえさんに訊けるはずがございません。もとえさんは言いたくないのですから。わたくしに知られたくないから。そうでしょう?

 わたくしを招待してくださらなかったのは。

 お父様は行方知れず。借金まみれになって。土地もお家も取り上げられて。あとはどこぞに売られるだけになっていたわたくしを救ってくださったのは。

 ほかならぬ、次期社長だった頃のもとえさん。

 わたくしは一生かけてもご恩を返さなければなりません。

 この命と引き換えにしてでも。

 野垂れ死ぬはずだった命。もとさんが蘇生してくださった。

 もとえさんのために使わずに。

 どなたのために使うというの?

 わたくしは、浅樋の家にもぐりこむために。浅樋まさむらの両親に目をつけました。

 両親というよりは、父親。

 浅樋ゆふすだ。

 すぐにわかりました。この男が首謀者なのだと。

 なんのことはございませんのよ?もとさんのためなら。

 わたくしの身体がどうなろうと。

 この男の浅はかな考えはこうでしたの。もとえさんの会社KREの乗っ取り。

 そのために、もとえさんを。

 口にするのも憚られます。

 もとえさんだけではありません。もとえさんのお付き合いしていた殿方。

 朝頼トモヨリガルツ。と、名を変えてしまったようですが。

 名前どころではございませんでした。記憶すら。

 使い勝手のいい長男を。父親にさせて。

 使い勝手の悪い次男を。未遂で済んでよかったですけれど。

 死んでしまったのでしょう。

 名前も記憶も違うのならば。

 ガルツはマチハ様に任せることとしまして。

 浅樋ゆふすだ。

 浅樋まさむら。

 わたくしが、殺して差し上げましょう。

 もとえさんのために。

 死ねるというのなら。それも悪くはございませんわね。


      2


 全員が死んだのか。一人だけ生き返ったのか。誰かは当たり所が悪かったか。

 わからない。

 その境界を彷徨ってる最中かもしれない。

 現社長が席を外して久しい。社長サンは気を遣って追いかけなかった。もしくは単に面倒だっただけか。隣に座っても文句を言われない口実を作りたかっただけか。

 それだ。

「生きてもらわないと困る」社長サンが吐息だけで喋る。

 場所柄私語を遠慮したのか、力が入らなかっただけなのか。

「株価が下がる」

「それかい」

 全員助けなさい。現社長は白衣の集団にそう命じていた。

 それが、社長サンのシビアな発言と同じ背景を持っていたとは考えたくないが。

 三人同時に同じ病院に運ぶことはなかったのでは?

 別々のほうが人員的にも助かる可能性は。

「名外科医がいるらしい」

「ほお。ゴッドハンドゆう?」茶化し半分、場つなぎ半分。「せやけど一気に三人ゆうのはなんぼなんでも」

「俺が運んだんじゃない」

 まあ、それはそうなのだが。

「なんであそこにいた?」

 なるほど。社長サンの目下最重要懸念事項はそれだったか。

 赤いランプが君臨する嫌味な白い扉の向こうで何が行なわれていようが生きてようが死んでようが無事だろうが命に別状はなかろうが峠は越えようが全力は尽くしましたがだろうが手術は成功しましただろうがどうでも。

「父親と違うん?」皮肉全部。

「誰に連れてかれた?」

「もういてへんし」

「信者か。あの場に」

「せやからね、いてへんのよ。こっちの岸に」

 マチハ様が殺した。と、ほかならぬ本人談。

「誰だと聞いている」

 溜息も消滅する。「総裁のぼん」

「次男か」

「なんや、面識」

「挨拶程度な。そうか、あいつ」

 死んだのか。

 殺されたのだ。

「なんで行った?」

「死因? 知らへんよ、エレベータでな」

「逝った?じゃない。どうしてお前が白竜胆会なんかに」

「まーだ気にしてはるの? ええやん」さて、これで晴れて神像をなにがなんでも受け取るわけにいかなくなった。「ねちこいの厭やわ」

「次男になんか吹き込まれたか」

「でやろ」社長サンの父親誰なのか、なんて口が裂けても。実際に裂けたらなにも言えなくなるわけだが。「俺といててええの? どっかのアホ社長に突然解雇言い渡されて路頭に迷っとるんやけどね」

