第4話 鴻門の会~秦都咸陽の滅亡

 鴻門こうもんの項羽陣営に入った劉邦と張良の前に、長身の将官が立った。

鍾離昧しょうりまいと申します」

 彼は武人らしからぬ穏やかな表情で二人を迎えた。こちらへ、と歩きだす。

 その後に続き、項羽の本営へ向かう。やがて、帷幕を巡らせた一角が見えてきた。

「私はここまでです。あとは、この間をお通りください」

 ちらっと、申し訳なさそうな表情をして、鍾離昧はそれを指さした。

 本営の前には五十人ほどの兵士たちが左右二列に並んでいた。

 彼らは合図によって、手にしたほこを高く掲げると、向かい合った兵の矛とそれを交差させた。一瞬にして、鈍く輝く刃のアーチが形成された。

 この下をくぐって、本営へ行けということらしい。

 劉邦は引きつった顔で鍾離昧を見た。彼は礼儀正しく顔を伏せている。

「これでは、降伏した者への扱いではないか」

 他に聞こえないほどの小声で劉邦が呟いた。

 この列の中に入ったところで矛を振り下ろされれば、二人とも確実に切り刻まれて死ぬ。

 さすがの張良も足が竦む思いだった。

 劉邦を殺す気はなさそうだ、という項伯こうはくの言葉を信じるしかなかった。

 半ばまで進んだところで劉邦が足を止めた。ふらふらと、その場にしゃがみ込む。

「だ、駄目じゃ。怖い、手足が震えて、目も見えぬぅ」

 張良は劉邦の肩に手をおき、顔をのぞき込んだ。

 劉邦は震えながら張良を見て、ニヤッと笑った。

「どうじゃ、わしの演技」

 項羽の同情を引くつもりらしい。

「クサすぎる」

「そうかな。ふむ、お主も震えが止まったようだな。重畳々々」

 私の心配をしている場合か、張良は少しだけ表情を緩めた。

「お主ひとりを死なせはせんよ、胡蓉こよう

「格好良い事を言っているつもりか知らないが、お前が原因なんだからな」

 そうだったな、と劉邦も微かに笑みを浮かべた。

「それにしても、お主はいつも良い匂いがするな。とても四十過ぎの……」

「お前もかっ!」

 居並んだ兵士達がざわめいた。

 殴られた劉邦は仰向けに転がっていた。一見小柄な美少年、張良は仁王立ちで、肩で息をしている。

「行くぞ、この馬鹿っ」

「はい。……すみません」

 大股に歩く張良に、劉邦が続いた。



「沛公どの。その顔は、いかがなされましたか」

 幔幕の内に招き入れられた劉邦に、笵増はんぞう老人が驚いた表情を浮かべた。

「わたしの顔がこのように長いのは生まれつきですが」

「いや、そうではなく。鼻血が出ております」

 劉邦は張良を見る。気付いた張良は目を逸らした。

「沛公」

 正面に座る項羽が口を開いた。大きな声ではない。しかし他者を圧倒する響きを持っていた。

 へへーっ、といきなりひれ伏す劉邦。張良も片膝をついた。

「早く席に着かれよ」

 劉邦は這うように項羽の正面の席に座った。笵増と張良はそれぞれ左右に分かれる。

 会談は項羽の叱責から始まった。

 しかしそれは、いかにも形ばかりだった。

 函谷関を閉ざしたことについては秦の残兵の侵入を防ぐためで、と言いかけたところで笵増に遮られた。

「それについて咎める気はない。なぜ勝手に官庫を開いたか、その弁明を聞こう」

 劉邦と張良は目を見合わせた。この函谷関の件が最も気がかりだったのだ。言い訳が通用するかどうか、正直、自信が無かった。

 こちらから蒸し返そうとは思わないが、何故だろう。項羽軍の事情を知らない張良は首をかしげた。

 劉邦の表情も安堵のため緩んでいる。

