兵書に淫する姫~張良 異伝~

杉浦ヒナタ

第1話 阿房宮の陥落

 略奪の喧噪けんそうと精液の匂いが充満する宮殿の中を、小柄な若者が歩いている。

 軽装で、金属の小片をつなぎ合わせた簡単なよろいだけを身につけていた。繰り広げられている狂宴に目をくれる事も無く、足早に廊下を行く。彼はこの王宮を陥落させた軍の主席参謀を務めていた。

 名を張良ちょうりょうあざな子房しぼうという。


 しんの国都である咸陽かんよう。皇帝が得意の時を過ごした華麗なる阿房宮あぼうきゅうがいまは無残に蹂躙じゅうりんされている。だが彼の顔には故国の復讐を果たした喜びも、自らが滅ぼしたものへの感傷すらも浮かんでいない。ほっそりとして、女性を想わせる色白の容貌。虚ろな表情のまま、片手で顔を拭う。頬だけが濡れていた。

「これで私の役目は終りだ。後の事は……知らぬ」

 人生の目的を果たした彼は口の中で小さく呟き、また歩き出した。


 後ろから大声で呼び止められた。振り返ると親衛隊長の樊噲はんかいだった。息を切らせ走り寄ると、彼の前に片膝をついた。

「頼む、子房。もう少しだけ手を貸してくれ」

 張良は苦笑するしかなかった。

 一方、樊噲の表情は真剣そのものだった。

「このまま放ってはおけないのだ」

 何とかして沛公はいこう狼藉ろうぜきを止めねばならん。このままでは、あのかたは天下の信を失ってしまう。その巨漢は泣き出しそうな顔で彼に訴えた。

 張良はしばらく、その顔を見詰めたあと、ため息をついた。

「分かった。奴はどこにいる」


 二人が駆けつけると、後の漢帝国かんていこく初代皇帝、沛公 劉邦りゅうほうは宮女を組み敷き、犯している最中だった。樊噲が止めるのにも耳を貸さず、ひたすら女体を貪り続けている。

 張良はひとつ舌打ちをする。樊噲を押しのけ、その前に立った。

「邪魔をするな。今、いいところ、なのだから、な」

 下卑た顔で劉邦は彼を見上げた。樊噲ではなく張良だと気付き、照れたような薄笑いを浮かべる。だが、すぐにその表情が凍り付いた。


 張良は何も言わず、そのひょろ長い髭面ひげづらを思い切り蹴り上げた。


 悲鳴を上げたのは樊噲はんかいだった。

「もう、お主はいつもやり過ぎなのだ」

 劉邦は仰向けに転がり、勃起したままの下半身も丸出しで白目を剥いて失神していた。

 それを汚い物でも見るかのように張良は一瞥する。唾さえ吐きかねない表情だ。

「いいか樊噲。兵士共に告げろ。この宮殿のものは全て懐王かいおうのものである。かすめる奴は反逆者として三族さんぞくまで誅滅ちゅうめつするぞ、とでも脅してやれ。少しは大人しくなるだろう」

 樊噲は部下を招集し、狂乱を鎮圧に向かう。

「ちょっと待て、樊噲。その前に、この馬鹿を縛って部屋の隅にでも転がしておけ」



 宮殿を出て、街路を歩き続けていると、ようやく喧噪が遠くなる。

 気付くと、壁面の装飾も華美なものは無くなり、いかにも役所街の雰囲気になっている。

 張良は秦の中央政庁に足を踏み入れた。そこは公文書庫だった。

 すでに大勢の兵士たちが何かを運び出していた。略奪ではなく、整然と、一人の男の指示に従っていた。

 指揮を執っていた小男が振り返った。

「ああ、子房どの。さすがに大帝国です。機密文書だけでも大変な量だ」

 生真面目そうな顔をほころばせ、その男は言った。

 運び出していたのは国の統治に欠かせない記録。公文書だった。

 男の名は簫何しょうか。この軍の兵站へいたんを一手に担い、さらに、占領地においては有能な行政官でもある。劉邦とは同郷であり、彼が最も信頼を置いている、事務方の専門家であった。

「こんな文書など、こう将軍は必要とされないでしょう。焚付たきつけになる前に、と思いまして。そうだ、こんな物もありましたよ」

 簫何は竹簡ちくかんを一つ手に取って張良に示す。

 拡げて読み進める張良の目が輝きだした。

「これは、呉子ごしの兵法書だ」

「あなたは、本当に兵書がお好きだな。ああ、でも」

 ふと、気がついたように簫何が言った。

「このような場所で、迂闊に素顔を晒してはなりません」

 張良はあわてて、首に巻いたきんをもう一度、鼻まで引き上げる。

「ここはまだ戦場です。あなたのようなには危険すぎる」

 張子房。彼女は秦によって滅ぼされたかんの王族で、代々宰相を務めた家系の最後の生き残りなのだ。

 彼女の出自を知るものは軍団長の劉邦の他、そう多くはない。簫何はその一人だった。彼女の父とは親しい友人だったからである。秦の始皇帝を博浪沙において襲撃したという逸話をもつのはこの父親のほうだった。劉邦にわれ軍師となったのも束の間。彼は病に倒れ、間もなく世を去った。