「帰りたいなら帰れ」顔は帰るなと言っている。

「助けてほしいのと違うん?」

 全員が助からなかった場合。

 葬式の手伝いとか。

「こないなときのための積み立てと」

「なれないかもしれない」

 社長に。

「よーゆわんわ」

 社長サンが社長になれないかもしれないようなことがKREで起こっている。

 イコール、

 社長になれなかったときに、家出少年を居つかせていた弁護ができない。

 イコール、

 奪われるくらいなら自分から手放した。

 図式に結びつく。

「こらまあ随分後ろ向きな英断やね。社長サンらしな」

「帰ってくれて構わない」それでも顔に帰るなと書いてある。くっきりと。「巻き込んで悪かった。あとはこっちで」

「白竜胆会総裁とKRE社長が不倫やったらむっちゃスキャンダルやね」バラされたくなくば、と脅迫するつもりはなかったのだが。

 当の本人が戻ってきてしまっていた。

 現社長が仁王立ちしている。「まだいたの?」

 謎の家出少年に言ったのかと思ったが、違った。

 息子に。「支部はどうなってるの? 昨日の届いてないじゃない。なにやってんのよシロウは」

「シロウかもしれません」

 現社長が壁にもたれようといたところを。「なんのこと? シロウが」

「浅樋うすほは台本を渡されていたにすぎません。あまりにも神懸かった演技なので、あたかも浅樋うすほの自作自演と映って」

「意味わからない」現社長は身を乗り出して長椅子を見下ろす。「シロウが? 台本とやらを書いてあの女に渡したっての? なんのために?あたしに怨みでも」

「あったんでしょう。怨みが」社長サンは背筋を伸ばして真っ直ぐに見上げる。「心当たりがありませんか」

「あんたまでそうゆう態度を取るの?さねあつ。会長の意向だからってちょっと付け上がりすぎよ。あんなのね、寝言くらいの価値しかないこと、わかってんでしょ?」

 居た堪れないので去ろうとしたが、社長サンが手を握ってきた。

 こんなときに?

 こんなときだ。焼け石とか捨て鉢とか。

 明日あたり死ぬ気だろう。だったらまあ、つないでやらないこともない。

 汗でぬらぬらしていた。

「会長は社長を社長にすることで貴女を守ってきた。そうしないと大事な娘が死んでしまう恐れがあった。惰性でも生きている大義名分を与える必要があった」

 社長は何も言わずに息子を見ている。見てないかもしれない。少なくとも、息子の隣にいる謎の少年に視線は注がれていないようだった。

「何も言わないでくれていてありがとうございました」頭なんか下げた。

 やめろ。

 死亡フラグ的なものをびんびん立てるな。

「全然わかんないんだけど」

「俺のことは忘れて自由に生きてください」

「だから、全然わかんないってゆってんのよ」社長はわかっている。

 わからないから怒鳴ってるんじゃなくて、わかったから怒鳴った。息子の察しのよさに苛立っている。

「わかるように言いなさい。あたしにも、その子にも」

 しまった。ばっちり視界に入ってたか。

 世間一般に通用する言い訳が3通りしか浮かばない。

 強制? 無理矢理? 流れ?

 まずい。3つが3つ、ほどよく同じ意味だった。

「あんたがそんななの、あたしのせいだってゆうの?」

 ああ地雷。

「堕ろせばよかったんですよ」

 強く握るな。痛いわ。

「俺のせいでまさむらと」

「それがなんだってゆうのよ」現社長の声が廊下の突き当たりに反響して返ってきた。

 一応病院なんですけど。そうゆう顔で通り過ぎる白衣の人たちの眼線が突き刺さる。

「なんだってゆうの?あたしが、あたしがね、どうなろうとあんたに言われることじゃないのよ。裏切ったのはあたしなの。悪いのはぜんぶ」

 あたし。

 あかい、

 ランプが消える。眼つきだけで人を殺せそうな男が汗だくで白衣を羽織りながら。

 医者か?さっきまで手術してた。

 これが噂のゴッドハンドだとしたら。

 殺してないだろうな。最期のとどめとか差してないだろうな。

「家族の方で?」ことばを選んで喋ってないのがよくわかる。「終わりました」

 命が?