「秦の苛政のため飢えていた関中の民に、楚の恩恵を施すためでございます。項王のためになると判断いたしまして」

 そこで、項羽の表情が変わった。ぐわっと目を見開き、劉邦を見据える。

「もう一度言ってみよ、劉邦!」

 しまった、張良の背中を悪寒がはしった。だが、一体何がまずかったのだ。

「は、はい。そ、そ、そ楚のお、恩、恩を」

 劉邦も肝が飛び去っている。ふたりとも、首筋に刃を押し当てられたように感じていた。

「その後だ!」

 項羽は容赦なかった。

「は、はい。こ、項王のために……」

「聞こえん!」

さまのためになると!」

 項羽はやっと、にんまりと笑った。

「そうか、項王か。いい響きだ」

 張良は気付いた。この男。


 鹿だ。



 笵増が苦虫を噛みつぶしたような顔で黙りこくっている。

 張良と笵増の目が合った。やるせない気持ちが通じ合った気がしたが、たぶん錯覚だろう。

 やはり、まだ危機を脱した訳ではない事に気付いた。項羽は馬鹿かもしれないが、この老人には決して油断してはならない。


 宴会が始まっても老人の表情は変わらなかった。

 時折、殺気を含んだ視線を劉邦に送る。

 その劉邦は呆れるほどの勢いで杯を重ね、すでに正体を無くしていた。

 ひとりの男が剣を帯びたまま幕の中に入ってきた。どこか項羽に似た印象がある若い男だ。縁戚なのであろう。

「これより余興をお見せしたいと存じます」

 そう言うと剣を抜き、中央に進み出た。

 笵増老人の皺だらけの顔。唇の端が少しだけ上がった。

 張良は思わず目をつむった。笵増老人の執念を甘く見ていた訳ではない、しかしこんな場所で命を狙わせるとは。となると、項羽もそれを認めているという事なのだろう。

 張良は小さく息をついた。では仕方ない、奴をかばって死ぬしかないようだ。


 救いの手は意外な所から現れた。

「馬鹿者、賓客は既に寝ておる。引っ込んでおれ!」

 項羽の雷声が響いた。

 言われて、張良は劉邦を見た。座ったまま目を開けて、いびきをかいている。

「この馬鹿っ。申し訳ございません、

 項羽の頬がぴくっと動いた。目尻が下がっている。

「よい。ところで、張良」

「はっ」

「あの男を、連れてきてくれぬか。ひとりで我が軍の騎兵を壊滅させた」

樊噲はんかいでございますか。奴は沛公の親衛隊長ですから、近くで待たせておりますが」

「なんと」

 呼べ、早く。項羽は子供のようにはしゃいで側近に命ずる。まだ突っ立ったままの若者に気付くと、再び怒鳴りつけ、席から追い出した。

 危機は脱した。


「ほう、見事な戦士だ」

 樊噲をみた項羽は、まずそう言った。

「この者に、酒と肉を与えよ」

 運ばれて来たのは一抱えもある酒壺と、人間の太腿ほどもある肉塊だった。

 張良は、それを見ただけで胸焼けがする。

「さあ、飲め。さあ喰らえ」

 項羽は嬉しそうに勧める。どうも、壺からの一気飲みと、生肉の丸かじりを期待しているらしい。私に、ではなくて本当に良かった、と張良は胸をなで下ろした。

「お言葉ですが」

 樊噲が項羽を見据えて言った。

「酒を注ぐ椀を頂けますか。それにわたしは、ちゃんと調理した肉しか食べません」

 そうだった。

 こう見えて、樊噲は潔癖症なのだった。

 惚れた弱みなのだろうか。項羽は特に怒りもせず、椀を用意させ、二人で酒を酌み交わし始めた。樊噲から上手な肉の捌き方について講釈を受け、神妙な顔で頷いている。


 刃を並べた上で綱渡りをしているような時間は終わった。

