第9話 術式を破壊せよ

 ネズミの貴種ラッセンが、まだ透明になっていない。術式には欠陥がある。この指摘はマーリンをある面では喜ばせ、ある面では複雑な心境にさせた。

 普通の標準的なヒューマンの生活をしていたアーサーを、無理いって勇者業に引き抜いたのは他ならぬマーリンである。そしてそのマーリンがアーサーをこれぞと見込んだ理由は、彼の国土への愛だった。

 魔境に取り込まれてしまった土地は、水が毒を有するようになり、土は痩せろくな作物が実らない。魔物が多く出没する魔境近くの村では、どんな痩せた土地でも生育できるとされるトウガラシすら枯れ果て、村人たちの多くが餓死していた。

 勇者になってからはお調子者になってしまったアーサーは、もしかしたら絶望に苛まれる国民を勇気づけるためにそのキャラを演じていたのではないか。そんなことをマーリンは思う。 

 廃れた村の人々のために、アーサーは私費を投じて炊き出しを行った。それがアーサーの、初めての〝浪費〟だった。そしてそこから、彼の〝短期バイト生活〟が始まった。

 王国とそこに住まう人々を愛したアーサーが、身命を投げ打って行った魔法が、何の役にも立たないことを知って、彼がどう思うだろうか。確かに、術式をいま破壊すれば彼の命は助かるだろう。けれども、すでに彼は大量の血を吐いた。もう普通のヒューマンに戻れるともわからない。身体を取り戻せるとも限らない。いくらマーリンでも、禁忌魔法を行った人間への、罰としての肉体の欠損を治癒することは難しいからだ。

 かつてネズミの貴種ラッセンに、多大なる魔力を与えた上で知性を奪った神王。彼は世界の秩序を司るとされ、実際に国を治める王は庶王と呼ばれ神王の下に位置するとされる。禁忌魔法を実行することで肉体が奪われたとしたらそれは神王の意思であり、魔法の使えるエルフといえども神王の意思に背くことはできないのだ。

 思い悩むマーリンを、ポポロとメトリスが心配そうに覗き込む。

「ねえ、どうしたのマーリン。いますぐ術式を破壊しなきゃ」

「マーリンらしくないですー。アーサーさんのために早く決断してくださいー」

 そうなのだ。アーサーの生存を何よりも大切にし、それを望むならば、躊躇せずに術式を壊すべきなのだ。こうしている間にも、術式はアーサーの身体を蝕んでいる。

 しかし、マーリンは動けない。アーサーが意識を失う前に、言った言葉がある。


『剣と魔法じゃ、魔王は倒せない』


 アーサーは苦しげに言った。魔王と庶王は、歪な共生関係にあると。それはマーリンにも信じがたいことだった。いわんや、ポポロとメトリスをや。

 アーサーはお調子者ではあったが、嘘を言うような人間ではない。だから、少なくとも冗談でそんなことは言わない。そしてアーサーの言うことが本当なのなら、普通に勇者としてパーティを編成して魔境に攻め込むだけでは、魔王を倒せない。

『考えて、今でも水源の多くは魔境側に存在している。魔王はなぜ、我々を殺しうるだけの毒を流さないの? 水なしで俺たちは生きられない。致死量の毒を流されたら王国は一夜にして滅ぶ。どうして遅効性の神経毒なんて入れて、徐々に弱らせるの?』

 アーサーの言葉がリフレインする。

『軍隊を編成するだけの力はまだ王国には残っている。訓練された職業軍人の方が、よく戦えるだろうに、なぜ傭兵のような勇者業なんてシステムに頼るの?』

 極め付けは、これ。

『何で王は、一度たりとて魔境に攻勢を仕掛けないの?』

 王国が魔王と共存しているのなら、魔王と本気で戦おうとした勇者は潰される。それこそ、敵地で味方に撃たれかねない。

 だからこそ、やる気のない勇者として油断されているうちに、身を賭して魔王を倒す。その悲壮な決意すら、報われなかったとアーサーが知って、果たして正気でいられるだろうか。

 マーリンは逡巡する。そして夜が更けても答えはでないのだった。

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