第2話 私
彼がトイレに行ってから数分後、私は逃げだした。彼から私は逃げだした。自分でも理由はよくわからないけど、怖かったことだけは覚えている。
何が?何が私は怖かったの?
彼の優しさ?ひたむきさ?愛?わからない。考えれば考えるほど、逃げた理由がわからなくなってくる。なにをしているんだ私は。早く戻って……・いや、彼に電話をして謝らなければ。頭では理解はしている。だけどできない。
杖を持ってひたすら走って気が付いたら、病室のベッドにうずくまっている私がいた。布団は涙で濡れていた。ああ、そうか私は泣いていたんだ。なぜ?自分のため?彼のため?何の涙かすらわからない。私は考えるのをやめた。そして目を閉じた。うす暗い私の曖昧な世界が閉ざされる。そして眠りに落ちるんだ。私の逃げ場所の夢の中へと。
夢の中で私は、
が
つい で
だった、そして泣いていた
私の耳に夕方五時の優しいトロイメライのメロディが入ってくる。ああ、もうこんな時間か、結構眠ってしまった。夢を見た気がするが思い出せない。だが不快感だけは確かに残っていた。思い出すのを諦め私は目蓋を開いた。
目蓋の先にあったのは暗闇だった。もう一度目蓋を閉じる。そこにもあるのは暗闇だ。再び開ける、暗闇、そして閉じる。結果は変わらない、暗闇だ。
停電か?と思った。耳を澄ましてみる。廊下ではいつも通り看護師や入院患者の雑談の声が聞こえた。停電の様子はない。窓の方へ顔を向ける。夕日らしきオレンジの光が見えた気がする、がそれだけだ。暗闇にうっすらオレンジが加わったようにしか感じられない。頭の方の枕へと手を伸ばす、枕の存在を確認する。そして横に置いてある時計に触れる。
『ただいまの時刻は、午後、五時、一分です』
手に持った時計をもとの場所へ戻す。ああそうか。私は理解した。
私は光を失った。
自覚した瞬間に涙がとめどなく溢れてきた。さっきまでの冷静さが不思議になるくらいに。しゃっくりの様な私の嗚咽が部屋に響く。鼻水が口に入る。しょっぱかった。涙も一緒に入ってくる。しょっぱさは二割増しになった。覚悟はしていたことだ、だけどこんなにも早く来るとは、昼寝して起きたら失明なんて、思っていなかった。どこか他人事のように感じていた。現実を目の当たりにしての私のこの現状にひどく苛立った。
こうなることは、分かっていただろ?私。なら、やることはもう決めていたじゃないか。泣いている暇があるなら早く実行しろ。さあ早く、さあ早く。携帯電話を取れ、そして何度も目をつぶって練習した動作をしろ。メールメニューを開き、送信ボックスを開け、そしてあらかじめ打っておいたメールを送信しろ。いつだって私のことを気にかけていてくれて、傍にいてくれた彼に、さあ!
ピロリンと、送信完了の音が聞こえた。私はため息をつき携帯を普段開く逆方向に力を入れ、携帯を壊した。手を怪我したかもしれない。
ああ、これでいいんだ、彼は私といたら不幸になる。たった今視力を失い、彼の見ている世界と私の見ている世界は共有できなくなった。今日から私は、彼とは別の世界で住む事になった。
彼の幸せを、彼の人生を私に潰す権利はない。
私は手さぐりで杖を捜した。棒らしきものが指に当たる。手を棒の先のほうへスライドする。先っぽは案の定でっぱりがあった。杖だ。杖を手に持ち立ち上がる。上手く立てず、バランスを崩して、床に横から倒れ込んだ。床のひんやりとした感触が、頬に伝わってくる。腕に鈍い痛みが広がる。痛みが引いてから、重い体を杖を頼りに起こしながら、一度後ろのベッドを触り、今私が部屋のどの方向を向いているかを再確認した。前へ進む、杖が何かに当たった。触ってみる。ドアノブを確認した。ドアノブをひねり、扉を前に開く。前に誰もいないことを気配と杖を前にいくらか出して確認し二歩歩く。点字ブロックがある。よし、練習通りできている。病院独特の慣れた薬臭い匂いがいつもより強く感じる。視力を失ったせいだろうか?しばらく嗅いでいたいところだったが怪しまれるとまずい、練習通り点字ブロックを進む。途中で人の気配が通り過ぎた気がしたから、頭だけ下げた。こんにちはと言われた。少し嬉しかった。
廊下を進むと、階段の分岐点に着いた。ここは右だ、左は下の階になる。目指すは屋上だ。杖で階段の一段目の存在を確認する。これも練習で何回もやってきたことだ。そして一段一段慎重に上る。誰にも見られないことを切実に願った。踊り場の折り返し地点に出る。これも点字ブロックを辿れば問題はない。折り返しを終えまた一段目を杖で確認、また一段一段慎重に上る。十四段目で、扉の手前スペースへとたどり着いた。完璧だった、どこまでも。杖で扉の存在を確認。そしてポケットに手を伸ばす。ポケットの中にある唯一のギザギザの棒状の物体を取り出す、ギザギザをドアノブに触れながら確認した穴に差し込む。私は棒を時計回りに
回した。かちゃ、と解錠の音が響いた。ドアノブをひねる、そして手前にひっぱる。風が私を包み込んだ。