 3人切ってたにしては驚きの速さじゃないか。

「つる、じゃない。助かったの?生きてるわけ?」社長がその男に詰め寄る。

 つる?

 執刀医らしきその男もつる、を拾おうとしたが。社長の切羽詰った気迫に圧されて床に落とした。「生きてる」


      3


 社長が真っ先に安否を気にしたのが誰だったのか。ガラスに顔を密着させて容態をうかがい知ろうとしたのが3人のうちで。

 どうでもいい。生きてるんだから。

「ええの?」生きてる様子を見ずに帰ってもいいのか。ツネはさっきからそれしか言わない。「ほんまに?ええ?」

 返事をするのも面倒になってきた。適当にタクシーを拾う。

 すっかり日が落ちている。いま何時だろう。

 いろいろがどうでもいい。

 心の底からどうでもいい。

「なんやら食う? 作ろか?」支部に着くまでツネは黙っていた。俺の話し掛けるなオーラを感じ取って気を遣ったのだろうと思うが。

 着こうが着かまいが、口から音を出したくないことには変わりない。

 なにも要らない。食べたくない。そういう意味で手を振ったのだが。

 違う意味にも取れた。

「あ、しもた。うっかり」うっかりじゃない。

 うっかり手をつないでいたせいでここまで連れてきたのは。滞在も、

 お前の意志じゃなかった。としたら。

「待て」

 ツネは階段を半分くらい下りていた。怪訝そうな顔で見上げる。「なんやの?腹減り?」

「どこ泊まったんだ」今日の夜から今日の朝にかけて。

「ゆーたったら連れ戻しに来るやもしれへんしなあ」

「寺だろ」そこしかない。「群慧の」

「バレとったんならしゃあないなあ。いつまでおっても構へんて。悪うないえ、広いしな」

「そうか」呼び戻せ。

「せやね」

 いまなら間に合う。

 撤回しなければ。「元気でやれ」

「社長サンもな。そこらですれ違うても声掛けへんよ」

「ああ」じゃない。

「ほんならね」

 裏口のドアが開いて、

 閉まる。なんで走らない。駆け下りればすぐだ。追いついて捉まえて。

 言いたいことがあるだろ?

 言ってないことが。何も言ってない。なにも。

 足が動かない。

 声が出ない。

 ベランダに出て下を。いない。裏口から出て逆の方向に行ったのだろう。

 見えない。

 見えるわけが。

 来客を報せる曲。まさか。

 モニタを見もしないで受話器を取ったが、

「夜分遅くすみません」シロウだった。「上がっても」

 大丈夫だ。

 向こうからこっちは見えてない。

「鍵は?忘れたのか」

「仕事じゃありません。2階に上がっても、という意味です」シロウは、まだここにツネがいると思っている。

「持ち込めないものがあるぞ」

「チェックしてもらって構いません。手ぶらのつもりですが」モニタを見る限り、鞄すら持ってないようだった。シロウは両手をひらひらさせる。丸腰だということを示したいのだろう。「下で待ってます」

「いい、信用する。上がってこい」

「いいんですか?」意外そうだった。シロウは困った顔を浮かべる。「僕がここを放り出して何をしてたのか」

「別に殺したいなら殺せ」失って困るものも生き延びる意味も、

 ぜんぶ自分で処分した。

 ついいましがた。

「そのが社長が幸せになれる」

 生まれてきたのが間違いだった。

 出会わなければよかった。生まれてこなければ出会うこともなかったのに。

 なんで生きてる?

 なんで死ななかった?

