第3話 張良と項伯

 きらびやかに着飾った女たちの一団が項羽の陣営に入っていく。

 陣門に立つ兵士もあえて制止しようとはしなかった。脂粉の匂いを残して本陣の方向へ向かう彼女たちは、選ばれた咸陽の芸妓達だった。

 その中にひとり小さな姿があった。頭から薄衣うすぎぬを被り顔を隠している。久しぶりに女性の姿に戻った張良だった。

「せっかくしてあげたのに。お化粧落としてしまって、よかったの?」

 年嵩としかさの女が声をかける。

「旧知の人に会うのです。私と分からなかったら、説明が面倒ですから」

 それでなくとも、こんな見掛けになってしまっているのだし。

「綺麗だったのに、勿体ないね」

「自分が女だということを、思い出しましたよ」

 張良は艶然と笑った。十代半ばの少女の笑顔ではなかった。




 天幕の中で自分の前に立っている女は、どこか見覚えがあった。項伯こうはくは首をひねった。思い当たる女はいた。だが、こんな少女ではない筈だ。一体あれから何年経っているというのだ。もしそうなら、逆に若返っているではないか。

「どうした、項伯。を見忘れたか」

 その少女は言った。彼がよく知っている口調で。

胡蓉こよう、なのか。いや、それならその姿はどうしたことだ」

 だって、お前はもう四十過ぎ……、言いかけた項伯は張良に張り倒された。

「私はそんな齢ではないっ。要点だけ言う。私はいま沛公はいこうの軍にいる」

 それだけで、項伯は悟った。

「そうか。親父どのの名を受継いだのだな、胡蓉が」

 項伯はもう一度、彼女の本当の名を呼んだ。

「旧交を暖めに来た訳ではあるまい。わしに何をさせたい?」

 亡命したいのなら、項羽に取り次いでやるから心配はいらないぞ、項伯はそう言って胸を張った。

「あなたは、項羽どのに影響力を持つと聞いた」

 ああ、それなりにはな、とうなづく項伯。

「では、沛公の事を項羽どのに取りなしてくれ。あの男に悪気はない。ただの馬鹿なのだ。決して項羽どのに反逆するつもりはないのだ」

 項伯は、深く考え込んだ。

「あの男に抱かれたのか、胡蓉」

 張良=胡蓉は彼から目を逸らさなかった。そして言った。

「ああ、私が望んだ訳ではないがな。そして、その結果が、これだ」

 自分の少女となった身体を示す。

 項伯はゆっくりと首を左右に振った。

「だが、良い時に来た。可能性はある。これが昨日までであれば、言い出した途端、わしでさえ斬られていただろう」

 張良は眉根を寄せ、小首をかしげる。その仕草は確かに十代の娘のものだった。


「項羽は沛公を殺す気はないと思う。咸陽入りに先を越された怒りはもう鎮まっているからな。本当に奴の気分は読めない」

 一体、なにがあった。張良は問いかけた。

「決まっている。たった一人で我が軍を蹴散らした、あの男を見たからだ」

 酈商を救い出した樊噲の雄姿が項羽の心を震わせたのだという。琴線に触れたということらしい。

 張良は苦笑した。勝手に飛び出したあの阿呆れきしょうも、結果的に役に立ったということか、と。

「後は、沛公自ら申し開きをするのだな」

 項伯は、項羽と劉邦の会談の場を設ける事を確約した。


「項伯。このようになった私だが、まだ、抱きたいか」

 胡蓉はまっすぐに訊いた。

「お主は、それでさらに若返るのか」

「まさか、房中術にも限界がある。これ以上は無理というものだ」

 苦笑しながら、彼の顔を見詰める。

「で、どうなのだ」

「止めておこう。それに、わしは」

 年上の女がすきなのさ。

「そうか。だったら仕方ないな」

 どこか寂しげに、項伯と胡蓉は笑い合った。最後に一度だけ抱擁し、二人は別れた。


 少し考え込んでいたせいだろう。見覚えのない風景になっていた。逆に本営の方に入り込んでしまったらしい。

「迷ったか」

 ひやり、としたものを胡蓉は感じた。敵陣営の中で、ひとり彷徨わなければならないとは。

 出口を捜して焦る胡蓉。まずいことに数人の兵士が彼女に絡んできた。

 しつこく自分たちの天幕に誘う。抵抗するならこのまま暗がりに引きずり込まれかねなかった。

 手を振りほどき、走り出した胡蓉はすぐ何かに突き当たった。

 別の兵士だった。

 あわてて顔を上げる。胸までしか見えない。

 さらに上を見た。

 どこかぼんやりとした顔が胡蓉を見おろしていた。笑い出したくなるほど背の高い男だった。おまけに横幅がないため、極端に細長く見える。

「俺の持ち場で騒ぎを起こしてもらっては困るのだがな」

 まるで覇気を感じさせない声で男は言った。

 女を寄越せと騒ぐ男たちを、無表情な顔で見渡す。

「項将軍の呼んだ女に手を出そうとは度胸のある奴らだ。所属と名を聞いておこう」

 項羽の名を出すと、さすがに男どもは去っていった。

 長身の男は陣門まで送ってくれるという。

「あ、あの」

「は」

「ありがとうございました」

「そうか」

 これは、会話が成立しているのだろうか。胡蓉は、ぷっと吹き出した。

「あなたって、いつもそんな感じなのですか」

 言われている意味が分からない、といった風に首をかしげる。

「ずっと他の事を考えているように見えます」

 初めて、男と目が合った。墨で塗りつぶしたような瞳に、灯がともった。

「うん。俺は最近、沛公と、この項軍をまとめて屠る方法ばかり考えているのだ。ああ、誰か俺に大軍を貸してくれないかなぁ」

 聞くのではなかった。これは、ほとんど狂人ではないか。胡蓉は思わず周囲を見回して後ずさった。

「あなたは、いったい」

「ああ、俺か。しがない郎中で、名前は……」

その男は名乗った。

俺の名は韓信だ、と。


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