第10話 「項王来!」
とんでもない事になった。
正直なところ、張良はそう思った。
『もっと、兵力を』そう思っていた自分が、遙か昔のことのようだ。
この眼前の光景は一体、何だ。
「だから言ったでしょう。心配は要らないと」
陳平が涼しい顔で、いや、暑苦しいのは変わらないが、言った。
野を埋め尽くす兵士の姿がそこにあった。その立ち並んだ旗を見るだけで、中原すべて、いや塞外の民族まで集まってきているのではないかと思われた。
「二十万はいるのではないか」
ほとんど呆然と張良が呟いた。
陳平が優しい目で、とどめを刺す。ああ、いいところでしょうね。ですが。と。
「これで、見えているのは半分くらいでしょう」
ははは、と力なく笑う張良。こんな事態は想像していなかった。
まずいぞ、これは。
「まずいよなぁ。これは」
はからずも同じ頃、帷幕に囲まれた本営の奥で、韓信も同じ事を呟いた。
兵糧については心配していない。それは
「多すぎるぞ、これは」
ぼんやりした彼の顔に、珍しく焦りが見えていた。
後年、劉邦との雑談で、自らが指揮できる兵数について『多々、益々弁ズ』(兵が多ければ多いほどいい)と豪語した韓信とは思えない悩みだった。
この五十万に迫る大軍。
いや。こんなもの、大軍などではない。韓信は舌打ちした。
「なぜこんな事になった……」
ついには頭を抱えてしまった。
「張良どのを呼んでくれ、……いや。俺が行く。そう伝えておいてくれ」
ゆらり、と立ち上がった韓信。いつも以上に力感のない姿だった。
「
韓信が、怒りさえ感じられる声で言った。張良は意外な思いで彼の顔を見た。
「あの腐れ
「おい。その言い方は、韓信らしくないではないか」
顔を上げた韓信と目が合った。ギラギラと、何かに取り憑かれているような目。
その妖しい光が、すっと消えた。
「ああ、そうだな。すまん。味方の手腕を喜ぶべきだな」
しかし、その口調にはまだ不穏なものを感じさせた。
「この兵力で戦うことを考えねば」
実は、問題はその兵数ではなかった。
本当に韓信と張良が懸念しているのは、その指揮系統だった。
”劉邦と同格”の各国の王や、将軍が寄り合っているだけなのだ。つまり韓信の命令は漢軍にしか効力を持たない。他の軍団に韓信の命令を聞く義務はないからだ。
韓信は協力をお願いする、その程度しかできないのだった。
さらに言えば、練度の問題もあった。もし彼らが韓信の命令を受け入れるとしても、それが韓信の思い通りに動く可能性など皆無だった。
「なんとも壮大な雑軍だ」
韓信は自嘲気味に言うと、空を見上げた。
この軍は進めば進むほど兵数を増していった。日に日に参加する部隊が増えていき、ついには五十万を超えた。
こうなると、もう参謀ごときの出番はない。
司令官が、
事実その通りだった。
大地を覆い尽くす集団は、抵抗する項羽軍の小部隊を踏みつぶしながら東へ、彭城へ、と進んでいく。その前に敵はいないように見えた。
「変です。ここから二日の距離まで探索を行いましたが、項羽の主力軍が出てきている様子はありません」
偵察から戻った
韓信と張良は顔を見合わせた。だが、これはある程度想像できていた。
「
旧来の王族と、項羽が任命した新しい王との争いがあり、新王が殺されたらしい。怒り狂った項羽はみずから軍を率い、斉(中国の北東部、現在の山東省あたり)へ向かったのだった。しかし、王族の
そして、項羽は劉邦たちが彭城を目指している事など知りもしなかった。
つまり彭城は、がら空きだったのだ。
「転進しよう」
そう言ったのは、どちらが先だったか。
韓信と張良は声をそろえて言った。
彭城など、構っている場合ではない。このまま北上し、項羽を後ろから襲撃するのだ。田氏の斉軍と一緒に挟撃すれば、勝てる。
項羽を、倒せるのだ。
あの項羽を。
勝てるぞ、信。心の中で張良は、韓の地で苦闘しているであろう韓王信に語りかけた。興奮を抑える事ができなかった。涙までにじんできた。
「行くぞ、韓信。漢王に進言しなくては」
張良も韓信も、身体が小刻みに震えていた。
その漢王劉邦は他国の王を集め、大宴会の最中だった。
「彭城には向かわんのか?」
二人を前に、劉邦は、ぽかんとした顔になった。そして間の抜けた声で言った。
「なぜだ」
なぜだも、クソもあるか。張良は叫びたくなった。これまで説明してきたではないか。これこそ千載一遇の好機、いや二度とない天与の機会なのだと。
「わしは、彭城に入りたい」
そうであろう、皆様がた。
劉邦の呼びかけに、周囲の王どもが声をあげる。そうだ、そうだ、と。
「なぜだ」
今度は張良が呻いた。全身の血が逆流した思いだった。
項羽に勝てるのだぞ!
「いやいや、子房よ。奴の本拠である彭城を陥としてこそ、勝利ではないか。彭城の連中にそれを思い知らせてやるのだ。お前達は負けたのだとな」
かつて項羽は、咸陽ではなく彭城を本拠としたことを問われ、故郷に凱旋しないのは夜、錦を着て歩くようなものだと発言し、嗤われたことがある。
その噂を聞いた張良は、やはり劉邦以上の馬鹿だったか、と思ったものだ。
しかし。それは撤回しなければならない。
この男の方が断然、馬鹿だ。信じられないほどの。
「帰るぞ、張良どの」
韓信は張良を引きずるように天幕を出た。声が震えていた。
「彭城を陥としてからでも、間に合うかも、しれぬ」
こうなれば、速戦速決あるのみ。
悲壮な決意を表情に表し、韓信は足早に本営に戻った。
あっけなく彭城は陥ちた。
守備部隊など、五十万を超える兵の前ではものの数にも入らない。市街に侵入した漢の連合軍は、逃げる兵を追いもせず真っ直ぐ王宮へ乱入した。
咸陽の惨劇が再び行われた。
奪い尽くし、犯しぬいた。
「これは勝利ではないのだぞ!」
喧噪の中、張良は劉邦の耳元で叫び続けた。
「北へ向かえ。早く軍を斉へ向けろ」
しかし劉邦は、酔いでどろん、とした視線を向けるだけだった。
「大丈夫だ、子房。見ろこの兵力。項羽が戻ったとて、どれ程のものだ」
大口を開け、酒臭い息を吐きながら笑う。
韓信がその長身を折り曲げるようにして劉邦に迫った。
「せめて、俺の配下だけでも向かわせてくれ。必ず朗報を持って帰るから」
おや、漢王さま。抜け駆けですかな、感心いたしませんな。と声が上がった。
「まさか、戦う時は皆さんと一緒ですとも。……もういい、下がれ韓信。子房もだ。わしが呼ぶまで謹慎しておれ」
張良は身体が冷たくなって行くのを感じた。
隣に立つ長身の男を見上げる。気付いた韓信が彼女を見返した。何の感情もない、墨汁で塗りつぶしたような瞳。
ああ、初めて会ったときの韓信の目だ。張良は思った。
項羽の陣営で、自分の能力を全く認めてもらえなかった頃の瞳だった。
もう、何も言わず二人は外に出た。
数日後、その声が、連合軍の陣営にわき上がった。
恐怖とともに。
「
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