 出会うよりも前にどうして気づかなかったのか。気づかないふりをしてた。死ぬのが面倒だったから。

 どうでもよかった。

 生きてても、死んでても。

 そう変わらない。なにも、大差ない。

「社長は?病院ですか?」

「殺す相手を間違ったな」だから生き返った。そいつらは殺すべきでないと。死ぬ運命になかったのだと。「何持ってる? 浅樋うすほが持ってたやつでいい」

 シロウがモニタから消えた。

 受話器を戻す。

 階段を駆け上がる音。かんかん、と。

「お邪魔でしたね」シロウはドアを開けない。「あ、でももう上でしたか?」

 上。3階。

「見てくればいい」

「え、あ、でも」

「いいから。行って来い」

「いないんですね?」

 いないのなら。上がってもいいのだろうか。

 ツネに怒られる。

 ツネは。

 ツネ?

 もう、いないんだった。いない。

「開いてるぞ」

「実はそこですごい拾いものをしまして」ドアは開かない。「これは若にお見せしないとと思って」

「拾い物?」手ぶらじゃなかったか?「わざわざそんなことのために」

「そんなこと、かどうかは見て判断してください」ドアは。「開けてください」

「お前が開けろ。なんだ?」ポケットが震える。着信。

 ツネ。

 このタイミングで?というより、ツネが俺に電話?

 あり得ない。

 天変地異の前触れにしたって平和すぎる。それだけはない。ないのだ。

 ツネが俺に電話なんか。かけた試しが。

「どうしました?若?」

「ああ、なんでもない。さっさと入って来い」出るべきか。出ざるべきか。

「もしかして」

 電話。

「鳴ってません?」

 かけるわけない。ツネが俺に電話なんか。

 かけてない。ツネは。

 ツネはかけてない。

「出てください。どうぞ、僕に構わず」

 ドアを蹴り開ける。

 そこに、

 シロウが。ツネと同じ機種のケータイを耳に当てて。

「なんで出てくれないんです?若」


      4


 そこで涙を流している女性が誰なのかわからない。

 社長だ。

 私の手を両の手で挟んで。熱心に何かを唱えている。

 念仏?呪文?

「ずっと、いてくれたのか」私の声でないように聞こえた。「すまないことをした。社長の時間を」

 社長は首をふる。

 どのような意味を持つ?否定。

「見舞いに来てくれたのか」

「なに寝ぼけてんのよ」社長の声が震えている。いつものあの声ではない。社長の声でないように聞こえた。「いたに決まってるでしょ。いさせてよ。こんなときくらい」

 言ってる意味がわからない。「いるのは構わない。いようがいまいが社長の都合だ」

「ばか」

 バカ?「とは」

 私は莫迦なのだろうか。

「もう喋んないで。あんたがばかだってことわかっちゃうから」社長は私の胸部に耳をつける。

 鈍い痛みを感じる。空洞を想起する。

「ねえ、ちゃんと動いてるんでしょうね?怒鳴ってやったんだから。死なせたら承知しないって」社長が眼線だけ私に寄越す。

 布団越しに体温が伝わる。社長の。

「よかった。生きてて、ほんとう。生きてるよね?生きてるってゆって? ねえ」

 つる。と、言ったと思ったのだが。

「つる?」

「いい。もう、忘れてても。忘れちゃってても。あたしが憶えてるから。あたしが」

「社長は私に好意を抱いているのだろうか」

「なによ、好意って」社長が顔を上げる。心なしか機嫌を損ねて。「好意じゃなきゃ何?嫌がらせにでも見える?」

「いくら顧客とはいえまずいのではないだろうか。それに、そのようなことをしてくれなくても私はKREとの関係を切ろうとは思っていないし、これからも末永く」

「KREとか、どうしてそうゆう話にしちゃうわけ? 信じらんない。これだから」

 つるは。

 つる。鶴?弦?蔓?釣る?吊る?攣る?

