World 0 date.12.27 伊勢崎 心
「伊勢崎、今日はもう帰れ」
「いや、大丈夫です」
座り込んでいた俺に、顧問の安田先生が鋭い目つきで見下ろした。
「さっきからお前、全然集中出来てないぞ。インフルエンザも流行ってるし、無理すんな」
不本意ながらも半強制的に部活を早退させられた俺は、更衣室で一人立ち尽くしていた。ロッカーに書かれた名前は
ピコ、とメッセージアプリの音が鳴り、俺はロッカーをあけて、スマホを手に取った。
画面を見ると、俺が最後に見たYニュースが目に飛び込んできた。
心拍数が突如跳ね上がり、吐き気を催しそうになった。
椅子の上に座り込んだ俺は唾を一つのみこみ、画面を覗き込む。
「12月24日午後6時10分ごろ、井田線、三宅坂駅のホームで、女子高校生、楠 美奈さんが美園公園行き下り特急列車(10両編成)にひかれ、全身を強く打って死亡した」
——あの娘に違いない——
思わずスマホを握る手に力が入った。居ても立っても居られなくなった俺は、急いで制服に着替えて走り出していた。目的は、三宅坂駅。
駅に着いた俺は、何をするでもなく、ホームのベンチに座り込んだ。
たった3日前のクリスマスイブ、あの娘はこのホームに飛び込んだ。
もちろん俺はそんなこと知るはずもなく、年明けの試合に向けて部活で汗を流していた。事件を知ったのは、翌日のYニュースだった。
俺は中学3年の時、毎朝あの娘と同じ電車だった。いつも寂しげで、でもどこか確かな何かを見つめているようなその瞳を、気づけば毎朝探すようになっていた。肩までストンと落ちる黒髪と少し垂れた目尻。
あの娘が痴漢の被害に遭っているのに気づいた俺は、敢えて近くに乗るようにした。俺が守ってあげないときっとあの娘は潰れてしまう、そんな気がしたからだ。さりげなく間に入って、サラリーマンの男を一度にらみつけると、その男は同じ電車では見かけなくなった。
中学を卒業してからは電車が変わって、一緒の電車に乗ることもなくなったが、この電車に乗るたびに俺は思い出していた、あの娘のことを。いつか何かのきっかけで会えるかもしれない、そんな淡い願いを込めて。
その再会がこんなニュースだなんて。
あの娘は悩んでいたんだ、誰も助けてくれなかったんだ。自分があの場所にいさえすれば……。今更後悔してももう遅い、俺はベンチを一つ拳で殴りつけていた。そんな俺の気持ちにお構いもせず、ホームにはさっきから何度も井田線の電車が行き交っていた。
あの時に戻りたい、その願いが叶うなら俺は悪魔にだって魂を売ってもいい、本気でそう思っていた。
「……で、俺の出番というわけだ」
隣のベンチから男の声がした。
きっと人違いだろう、俺は何も喋っていない。にもかかわらず男は続ける。
「喋ってないのに伝わるってことは、もうわかるだろ? 俺はお前が求めている存在だ」
俺は声を主を見た。黒づくめのスーツに武将髭。へらへらした、薄気味悪い大人が座っていた。
「そんなひどい目で俺を見るなって。あんたを助けにきてやったんだから」
「助けに?」
「そうだよ。なんとかしたいんだろ? してやってもいいぜ」
悪魔に魂を売ってもいいとは思っていたけど、まさかな。
「何をしてくれるんですか?」
「お前をあの日に戻してやろう、それが願いだろ?」
それができるなら苦労しない。だが、こういうもには必ずウラがある。
「でも、きっと何か代償みたいなのがあるんでしょう」
「そりゃそうだ。それは……」
男は鼻の下の髭をしごいた。
「お前の命」
はっきりとそう言った。
「俺はお前をあの日の戻すことができる。でも断言する、お前は助けるときに死ぬぞ。そしてお前が死ねば、残りの人生分の命を俺がいただく、それが代償だ」
男はA4サイズの紙を俺に見せてきた。
そこには俺の知らない言語で何やら文章が書かれていた。そしてその紙が一つぼんやりと光を放った。どんなトリックだろうか。
「よければその紙をタッチしろ。命を捨てる覚悟がなければ止めればいい」
にわかに信じ難い話だ。これを受け入れてしまったら、俺は死ぬんだろうか、もしそうだとしたら……。俺はいくつかの質問を男にした。その後決めたことがある。
「分かった。やってくれ」
男はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「いいんだな?」
俺は頷いた。
すると男は指を俺の額に当てた。
「まったく最近の若いもんは簡単に命を捨てやがる」
その声の最後はよく聞こえなかった。
その間にも俺の記憶は遥か遠くに飛ばされ始めていたのだった。
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