春独特の暖かい風は気持ちよかった。めいいっぱい深呼吸をする。甘い香りがした。肺いっぱいに綺麗な空気が満たされる。
さあ歩こう、壊したフェンスまで二十三歩だ。一歩一歩、歩幅を一定に……
足が震えているのが自分でもわかった。自分がなにをしているんだろうという気分にさえなった。だけど、これは私が決めていたことだ。
彼は優しい、とても。こんな私のために全力で優しさをくれた。
喜びを、笑顔を、ぬくもりを、愛を、たくさん。
そんな彼だから、愛おしい彼だからこそ、私は決めたんだ。
彼の、あなたのことが
「好きだから」
目が覚めてから初めて言葉を声に出したかもしれない。
今日の私は、嘘をたくさん吐いた。失明後の彼との人生なんて考えてない。なぜなら存在しないから。厄病神の私にはこれが調度いい。
私を愛した人は不幸になる。私を愛した両親も、引き取ってくれた曾祖父も、優しくしてくれた叔父も、みんなみんな
死んでしまった。
今の私の保護者は、私のことを人として見ない、叔母だ。彼女は私を愛してない、ただの義務として保護しているだけだ。
その上で、彼は私に優しくしてくれた。優しい彼は、失明しても恐らく、いや確実に私の傍にいる。目が見えない私に世界を教えてくれるだろう。だけどそれは、続ければ続けるほど、彼と私の世界が共有されていないという絶望に変わってしまう。絶望で彼は埋め尽くされる。そして私も絶望する。
ならばどうする?答えはシンプルだった。
私が死んでしまえば、彼の負担はなくなる。彼は私以外の幸せを見つける。それが一番だ。彼を不幸になんてさせるものか。
これを決めたのはいつだろう?もう覚えていない。入院して間もないころだろうか。まあ、こんなことはどうでもいいのだけれど。
左手を伸ばす、破れたフェンスに手が当たる、ちくっとした痛みが手に広がる。そこからさらに二歩、これでこの病院の屋上のぎりぎりの位置に辿りつく。杖を後ろに放り投げる。カランという音がした。そしてしゃがんでみる。手を下に伸ばす。屋上のアスファルトに手はつかず、風を感じた。私が今いる場所の完全把握がたった今完了した。
再び立ち上がる。さあ、行こう、彼の幸せを願い、厄病神は彼の世界から退場しよう。彼の世界にもう私は不要だ。
バン!と大きな音がした。風で扉が開いたのだろうか。
「お邪魔します」
聞き覚えのある声がした。彼の声だった。
「お帰り下さい」
今日の最初のやり取りと本能的に同じ答えを返した。なぜ?なぜ彼は来るんだ?なぜわかったんだ?たくさんのなぜ?が私の中で渦巻く。
「あのさ、どうして?意味わかんない」
余裕を持って喋ろうとしても、私の声は震えていた。さっきのお帰り下さいの余裕が出せなくなっている。
彼は私の問いかけを無視し、何も言わなかった。未だ屋上のフェンスの奥に立っている私には、距離からして恐らく目が見えなくても彼の表情は見えないだろう。彼は今、どんな顔をしているのだろう。
そう考えていると、ゆっくりと足音が風の音に紛れて私の方へ近づいてくる。
「来ないで!」
私は拒絶した。彼の優しさを。もう私には受け取ることができない。それでも彼の足音は鳴りやまない。
「なんでよ、なんで来るの?せっかく自分で決めたのにさ、邪魔しないでよ、あんたなんか嫌いなの、気持ち悪いの、だから……だから……」
本心を隠し、嘘で塗り固め、涙声になりながら彼を拒み続ける。これが正しいという自己暗示をかけながら。しかし、私の訴えは届かず歩みは止まらない。やがて足音は鳴りやんだ。彼は今私の横に立っている。
「おー、いい眺め」
能天気に彼はそう言った。
「止めてもさ、私は」
「なに言ってんの?」
私の言葉を待たずに不思議そうに彼は言う。焦りはどこにも見当たらない。
「僕さ、今君がなにをしたいかくらいはわかるよ」
「だから?」
彼は何が言いたいんだ?あんなメールを送ったのに、その上でここまできて止めにきたんじゃない?じゃあ
「僕は君の意志を尊重する」
「は?」
学校の先生のような台詞に思わず間抜けな声が出た。
「だから」
彼は同じトーンで続ける。そして私を腕で優しく包んだ。それは、まるで春の風のように、温かくて、心のどこかがストンとおさまったような気がした。それは、パズルのピースがぴたりとはまるようにも感じた。
「一緒に死のうか」
安心の後に彼は言った。一瞬何を言っているかがわからなかった。こういう場面だったら、奇麗事を淡々と並べて説得をするのがお約束のはずだ。どうやら彼の場合お約束は通じないらしい。私は彼を舐めていた。
ああ、そうだ。彼はそういう人間だった。
「よし、レッツゴー」
え?と言う暇もなく、私は彼と一緒にゆっくりと、宙に向かって倒れこんだ。頭がパニックになる、叫びたい気持ちもたくさんある、だけど声も出ない。
死にたくない。
落ちる瞬間そう思った。私と彼は重力に従い、下へ下へと落下していった。
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