 どれも違うような気がする。名詞だろうと思う。でなければ代名詞。

「憶えてる?あたしの」

「社長だ。KREの」

「そうじゃなくて。ほかに。ほかよ」

岐蘇キソもとえさん、といったかな名前を」

「だから、そうじゃないってゆってんのよ。ばか」

「そう何度も言わないでほしい。傷つくよ」

「そうね。ごめんなさい」

「いや、気にしないでくれ」

「どっちよ」

 私は生きているのだろう。

 あのとき死んでもいいと思った。体が勝手に動いて。

 社長を守ろうと。

 社長を?「生きている。私は」

「なによそれ。知ってるわよそんなの、見れば」

「社長が生きていて本当によかった。心の底からそう思う」何故かはわからない。「私はいまとても幸せだ」よくわからないが。幸せ?とは。「社長がいまここにいる」手が勝手に。

 社長は恐る恐る応じてくれた。

 優しい。社長は。

「私たちは前世で深いつながりがあったのかもしれないね」

「前世じゃないのよ」

「では来世かな」

「ばか」

「お取り込み中んとこ大変、悪いんですが」聞き覚えのない声だ。

 社長が機敏に姿勢を立て直す。一瞬で顔を拭う。

「え、ちょっと」私から見えない位置に消えてしまった。「なんで、あんた」

「社長サマがご無事ってこたあ」

 誰だろう。

「どうゆうことよ? いない?そんなはず」

「ちょっとお待ちをね。只今安否の確認をば」


      5


 光ってる。どこかにつなげようと。

 俺のも光ってる。どこかからのをつなごうと。

「若?」

 手元を見ずに電源を切った。

 光らなくなる。シロウのも。

 俺のも。

 見てないが。

「すごい拾いものですよね?」

 お前、

 ツネを、

「どこやった?」摑みかかる。には、憎しみが足りない。「ツネは」

「落ち着いてください。若、僕にはできません」

「できないわけないだろ」お前だ。お前が。

 お前じゃなきゃ。

 どこのどいつが俺から、俺の。ツネを。

「彼がいなくなってから、僕が来るまで何分ありましたか?ものの数分のはずですよ。だって、彼が裏口を出てすぐインタフォン押したんですから」

「見てやがったのか?」捕らえるために。「待ち伏せて。じゃあ」

「できないんですよ。インタフォン越しに話してたでしょう?僕は。それってアリバイになりませんか?」

 ツネは。

 どこ。

「車か。退け」階段を駆け下りようとしたところを。

「それとこんなものも」

 拾いました。

 財布。ツネが持ってるやつにそっくりの。

「これがここにあるということは、どこへも行けませんね。身体と引き換え、という裏技を使わない限りは」

 ツネが財布を落とす確率。

 ない。絶対に、ない。命を落としても財布だけは落とさない。そうゆう奴だ。

 命を、

 落とす?駄目だ。考えるな。

 表に車は止まっていない。裏にも。

「ツネ!」一応呼んでみる。「いるのか。いるんなら返事」

「無駄だと思いますよ」シロウが涼しい顔で、ケータイのストラップを指に掛けて。くるくる回す。

 正常な思考をさせまいとしている。都合のいいほうへ誘導するには。

「怒ってます?若。もっと怒るべきです。歳相応に感情を出して。爆発させましょう。ぼーんと」

 車の爆破もこいつだ。

 爆破?厭な予感しかしない。

「行き先は予想つきますよね? 僕にだってわかる」

「アリバイ工作とか下らないこと」

 いたのだ。

 シロウのほかに。

「そうですよ、若。もっとアタマ使ってください。せっかく素晴らしい頭脳をお持ちなのに。勿体ない。宝の持ち腐れと言うものです」シロウはケータイと財布を手の平に乗せて差し出す。営業スマイル付で。「協力者がいない、なんて、言いましたか?」

 こうゆうタイミングで電話なんか寄越すな。最悪だ。

 かけゆきの程よく第三者的な声が。「まさむらさんのベッドがもぬけの殻なんだけどさ。そっち」

 いて堪るか。

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