第9話 二人の軍師

 漢軍が続々と、東へ進発していく。


 見送る張良に並ぶように、熱気と湿度の塊のような男が立った。

 陳平だった。額に汗を浮かべ、ふー、ふー、と息をついている。

「壮観ですな、張良どの」

「はい」

 本音を言えば、もっと兵力が欲しい。しかし今、それを言っても仕方ないことだ。

 以前、劉邦と韓信も軍議の席で同じ事を求めた。その時の簫何の困ったような顔を思い出した。張良もやはり黙り込むしかなかった。関中はこの有様であるし、蜀や漢中はまだ固めたとは言い難い。どこにも兵力の供給元がないのだ。

「反項羽の勢力を漢に取り込みます」

 張良の方針はそれに尽きる。敵の敵は味方。この際、どんな相手でも構わない。酈食其れきいきを派遣し、項羽に反感を持つ各地の軍閥を焚き付けているのはその為だ。

 酈食其は酈商れきしょうの兄だった。儒者である。儒教自体、一般に認められているとは言えないこの時代である。尊敬を受ける、というより変わり者として敬遠されているのが本当のところだ。

 この点、後に国教となったことも含め、古代ローマ帝国初期のキリスト教徒と似ている。だがこの男は、とにかく度胸があり弁がたつ。相手が王であれ物怖じすることが一切ない。自らの主張を叩きつけ、屈するという事を知らない。

 そこに若干の危惧を感じなくはないが、とにかくこの男に任せるしかなかった。


「心配はいりませんよ、張良どの。各地で反項羽の火種はくすぶっております。漢王が東進すれば皆、麾下に馳せ参ずることでしょう」

「期待を戦略に組み込むことは、控えるべきではないですか?」

 張良が指摘するが、彼は笑って手をひらひらさせた。

「いや。きっと、そうなります。それが、人間というものです」


 この二人の軍師には決定的な違いがあった。

 張良がその頭脳のすべてを戦略、戦術につぎ込んでいるのに対し、陳平は軍事と政治の割合が半々といった所だ。つまりバランスがとれている。

 漢が中原を統一した後、張良は朝廷を去り、陳平が政治の中心に居続けることができたのはこの違いのせいでもあったのだろう。


「ところで、張良どの。黄石公の兵法書とやらをお持ちだとか」

 ええ、まあ。と張良は口を濁した。

「ぜひとも拝見したいのですが」

 懇願する表情の陳平だった。張良も決して出し惜しみをする訳ではない。しかし、あれだけは見せられない。

「黄石公といえばもっともらしいのですが。この老人は父のところに身を寄せていた書籍狂の変人なのです。孫子、呉子、司馬兵法などから気に入った文章を一つにまとめた、というのがその兵法書の正体なのです。私が子供のころ読まされたものなので」

「なるほど、子供向けに抜粋したものでしたか」

「ですから、すべての兵法書を諳んじておられる陳平どのには、すでに不要のものでしょう。いや、ご期待に添えず申し訳ありません」

「はは、そんな事はありませんが。そうですか、それは残念」

 そこで、この話題は打ち切りとなった。張良は安堵の息をついた。


 危ないところだった。あれは兵法書とは名ばかり。いや半分は確かに陳平に言った通りなのだが、あとの半分は房中術を記したものだったのである。

 そんなもの他人に見せられる訳がない。張良、いや胡蓉は、中身はともかく、乙女なのだから。好色えっちな女子と思われるのは耐えられない。

 思えば、こんなものを年端もいかない少女に朗読させていたあの老人。

 実はとんでもない変態だったのではないのか。張良は今更ながら冷や汗が流れた。


 張良と陳平のような軍師の組み合わせは、後世にも現れる。

 諸葛亮と龐統、日本でも竹中半兵衛と黒田官兵衛。真田幸村と後藤又兵衛など。

 静と動の組み合わせといってもいい。

 彼らの作劇上のモデルとなったのがこの二人なのであろう。

 ただ、今ここに立つ二人は、気の短い暴力少女と、手汗の肥満体男なのだが。

 残念ながら、決して絵になる二人ではない。

 二人が中国史上最高の軍師と呼ばれるのは、もう少しあとのことだった。


「そろそろ、お時間です」

 呼びかけられた二人は、揃って振り向いた。

「では、参りましょう」

 陳平の言葉に、張良は頷いた。







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