第8話 漢軍、東征へ起つ
劉邦は自らの国を『漢』と名付けた。
これが前漢から後漢(西漢、東漢ともいう)あわせて約四百年にわたる大帝国の始まりである。
秦の国都であった咸陽は項羽によって焼き払われていた。
「慌てずに、章邯が街を復旧した後に戻ってくればよかったのだな」
劉邦の軽口に、簫何が厳しい目を向けた。
「陛下、これは漢王陛下が行うべき事であるという、天の意思でございましょう」
「あ、ああ。分かっているとも。だから、そんな怖い顔をするな」
とりあえず咸陽から少し離れた場所に仮の王宮を設け、政治を執ることになった。
「我らは、東へ向かう」
開口一番、劉邦は言った。大広間に集まった武官、文官を前にして高らかに宣言する。
「項羽を打倒し、この戦乱を終わらせるのだ」
各地に新しい王を封じた項羽は、自らを楚王と称し、旧楚の中心都市である彭城を都としていた。目的地は、その彭城だった。
「戦乱が嫌だったら、反乱を起こさなければいいのに。と、思いませんか」
張良の隣に立った男が言った。
「思い切ったことを言う。
振り向いてその男を見上げた。
「わたしのような者の名をご存知とは、恐れ入ります」
この男も最近、項羽の軍から鞍替えしてきた一人だった。すでに劉邦の側近として取り立てられている。
この男。上背もあるのだが、とにかくよく太っている。胴回りなど、張良の三倍はありそうだ。額から首筋にかけて汗とも脂ともつかないものでテカテカ光っている。見るからに暑苦しい。ただ、この男の肌は異常に綺麗なのが印象的だった。
「張良どの、ですな」
ええ、と張良はうなづいた。
「これは感激です。あの“鴻門の会”で項羽と渡り合ったという、張良どのと、こうしてお話ができるとは」
噂とはひとりで歩き出すものだ。渡り合ってなどいるものか。
肩をすくめる張良の両手を、陳平は握りしめた。
にゅる、とした感触。
汗が、汗がっ。
張良は全身に鳥肌がたったのが分かった。
「では、これから宜しくお願いいたします、張良どの」
「え、ええ。こちらこそ」
陳平に見えないように、張良はそっと両手を拭った。
続いて劉邦は漢軍の人事を言い渡していた。
大将軍、つまり漢軍の実働部隊の長は、当然のことだが韓信である。
漢王と並んで立つ韓信は、いつものぼーっとした表情で、嬉しいのか緊張しているのか、外見からは全く判断ができない。
だが、陣頭に立った時のこの男の迫力は凄まじいものがあった。どんな相手に対しても一歩も引かないその姿は感動すら憶えた。
そんな勇猛果敢な戦いぶりで、つねに軍功第一を誇っていた彼だが、どうやら今回は後方に下がるらしい。
一方の曹参は韓信の副将となった。有り体にいえば、韓信のお目付役である。
以前から韓信に対して口うるさい事を言い続けている曹参だ。放っておけば何をし始めるか分からない韓信を野放しにはできない、と言う劉邦の意向だった。
この時、韓(王)信は、劉邦によって韓の王に封ぜられ、文字通り韓王信となった。ただし、領土は切り取り次第。項羽によって封ぜられた韓王を逐い、周囲の項羽派の王とも戦い、自分の手で韓の地を取り戻せ、ということだ。
「ついて来てくれ、とは言わないのか」
張良が問いかける。韓王信は首を振った。
「今は、無理だということくらい分かってる。僕よりも、項王と戦わなきゃならない漢王陛下のほうが、胡蓉を必要としているみたいだから」
「私が帰る場所を造っておいてくれるか、信」
「ああ。きっとな。だから、無事で帰ってきてくれ、胡蓉」
「武運を祈る、韓王どの」
そして張良の進言により、
「騎兵の独立した運用ですか。面白い事を考えるものだな」
だけどなぁ、と灌嬰は頭を掻いた。
「部隊の編成からやれ、なんて。どうしよう、匈奴から兵士を雇おうか」
冗談めかして彼は言ったが、それは張良もよく分かる。
戦国期、趙の武霊王が初めて騎兵を取り入れたと言われるが、中原ではまだ主戦力とはなっていない。ましてや、山ばかりの漢中や蜀を本拠とする漢軍では騎馬隊を編制しようにも馬そのものの数が少ないのだ。まして馬に乗れる者など……。
「面倒なことを押しつけてくださる」
時間がかかりますよ、そう言って灌嬰は涼やかに笑った。
あの
「へえ、お主が」
呆れたような張良の顔を見た酈商は、なぜか得意げだった。たしかに、あれから功績をあげていたから、張良とて文句はつけられない。
「まあ、よくやっていたからな」
「それはそうっすよ。あん時の項羽と比べたら、そこらへんの奴なんて雑魚っすよ、雑魚。いや、ボウフラっすね」
相当に意訳すればこんな事を言い放った。
大丈夫なのだろうか、この男。
劉邦の背後に立っている樊噲が、こちらを見て笑顔を見せた。
さあ、勝負の始まりだ。張良は心のなかで呟いた。
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