第2話 鴻門の攻防

 足下から地鳴りのような振動が伝わった。

 軍が、項羽こううが来る。

 張良は紅い唇を咬んだ。押さえようとしても、身体の震えが止まらない。

(これは恐怖ではない、この私がおびえてなどいるものか)

 自分に言い聞かせる。


 咸陽かんよう郊外に現れた楚の主力軍は鴻門こうもんの地に集結しつつある。

 劉邦軍が布陣した覇上はじょうと同じく、他よりやや高地になっている。大軍が布陣するには最適の地だろう。台地のきわで、ゆっくりと柵を巡らす準備をしているのが窺えた。

「今のうちに攻撃すれば勝てるではないか。なあ、そうであろう」

 劉邦が耳障りな声で喚き立てている。

「あれは、誘っているんだ」

 簫何しょうかと並び最古参の曹参そうさんが落ち着いた声で言う。彼もまた簫何と同僚の役人出身だが、軍事の才を認められていた。首領の劉邦がこうなので、彼にかかる負担も大きい筈だが、苦労は見せず飄々と取り仕切っている。


「いま攻撃を仕掛ければあの後方から大軍が現れるだろう。おそらく我が軍を包み込むように左右からな。ちっとは落ち着いて様子を見たらどうだ」

 劉邦が張良の方を見た。張良も頷き返す。

「だが、このままでは勝てんではないか」

 劉邦が呻いた。それもまた事実だった。

「言ったはずだ。勝つのではない。負けないことを目的とするのだ」

 張良は幼い顔に苦渋の表情を浮かべ言った。もうそれでさえ、至難の極みなのだが。


 そこへ斥候せっこうからの報告が来た。

 項羽軍、その兵数は少なく見積もって、三十万人。

 三十万人!

「……増えておるではないか。なぜこんな事になる」

 当初、項羽が率いていたのは十万に足らない兵数だったはずだ。劉邦はかすれた声で呻いた。

 本営は墓場のような雰囲気に包まれた。

 ただ、張良と簫何を除いて。


しん兵を吸収したのですね。さらには、鉅鹿きょろくに集まっていた他国の軍も」

 張良の言葉に簫何は頷いた。

「ええ、さすがは項将軍。敵兵まで心服させるとは恐れ入ります」

 項羽は降伏した秦兵を皆殺しにしたともいわれる。だが、武装解除されているとはいえ、自軍とほぼ同数、十万にも上る歴戦の敵兵士が唯々諾々と殺されてくれる事が有り得るだろうか。一部の反抗的な兵は見せしめのために殺戮したにせよ、大半は秦の主将である章邯しょうかんと共に彼に付き従うことになったのだ。


「ですが、これで我らが生き延びる可能性がでてきました」


 北方、鉅鹿の地で秦の正規軍を打ち破った項羽はそのまま一気に南下した。秦やちょう、その他、雨後の筍のように復活した小国の兵をあわせたとは思えないほど迅速な行軍だった。疲労で倒れた兵は容赦なく置き捨てられた。

 強行軍の果て、ついに関中かんちゅうの東の正門、函谷関かんこくかんの前に立った項羽はしばらく立ち尽くしていた。肩が小刻みに震えている。

 彼の視線の先、函谷関の壁上にはすでに劉邦軍の軍旗が揺れていた。

 関内から誰何すいかする声に項羽は激怒した。

 奴らを皆殺しにせよ、と命じた。

「お待ち下さい、あれは味方です。沛公はいこうどのの部隊です」

 あわてて側近が諫める。

「それがどうした」

 耳を疑う言葉と共に剣が走り、その側近の首が落ちた。

「まんまと俺を出し抜きおって。あの年寄りめ」

 項羽は屈辱に震えていたのだ。


 函谷関の守備部隊は瞬時に壊滅した。劉邦が送った増援など何の役にも立たなかった。辛うじて脱出できた一部の兵が咸陽に急を告げたのは先に述べた通りだ。

 そのまま咸陽へ向かおうとした項羽だったが、これは兵の極度の疲労を理由に、参謀の笵増はんぞうが思いとどまらせた。この老将は項羽の叔父、項梁こうりょうが楚軍の領袖りょうしゅうだった時代から仕えている。項羽もこの老人の言葉を無下にはできなかった。数日かけて軍を再編成することになった。


 結果的にこれが張良と劉邦軍に時間を与えた。策を施す為に必要な貴重な時間を。


 当然といえば当然なのだが、項羽軍に補給という概念は存在しなかった。

 食料は現地で徴発するもの、これがこの時代の常識であったからだ。

 簫何のように、計画的に後方で食料を集め前線へ送る、という発想の方が珍しいのだ。張良が感心していると、簫何はなんでもないように言った。

 「人が一人いれば、一人分の飯を食べます。百万人いれば百万人分の。特に不思議な事ではありません。これが、自然ということでしょう」

 張良は函谷関から咸陽に至る街道筋の官庫をすべて解放し、貯蔵した穀物一切をすべて住民に分け与えた。咸陽の巨大穀物庫も同様だ。ただし、すでにほとんどが消費されていたのだが。衰退期の国家とはこうなのか、張良は暗澹とした気分になった。


