真冬が過ぎて月の光も丸くなった。風が生ぬるくなった。

 問題が起きたのはあるSAに立ち寄ったときだった。光の反射の加減で見えなくなっていた路上のガラス片、ビール瓶が砕けてちらばった半透明の緑色のガラス片を踏んで、おれのマシンのタイヤは使い物にならなくなってしまった。ライダーはマシンの片隅から諸々の器具を取り出し、赤いマシンを持ち上げて金具を装着し、自分の黒いマシンにも同様の金具を付けて、固定した上から青いゴムのような紐で縛りつけた。

「整備するよ。うちに持っていけばガレージもあるし。まかせて、バイク仲間のよしみってことでさ」

 どうしようもない、異存もなかった。

 黒いマシンに跨ったライダーの後ろにかけて、腰に腕をまわしてつかまる。とくべつ艶のない革のスーツは臍から腹、腰を継ぎ目なくひとつなりに結んでくるみ、鯨の皮膚のようだった。銀色の月が照って光っていた。

 バーンを抜けて一般道に降り、森を抜けて街区に入り、海沿いの小さな町を少し過ぎて、突き出た岬のもとのあたりの、一階はガレージ、二階が居住スペースになっているらしい古びた赤い屋根の家の前でマシンは停まった。

 ガレージを開けてマシン二台を引き入れる。広い、ほとんどがらんどうのようなガレージに二台しておさまる。停めるとライダーは何か言うでもなくガレージを出て脇にある階段を上っていく。

「あの、整備は」

「疲れたでしょ? 上来なよ、休も」

 金属の階段を上る固い音が聞こえる。整備に使う道具類はすべて壁に沿って置かれた棚に収められて、あるいは卓に乗っていて、床に何か散らばっているということはすこしもない、まばゆい蛍光灯に照らされたコンクリートの、普段はたったバイク一台を収めておくにはあまりにも大きなガレージ。

 ガレージの上の部屋は玄関から細く短い廊下を通ると奥にキッチンがあり、リビングがあって、正面の街路向きに大きな窓が嵌められている。キッチンの奥にはごみ袋が三四積まれており、リビングにはテレビと腰の高さほどのオーディオ、ガラスの低いテーブル、ビーズ詰めの丸いソファ、クッション付きのアームチェア、ごみばこ、それらの内のどれもが、今やぬるま湯のようとさえ感じられることのなく、肌に迫ることのない、そうであるのに強く実感されるとてつもなく暗い青から黒、夜の色合いに沈んでいる。

 風呂やトイレは玄関のすぐ近くにある左向きに折れる道の奥にあって、さらにリビングからはもう一つ別の部屋に繋がるドアが見えた。寝室はリビングに至るまでの道筋では目にすることができなかった。暖かかった。肌を切るような寒さもない、優しい闇だ。ただ花の芳香だけがひとしおきわだって強くにおっていた。

 そう広い家ではない。しかしたった一人だけで暮らすような大きさではない。

 ライダーは適当にソファや椅子に腰かけておくよう言うと、ライディングウェアを着込んだ姿のまま、キッチンの冷蔵庫からビール缶を二本持ってよこした。

「明日学校休んじゃいなって」

 べつにかまわなかった。一口飲んだ。ライダーは濡れた濃い色をした木の棚から柿の種を取り出して紙皿に広げた。ビーフジャーキーも出してみせた。ライダーは電気を点けずに、月あかりで明るかった。なにもかもが暗く沈んでいて、端々だけが月をうけて白く光っていた。

 何本か飲んで、寝ていたらしく、おれは敷居の上に転がっていた。フローリングのリビングと畳張りの部屋の間にいて、窓のない和室に腰から上をつっこんでいる。暗がりに目が馴れていて、引き戸の向かいに黒くひかる仏壇が見えた。漆塗りの艶めいた黒に嵌め込まれた黄金の端々が幽霊のように白く輝いている。ぼんやりと明るんで暗い中に色付いてうかんでみえるものが、四つの額が見える。この畳の部屋から一つ行ったところにライダーの寝室があった、おれはライダーが着替えるからと言ってその寝室に入っていくのを見たのを思い出した。

 ぬるい空気を感じる肌に、ぴったり隙間なくビニールの膜を被せて、接ぎ目をバーナーか何かで溶接されている心地がした。頭蓋骨の中で流動するとろみのあるものが右に左にゆれて、立ち上がるとそのとろみのあるものをこぼすまいとするように体がふらつき、一度膝をついて、転がっているペットボトルの水を探してごみの上を這う。畳まれた服、脱ぎ散らかされた服、ごみばこに投げられて的をはずした紙くず、小さなレジ袋、潰れた缶、乾きものの包装、乾いたくずの乗った紙皿。

