第142話 イデア論よ
まずイデアとは、大昔の一人の天才が言及した。
簡単に説明すると物の見方のことである。
「それじゃあイット君、この紙に可愛い女の子を描いてみて」
「は!? 何だよ急に? それに俺は絵なんか描いたこと……」
「それじゃ、コハルちゃんを描いてみてよ」
「そんな無茶振りを……」
「説明に必要だからさ。お願いイット君」
渋々、イットはコハルを想像でペンを握り描いてみる。
「お! コハルちゃんの特徴が出て良い絵だね。ウチは結構好きだよ!」
「いや……手の震えとかで、上手くは描けなかったけどな」
画力の問題もあったかもしれないが、自分の思い描く美という物を完璧に表現出来る者はそうそういない。
この世の物理的な作用で、どこかしらに歪みが生じてしまうのだ。
「ちょっと難しかったかな? イット君、次はこの紙に完璧な線を描いてみてよ。これなら簡単だよね?」
ソマリに言われるがまま俺は、定規になりそうな適当な板を見つけ線を描いた。
描き終えた後、ソマリは描いた線をのぞき込む。
「ふふ~ん、分かってたけどねイット君。これはダメなんだよ」
「何がだ?」
「線の端っこが角張っているでしょ? これは線じゃなくて長方形なんだよ」
「……え? いや、線だろこれ?」
「ううん、これは長く描かれた長方形」
「いや……それはただの屁理屈だろ」
そう、今ある物では完璧な線は描けない。
「それじゃあ、最後に紙に点を作ってみて」
言われた通り、紙にペン先を押し当て点を作る。ソマリはそれを覗く。
「……ほら見てイット君、よーく見てみると点の部分が四角く見えない?」
「……」
「反応薄くない?」
「いや、何となく言いたいことは分かった。つまり点も線も概念ってことだろ? 俺が描いたこの点も純粋な点ではないってことだ」
パソコンのビットマップ画像の一つに点を打ち込んだとしてもそれは純粋な点ではなく四角の点になる。
なら角を削って丸くすればいいのかと言ったら、それは丸い点であって、これもまた純粋な点ではない。
線も点も、実は概念だけの存在であって、この世に存在していないのである。
「なら、どうして人族やこの世界に居る者達はそれを知っているの? どうして、見たこともないそれらを描こうとすることが出来ると思う?」
「それは……わからない……」
俺が首を横に振るとソマリは答えた。
「覚えているんだよ……
「
俺の言葉にソマリは、うんと頷き天に祈りを捧げるように目を閉じる。
「
サナエルが俺やロイスを現世に復帰させられないと言ったのはここら辺の天使達によるルールがあるのかもしれないと漠然と思う。
ソマリは続ける。
「
「……でも、輪廻転生しているならその分人生経験を積んでいけるんじゃないのか?」
「ううん、記憶も輪廻転生する度に曖昧になっていって自分が何者だったのか覚えていられないから経験が活かせず苦難するんだって。悪意にまみれた世の中で手に入れた善意こそ、
言い終えたソマリは一息吐く。
「とまあ、ここまでが大天使信仰の前提になるイデア論って言うやつね。つまりこの現世に住んでいる以上完璧なんて無いっていうことなんだ」
「完璧は無い……か」
「そう、だから皆等しく不完全。完璧と言われたロイス君も、ハーフエルフのウチも、そしてイット君も、比べたって必ずほころびは出てくる。どうやったって、みんなみーんな不完全なんだよ」
彼女は笑いながら自分の聖印を見つめる。
「それを踏まえて、ウチが聖職者になった理由はサナエル様信仰の教えに救われたからなんだ」
「教え?」
「うん、サナエル様が下界の死に際だった人間から聞いた言葉。天使達の指標で
えーっとね……と思い出すようにソマリは続ける。
「誰かが自分に求める価値なんかどうでも良い。自分が目指したいって思った大切なものって言うのは……」
ソマリは自身の胸に手を当てる。
「自分が納得出来た、悔いの無い人生のことなんだ」
悔いの無い人生……
一度きりの人生、俺の前世はやりきったのだろうか。