 そして彼の遺志と共に彼の名を引き継いだのが、この娘だった。


「くれぐれもお気を付け下さい、胡蓉こようどの」

 簫何は周囲に聞こえぬよう小声で彼女の本名を呼んだ。

 彼女は素直にうなずいた。


 父は軍事、特に戦術において天才的な閃きを持っていた。弱体だった劉邦軍をここまでにしたのは間違いなく父、張良の功績だった。しかし、娘の才はそれを凌駕していた。謀将として一気に頭角を現し、彼女の立案した作戦により次々と城を陥とし、敵軍を打ち破って、ついに主力軍に先んじて咸陽入りまで果たしてしまった。


 しかし、と簫何は首をひねる。

 初めてこの娘を見た時、彼女は二十代の後半だったはずだ。婦女子のようである、と後に記された父、張良によく似た、まさに成熟した大人の美女であった。

 だが今、自分の目の前にいるその娘は。

 いや、もちろん面影こそ残っているが。


 なぜ、おぼしき、の姿に戻っているのだろうか。

     


 咸陽の混乱もようやく落ち着いて来た頃。

 その異変に最初に気付いたのは帝都内の治安維持を担当している灌嬰かんえいだった。劉邦軍は揃いもそろって粗野な男ばかりだが、彼はその中にあって、瀟洒しょうしゃな身なりと物腰で一人洗練された雰囲気を持っている。

 絹商人として諸国を往来するなかで、賊に対抗する護衛隊を指揮していた経験もあり、小部隊を率いて縦横無尽、敵を翻弄する事にも秀でていた。

 その灌嬰が色を失い、張良の所へ駆け込んできたのだ。

「子房どの、沛公は項将軍といくさを始める気なのか」

 張良は、何の冗談だと言わんばかりに彼を見た。

函谷関かんこくかんの守備隊だという連中が、敗残兵のような様子で逃げ返ってきた。項将軍の楚軍主力とやりあったらしい」

 馬鹿な!

 張良は思わず立ち上がった。




 函谷関を閉ざした、だと。しかも項羽軍に対して?

 張良は目眩めまいに襲われた。集まった部将達も同じ思いらしい。

 彼らの視線の先には、茫洋ぼうようとした表情の劉邦がいた。

沛公はいこうには勝算がお有りでしたか」

 静かな、全てを押さえ込んだ声で蕭何が問いかけた。左半分が青アザになった顔で、その男は薄ら笑いを浮かべ、首を横に振った。

 聞くまでもないことだ。ある訳がない。

 兵数だけでも数倍の開きがある。

 さらに、向こうは楚軍の最精鋭、こちらは寄せ集めの雑軍なのだ。本来、こちらがおとりとなって、主力軍の侵攻を助けるべきであるのに、何の因果か、咸陽攻略という目的を先に果たしてしまった。

 今さらではあるが、ここは慎んで主力軍を迎えるべきなのだ。そんな事は判りきっている筈だ。ここに集まった者は皆。

 ただ一人、この男以外は。


「死んで皆に詫びろ。お前は無能だが、その生首は違うだろうからな」

 張良は、凄惨な目付きで言った。決して冗談のつもりではなかった。

「子房どの。少しだけ口が過ぎますぞ。それは最後の手段です」

 穏やかな口調だが、簫何も怒り心頭なのが良く分かった。

「……ここは、わしの土地だ。懐王との約束がある」

 劉邦が口を開いた。


『先に咸陽を攻略した者を関中王とする』


 楚の懐王は確かにそう言った。しかしそれは楚軍の総大将、項羽の承諾があってこそ発効する類いの、口約束でしかない。そして項羽がそれを認める可能性は、ない。

「項羽と戦い、勝てばよいのだ」

 誰もが耳を疑った。

 狂ったのか、と誰もが思った。頭でも打って、おかしくなったのではないかと。

 樊噲が非難するように張良を見た。劉邦惑乱の原因はお主の右足ではないか、と言いたげだ。これには、さすがの張良も目を逸らすしかなかった。

 ともかく、迎撃すると決した。


「郊外に、覇上はじょうという小高い丘があります。そこに陣を構えれば、あるいは……」

 帝都の治安維持にあたっており、地理に詳しい灌嬰が進言した。

 しかし、その先は戦巧者いくさこうしゃの彼にも見通すことはできなかった。

「勝てると言うのだな」

 劉邦だけが嬉しそうにはしゃぐ。張良は我慢の限界を超えた。

「馬鹿か、お前は。あるいは、一日、二日は持ちこたえられるかもしれぬ。その間にお前は逃げろ、と云うことだ」

 絶望的な状況なのに、この男はそれを全く分かっていない。信じられない鈍感さに頭を抱えたくなる。さらに、他に何の策も思いつかない自分に腹立たしくもあった。


 軍を統括する曹参そうさんは、急遽、覇上へ兵を集結させた。防柵の工事を昼夜分かたず行い、どうにか陣営としての形になった頃、ついに凶報がもたらされた。


 項羽率いる、楚の主力軍団が咸陽に到着したのだ。



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