 部屋の端に転がるペットボトルをつかんでのみほす。月は低くなっていたがまだ差し込んでいて、夜の海のようにくろぐろとした濃い藍色をかすかに照らしている。そこかしこにシャツやソックスが吊るされてかたまっていた。ちょうど近くにあって目にとまった吊るされた下着のカップはそれまでおれが見たどんな女のものよりも大きかった。芥子色、黄檗、紅に紫色、瑠璃色、色とりどりの糸の、色とりどりの刺繍があって、円といい、方形といい、大輪の花を描き、草木を描いて、それとまったく同時に並んだ目玉を描き、宝石を描き、雨粒を描いているように見えた。

 めまいを催す柄におれは目を逸らした。突っ立っているのも所在ないのでその場に腰を下ろすと、ライダーは窓を背にして眠っていた。薄い色の肌着を着て、起毛の黒い上着を一枚羽織り、貝のような白いまぶた、真夜中の海の底砂の下でぴったりと閉じこもって満点の星の夢を見ている二枚貝のようなまぶたを閉じて静かに眠っている。上着の前は開いて、桃色の肌着の広い裾から乳房の重なりが陰を濃くしているのが見えた。

 これは開いた肉だ。おれは思った。これは開いた肉だ。これは黒い革に毛皮に覆われていた。それが開いて、肉があらわになった。肉はうすだいだいで、桃色で、乳色だ。注意を向けてライダーの顔を凝っと見るのはこれがはじめてのことだった。おれは真上にちかい斜め上の位置からのぞきこむようにして凝っと見た。生え際の丸い輪郭を見た、びっしりと毛髪が境を定めていた。普段ヘルメットに収まっている髪を見た、乾いて枕代わりのぬいぐるみの上にちらばっていた。顎と首筋と肩口を見た、胴は膨れた胸から骨がわずかに浮いて首は細く小さかった。唇を見た、剥き出しの奥には裂けた岩盤からみえる鍾乳石のように歯がのぞいていた。鼻を見た、銀色に光る目が、月光にひらかれた白銀色の目がまっすぐにおれを見据えていた。

 丸い目がくっきりとひらかれていた、ひらいた目がおれを見ている、丸い銀色の光がおれをみつめている、光る銀色のふたつの目がおれをみつめている!

 どうしたの?

 ライダーは何ということもないいたずらっぽい笑顔で声をかけてくる。その目が銀色に光っている。光はおれをつらぬいて銀河の無限遠点まで届いているように深かった。見下ろす形だったおれが後ろにのいても驚くようすもない。上体を起こして、ライダーは呼びよせるように自分のそばの床を叩いて足許が揺れる。

 月の光がかすかに差し込んでいる。月の光がかすかに差し込んで部屋中が光っている。そのもっとも奥まった、もっとも光に近い場所で起き上がった体は胸を肩をさらして青白い生気のない色味にみちみちている。頸の下に垂れさがった房の二つが、不吉なことに、荒野のならずものから奪い取った二つの首、血の滴るまま麻紐で縛り付けられた二つの首に見えた。一瞬の空目だ。おれはただ月の光を背にして銀色に光る目がこちらを見るそのことにたまらなく縮みあがった。丸い瞳が背にしたはずの月を頭を素通りさせてくっきりとおれを見ている。陰を持ってにこやかな笑顔を見せてくる。それはどうしてそんなふうに笑っている? いつから目を開けていてそんなふうに笑っている? 小さな肉が滑りだしてそっと唇を舐める。床を蹴って外にとびだす。夜明け前で凍るように寒い。心臓が弾けて縮む。氷のような月が水平線の上に浮かんでいる。その月がマシンに乗っているときとは比べ物にならない鈍足でついてくる。山の彼方の空が薄く染まっている……


 日が昇り、何時間経っただろう、葉むらの緑やブロック塀の明るい色彩の光の中で、湾に沿って山並にへばりついた小さな町の中を道に迷いながら戻ってくると、だだっぴろい一階のガレージで、黒い油をそこかしこに付けて、まさに今作業が終わったばかりといった顔でライダーが出迎えてみせた。

「どこ行ってたの?」

「散歩に行ってた」

「そう」

 何を言うでもなく見てくる。その目にはもうあの銀色の光は見えなかった。ただ十人並みの黒い瞳が、明るい埃っぽい空気をへだてて見ている。

「早く起きすぎたみたいで、寝てたから」

 催促されるのを感じておれは言った。ライダーは、

「そう」

 と言ったきり、やはりまだ催促する視線を送ってきたが、やがてそれもしなくなった。いつか見たような調子でにこやかに笑う。

「とりあえず、一通り修理はしたから」

「ありがとう」

「朝ごはん、何か食べてく?」

「いや。すみません」

「途中まで送ろうか」

「大丈夫、です」

 歯の根が合わなかった。最後まで言いきれた。

 海辺を走る。さざなみが手招きする。葉叢の緑と海の青、コンクリートの潮に汚れた灰色を赤いマシンで抜き去って、おれは、黒々とした国道を通って、バーンへ上っていく。

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