第4話
血濡れた男が立っていた。
露葉ははじめ、その男が怪我をしているのかと思った。
しかし右手に握られている太刀が、そうではないことを示している。
男の顔を染めるのは返り血で、その血の源は露葉の傍に転がっている。
首を切断された母。
溢れる血が黒く広がり、露葉の手足を汚す。母はすでに事切れていた。
殺したのは目の前の男である。太刀にはべったりと、母の血がこびりついている。
そして露葉を見下ろし、嗤うのだ。実に、愉しそうに。
ばちん、と音がした。
心の奥深くで、何かがひび割れた音。すると中に詰め込まれていたものが、亀裂から一挙に噴き出した。
言葉にならない怒りが、憎悪が、悲しみが、痛みが、喉を破って飛び出してゆく。
しかしそれでも吐き出しきれない。後から後から湧いて溢れて、臓腑を掻き毟り、どんどん、どうにもならなくなる。
どうすればいいのかわからない。ただ、どうしたいのかだけ、わかる。
殺したい。
あの男を殺したい。
喉を食い千切ってやるのだ。はらわたを引きずり出し、骨を噛み砕き、この上ない苦しみを与えてやる。思い知らせてやる。お前が殺した母の無念を、この胸に湧く憎悪のすべてを。
殺す、殺す、殺す、殺す…
無限の呪詛が頭中を占める。他には何もない。露葉はそれだけの存在になってしまった。
そのために死ねないのだ。
たとえ本心では、母と共に死んでしまいたくとも。
(これ…これ、は、呪いだ。死ねない、呪い)
呪詛の嵐の中で、露葉は思った。
思うと、体が浮くような感覚があった。身を覆い尽くす感情の渦が離れ、静けさが近づいてくる。
「――っ」
目を開けた。
夜明けの紫色の光が視界を染めている。
上体を起こし、己の手足を確かめてみても、どこにも血の痕などなく、首を斬られた母も、母を斬った男もいない。
流れの変わらぬ川辺で、寝ているギンと共にいる。
走ってきたかのように露葉の呼吸は荒い。上下する胸を自分でなだめ、とにかく落ち着こうとした。
(ゆ、め…ほんとに夢、だったのかな)
冷静に、よく思い出してみる。
血濡れの太刀を持った男。その前に転がっていたのは、首を斬られた大きな山犬。夢の中で、露葉はなぜかそれを己の母だと思った。
そして男の喉を食い破ってやりたいと思った。まるで自身も山犬になったかのように。
隣を見やる。
ギンは目を閉じたまま、瞼をひくひく痙攣させ、折れた牙を剥き出している。露葉には、とても苦しそうな表情に見えた。
「さっきのは、ギンの夢?」
それが露葉に伝わった。
ここは陽家が修行場としている霊山で、まがりなりにも巫女の子である露葉は、霊感には優れている。
よって、そんな不思議が起きたのか。
「お母さんを殺されたの」
そっと、ギンの頭をなでてやる。
何度も、優しく掻くように指を動かしていると、やがてギンの様子は落ち着いていった。かすかなうなり声がやみ、鼻をぴすぴす甘えるように鳴らす。
露葉はそれを眺め、辛そうに眉を歪めた。夢で体験した黒い衝撃が、まだ胸の内に残っている。
「…ギンは、妖なの?」
男が持っていた太刀の、鞘に付けられていた金物飾り。そこに彫られた紋を露葉は知っている。
柊の葉と花の紋。
すなわち、陰家の家紋であった。
☽
妖とは様々なものから生まれ出でる。
悪しき気の淀みの中で形作られる実体なきもの、または年経た器物、獣が変じる場合もある。
いずれも核となるのは情念だ。
死してなお消えることなき恨みそのものが妖となる。
はじめのうちは恨めし相手を覚えているが、徐々にそれは曖昧になり、やがては区別が付かなくなる。憎悪に狂ったところから、さらに狂う。目に入るものすべて、神さえもわからず襲い始める。
よって、妖は必ず滅さねばならないのだった。
「千影」
七日に一度の訓練休みのその日、露葉は半開きの遣戸越しに、指南役を呼んだ。
真面目な青年は明日の授業の準備をしていたらしい。文机で書き物をしていたところ、振り返る。
少しばかり意外そうな顔をしていた。
「教えてほしいことが、あるんだけど」
「なんでしょう。どうぞお上がりください」
「ううん、いい」
露葉は縁側に肘を置いて、そこで話す。
「あのね、妖になっちゃったものを元に戻す方法って、ある?」
「え?」
露葉のほうへ膝を寄せ、千影はさらに驚いた顔を見せる。
「そういう術とか儀式とか、実はあったりしない?」
「…ありませんね」
わずかの思案の後、千影は端的に答えた。
「《妖になる》というのは、取り返しのつかないことなのです。死者を蘇らせることができないように、一度穢れたものを真白きものに戻すのは、たとえ神の御力をもってしても叶いません」
案の定、容赦ない事実しかそこにはないのだった。
わかっていたが、つい露葉の表情は曇る。
それを千影は見逃さなかった。