過ぎ去ったことだが、あの時の俺はもう少し前を向いて生きていれば良かったかもしれない。
ただ、周りに怯えて生きていた。
だから、今一生懸命生きている。
このソマリが話していた人物も、きっと精一杯生きようとしていたのだろう。
彼女は俺を見る。
「ウチは小さい頃にお母さんが事故で死んじゃってさ。お父さんを支えながら仲良く暮らしてたんだけど、何故かお父さんが捕まっちゃって自殺しちゃったんだ。その後、ウチもあのガブリエル教会に送られたんだ」
「そうだったのか……その、お父さんはどうして捕まったんだ?」
「今は何となくわかるんだけど、ウチがお父さんの性処理をしてたからって周りの人達が言ってたよ。近親同士での交わりはその地域ではタブーなんだって」
「……ッ!?」
い、いや……その地域ではなく、人族の社会全土でそれはアウトだ。
いつも以上に爆弾発言を放つ彼女に俺は目眩すら感じ始める。
「父親から虐待されていたってウチやお父さんの話を聞かずに引き裂かれちゃったんだよね。みんなから親子同士の交わりを非難されて、それはいけないことだと押しつけられて……ウチはそれがおかしいなんてずっと思えなかったんだ」
「い、いや、それはダメなんじゃ無いか? 血縁が近ければ近い程生まれる子供の遺伝子に異常が強くなる」
「やだなぁ、ちゃんと避妊はしてるよ」
「そうじゃない……」
何とか生物的にそういうことをしちゃいけないことを力説するが、彼女はニコニコ笑顔で流されてしまう。
そして俺が話し終えると彼女はこう言う。
「でも、ウチはお父さんのこと好きで支えたかったから」
「それは……」
「いろいろな人にそれは違うと言われる。最初はウチがおかしくなったのか、って思って悩んでた」
……
話していて何となく思った。
きっと、ソマリは俺が話したようなことを昔から沢山言われてきたのだろうな。
常識から逸脱したことを否定され、だがそれは彼女の思う父親への愛情を否定することになるのではないか。
そう考えると、俺はそれ以上言えなくなった。ソマリはいつも通りの面持ちで語る。
「でもさ、ウチの変と言われた所を皆に言われた通り変えてしまったら、お父さんを支えていたことも、互いに愛し合っていたことも、残されたウチの気持ちも、自分で全否定しちゃうことになるって思ったんだ」
彼女は俺を見る。
「この世界は完璧なんて無い。ウチだけじゃない、皆どこか歪んでいて、皆完璧な答えなんて出せないんだよ」
「……」
「ならさ、自分が納得できる悔いの無い道に進みたいってイット君は思わない? 誰かにとやかく言われない自分だけの道。少なくとも……ウチは思う」
自分が納得出来るもの……
ソマリの感性は確かに異常だ。
しかし、俺も言えた立場の人間では無い。
自分の存在価値を未だに見いだせないただの小者だ。
俺とソマリを比べても、たとえ性的価値観に大きなズレがあっても人として比べてみたら……
ハーフエルフとして蔑まれ、
母を失い父を支え、
父と引き放されたあげく自殺され、
父への愛情を間違いだと指をさされ続けた彼女の人生。
でも、ソマリは笑みを作り俺を励ましてくれる。
人として……ソマリは、俺よりも……
「また自分と比較してるでしょ?」
俺は何も言っていないのにソマリは言い当ててしまった。
「何で分かった?」
「イット君分かり易すぎ、顔に出てるよ?」
「顔?」
「考え込むと真剣な表情になるし、特にネガティブになると悲しそうな顔になる」
そんな顔していたのか俺は……
「少しは気分転換になった? ま! イット君は一度、自分のことを見つめ直した方が良いと思う」
「見つめ直す……ね」
「それか、もしもまたネガティブに考えちゃうなら、どうしたら良いか相談してみると良いよ。ウチよりも心を開ける人に」
イタズラな表情を見せる彼女だった。
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