 それにしても、この覇上はじょうという地形は。張良は周囲を見回し、灌嬰かんえいの戦術眼に感嘆した。覇水はすいという河川と、湿地に挟まれたこの覇上。大軍で攻略しようとするには全く不向きであり、さらに適切に防護処置を施せば十分要塞として機能する。

 灌嬰という男。今でこそ劉邦軍のなかで重用されているとは言い難いが、いずれ必ず重要な地位を占めることになるのだろう。


 そして、それに平行して張良はもう一つの策を用意していた。

 言うまでもなく和平工作である。

 仲介者として、楚軍のなかにひとりだけ心当たりがあった。その男は項羽の叔父。名を項伯こうはくといった。張良親子が漂泊を続けていた頃に知り合い、命を救ったこともある。いかにも元遊び人といった洒落者だった。現在、項羽軍に帯同している事は調べがついていた。


 予想通り、咸陽に到着した時点ですでに項羽の軍は飢えていた。

 張良の指示で経路上の官庫はすべて空になっていたが、それ以前に戦乱で蓄えなど僅かなものでしかなかった。

 三十万を超える兵士を養うなど、全く不可能だったのだ。

 鴻門こうもんの項羽軍の陣営を見つめ、張良は大きく息をついた。

 補給手段を絶つことには、どうやら成功した。

 あとは、短期決戦を回避しなければならない。なんとしてもだ。


 そんな張良の切実な願いを打ち砕くように、ときの声があがった。

「くそっ、やはり来たか」

 張良は吐き捨てて、本営に走った。だが、それは張良の間違いだった。

 陣営の柵を開き、相手陣営に向かって行ったのは、ありえない事に劉邦軍だった。

「誰だ、出て行ったのは」

 愕然とした張良は、やっとの事で叫んだ。

酈商れきしょうどのです」


 あの男かっ。張良はぎりっ、と歯を鳴らした。

 兄の酈食其れきいきと共に劉邦軍に加わったばかりの男だった。戦功を焦ったのだろうが、これは許す訳にはいかない。奴のどこか小狡そうな顔を思い出し、張良は決断した。

「連れ戻せ!抵抗するなら、殺してもよい。いや、殺してしまえ」

 命令を受け、樊噲が一隊を率い後を追った。


 項羽軍の陣営前まで迫った酈商だったが、そこで急停止した。騎馬が足を止め、動かなくなったのだ。

「どうした、行けよぉ!」

 あわてて馬をあおるが、馬は首を振って、それ以上先に進むことを拒んだ。

 悪態をつき、顔を上げた酈商の表情が凍り付いた。

 敵陣営の前面に、その男が立っていた。まったくの無防備のまま、その堂々たる体躯を晒していた。鉅鹿の戦いを経て、彼はこう呼ばれる。

『覇王』項羽と。


 あわ、あわと言葉にもならない声をあげ、酈商は馬首を返し一目散に逃げ出した。

 それを見た項羽は怒りを抑えきれない表情で吐き捨てた。

「無様だ。しかも、それを恥じる心もないとは。生きている価値もない、屑め」

 すっ、と右手を上げた。

 それを合図に、猟犬の様に騎馬部隊が走り出した。隊列も何もなく逃げるだけの酈商隊に襲いかかり、雑草でも刈り取るように次々に討ち取っていく。

「助けて、助けてくれ、誰か」

 泣き喚きながら逃げ惑う酈商が、ああっ、と声をあげた。

「樊噲どの!」

 目の前に、項羽に勝るとも劣らない威容を持った男が立ちはだかっていた。

 喜びのあまり縋り付こうとする酈商を片手で馬からたたき落とした樊噲は、単騎、項羽軍の中へ躍り込んで行った。

 樊噲は手にした長矛を振るい、次々に敵を屠っていった。誰もこの狂戦士の身体に傷さえ付ける事ができなかった。あっという間に十人以上が犠牲になった。

 ようやく、気付いたように双方の引き鉦が鳴らされた。


 戦場の中心に樊噲は立っていた。

 血塗られた矛を横たえ、敵陣営を見据える。

 そしてその視線の先に立つ覇王、項羽。

 項羽もまた樊噲を見詰めていた。

 ふっ、と笑みをこぼす。

「これだ。戦とはこうでなくてはならぬ。そうであろう、亜父あほ

 傍らで控える笵増を振り返り、項羽は心からの笑みを浮かべた。


 


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