「何か見つけましたか」
敏感に跳ねる露葉の心臓。外に表れないよう、露葉は懸命に堪えた。
もし千影にばれれば、ギンは退治されてしまうかもしれないのだ。
報告しなければならないのは頭でわかっている。しかし、心は頑なにそれを拒否していた。
「何も、ないよ」
最大限注意深く、平静を装う。
「退治じゃない方法で、妖をなんとかできないかと思っただけ。あの、ほら、わたしは退治できないから」
らしい理由を捻り出す。すると、剣呑になりかけていた千影の様子が、同情めいたものに変化した。
「露葉さまにできないわけではないんですよ」
今更のような慰めである。ごまかせたことは良かったものの、露葉の気持ちは少しばかり重くなった。
「うん、ありがと。でも、いいの。それは、もう、いいの」
気を取り直し――直しきれなかったが、再度尋ねる。
「じゃあ、妖になるのを止める方法はないの?」
「止める方法ですか? それは、そうですね。例えば、情念の強い獣を殺した場合などは、供養するのが良いでしょうね」
ちょうど良い例が出た。
「供養って、どんなこと?」
「墓を作ったり、供え物をしたり、死後の幸いを願う詞を捧げたり、ですね。要は人が亡くなった時と同じですよ。丁重に弔えばいくらか恨みは晴れるでしょう。ただし確実ではありませんが」
恨みが勝ることも多いと、千影は付け足した。
「――そっか。わかった、ありがと」
露葉は身を起こす。
だがそのまま走り去ろうとすると、千影に呼び止められた。
「…力及ばず、申し訳ございませんでした」
唐突に頭を下げてくる。露葉はなんのことで謝られているのかわかっても、なぜ謝られるのかは納得できなかった。
「千影はなんにも悪くないよ」
近頃は彼に隠しごとばかりしている露葉だが、この時ばかりは正直に言っていた。
「候補になれなかったのはわたしのせいだから、一つも千影のせいじゃないよ。ごめんね、ありがとね。もうわたしばっかり構わなくていいよ。教えたらちゃんとできる人に、たくさん教えてあげて」
精一杯、心を込めて伝えた。
露葉の成長が芳しくないことを、これまで千影は必要以上に気に病み、周りからも何か言われてきたのだろう。露葉もなんとなくそれを察している。
はじめから露葉には巫女や柱男の如き力がなかったのだと、皆が諦めきった今、もう千影には責任を感じないでほしかった。
そんなことを思うくらいなら、露葉のことなど忘れてくれて良い。他の子らのように、露葉をいないものとして扱ってくれて良い。それだけ千影には迷惑をかけ過ぎた。
「露葉さま…」
なおも悲しそうに呼んでくるので、走って逃げた。
うっかりすると泣きそうになる。泣けば皆にうっとうしがられる。優しい千影だけが気に病む。それが何より嫌だから、露葉は雫が溢れる前に、沢まで一気に走り抜けた。
川辺には何もない。対岸に渡り、木陰を探すと死にかけの犬が寝ている。日差しに当たると辛いらしく、自分で移動していた。
ここ数日で急激に生気が衰え、体から漂う生臭さが増している。生きながらに腐ってゆくようだ。食欲も徐々に失せ、今朝は露葉が持って来た朝餉の残りも口にできなかった。
せめて水だけ、
(もう死ぬのかな)
露葉が見る限り、ギンはまだ妖になっていない。しかし死後まで恨みが残れば、妖に転生するだろう。
(ほんとにギンのお母さんは陰家の人に殺されたのか、やっぱり確かめなくちゃいけない)
ギンの横で、寝ると必ず同じ夢を見る。もはや偶然とは思えない。
だが千影たちに報告できるほど確たる証拠ではない。また、記憶を覗き見るなどという芸当が露葉にできたことを、誰が信じてくれるとも思えなかった。
(もし本当なら、あの男の人にギンを弔ってもらおう)
そうすれば、少しはギンの恨みが晴れるかもしれない。
夢の中で露葉はギンとなり、同じ痛みや憎しみを味わった。
毎夜、繰り返し体験するうちに、ギンの殺意を己のもののように感じ始めている。
だが、どんなに深く同情できても、露葉はやはり、陽家の人間だ。
半人前以下でも、れっきとした退治人。黙ってギンに人を殺させるわけにはいかない。
そもそも陰家の者がギンの母親を殺したのも、仕事だろうとわかる。
経緯は不明だが、ギンの母親もまた、妖となっていたのだろう。そうでなければ、わざわざ陰家の者が山に来て獣を殺す道理はない。
「行って来るね」
ギンをひとなでし、木陰を出る。
竹の水筒と、鍋底をこそいで作った握り飯一つに、まじないを彫った短刀を持ち、いざ向かうは都。
後で叱られようが、馬鹿にされようが構わない。
この山犬の子が救われるためなら、露葉はなんだってしてやりたかった。
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