 酔いつぶれた劉邦を樊噲が担ぎ、足早に項羽本営を後にした時にはすでに日は落ちていた。

「おお、まだ生きておるな」

 樊噲の背中で劉邦が言った。

「貴様、やはりまた狸寝入りか」

「死んだふり、と言え。いかに項羽でも死んだ奴は殺せまい」

 張良は返答に困った。

 一体どこまで計算なのだか。

「だが、地獄のように気分が悪い。帰ったら水をくれ」

「好きなだけ飲ませてやる。もう少し我慢しろ」


 陣門のところで、夏候嬰かこうえいが馬車を用意して待っていた。彼らを見つけると、ほっとした表情で右手をあげた。


 こうして、楚軍主力部隊との決戦は回避された。

 次の焦点は、降伏した秦王の処遇と、論功行賞に移る。

 緊迫した雰囲気の中、数日が過ぎた。


「秦王は殺されたそうだ」

 劉邦が感情のこもらない声で言った。彼は三代目皇帝となる筈であったが、自ら王へと降格し、劉邦の元へ降伏してきたのだった。

「無駄な殺生をする」

 張良は秦王の聡明そうな顔を思い出した。どこか遠国で適当な土地を与えてやれば、いい領主になっただろうに。

「遠国といえば、しょくか。いやそれなら漢中かんちゅうだな。関中と漢中、文字面が似ているから丁度いい」

 へらへら笑いで劉邦が言った。

 張良は顔をしかめた。他人には妙に冷たい、劉邦のこういう所が嫌いなのだ。そのうち天罰が下るに違いないと思った。



 そんなある日の夕刻、阿房宮あぼうきゅうから出火した。

 火は恐ろしいまでの勢いで燃え広がった。あきらかに複数箇所から同時に火の手が上がったように見えた。

 すでに項羽軍によって略奪され尽くしていた咸陽かんようは、市街全域が炎に包まれるのにそれほど時間はかからなかった。炎は風を呼び、更にその勢いを増していく。

 覇上はじょうの劉邦陣営では、張良が消火への部隊出動を繰り返し訴えていた。

「頼む、劉邦。消火を、消火を命じてくれ。姐さんたちがまだ居るかもしれない」

 項羽陣営へ入る時に力を借りた芸妓たちが、あそこに。

「お前の恩人でもあるんだぞ。恩を仇で返すのか」

 劉邦は立ち上がった。張良の前まで歩み寄り、彼を(彼女を)、殴り倒した。

「……」

 張良は頬を押さえ、呆然と劉邦を見た。初めてこの男に殴られた。

「項羽に敵対するな、とは、お主の献策だった筈だ。お前にも分かるだろう。あれを命じたのは項羽だという事が」

 ぐい、と張良の胸ぐらをつかみ、顔を寄せる。

 劉邦は涙を流していた。

 だが。

「これで、秦の民心は決定的に項羽から離れた。わしの勝ちだ」

 小声で言うと、ニヤリと笑みを浮かべたのだ。

 どうしようもない、いやな顔だった。こんな奴と一緒に戦って来たことを後悔させるような薄汚さだった。喪失感が張良を襲った。

「この、……人殺しが」

「今さらだな。お主の父親なら、見事な判断です、と言うだろう」

 分かっていた。そんな事は。

「だが、人間ひととして、どうなんだ。劉邦!」

 絶叫していた。

 劉邦はそんな張良をせせら笑う。

「子房よ。お主、案外期待外れだったな。所詮、世間知らずのお姫さまか」

 そう言うと、側近に酒を持ってこさせる。

「火事見酒と行こうではないか。これは豪勢だ」

 張良は座り込んだまま、動けなかった。

「ああ、でもあまり燃えすぎては、わしの治める土地が減ってしまうか。やれやれ」


 簫何しょうかが手を差し伸べ、張良を立ち上がらせた。

 


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