第3話

 それは蜘蛛に似ていた。


 赤い胴体から八つの手が生えている。人の手とまるで同じ形だ。上下に生えた牙の横から生臭い唾液が零れ、床板を溶かしていた。


 大きさは子猫ほど。物陰から物陰を這い、闇から獲物を狩る妖であるが、昼間の日を浴びて目には白く膜が張っている。


 そこから逃げようにも逃げられない。なぜなら、影を三寸ばかりの細い刃物に縫い留められているためである。


 陽家のまじないの力を込めた小刀だ。一人の子が投げたものが、逃げる途中のうまい時に刺さり、蜘蛛妖の動きを母屋の縁側で封じ込めた。


 動きが止まると、子らの投げる小刀が続々と妖の体に刺さる。刺さった部分から、妖の体は溶けて黒い煙となってゆく。


 陽は魔を打ち祓う力。光が闇を追い消すように、日の下ではより一層威力を増す。


 もともと、妖を見つけて殺す訓練として、指南役の一人が母屋にわざと放ったものだ。それを探し出し、最初に仕留めた者が本日の訓練の最優秀者。一番誉と言ってもらえる。


 碧がいなくなったため、今日からは皆に等しく好機が巡る。


 だというのに、露葉は後方で一本も放っていない小刀を握ったまま、針千本になってゆく蜘蛛妖を眺めていた。


「ほれ、やらんか」


 背を叩かれ、露葉は跳ね上がる。


 松の木色の男が背後にいた。閃という名の、古株の指南役である。これまで巫女や柱男やその候補たちを育て上げてきた者は、どんな子にも気安い。


「でも…」


 露葉は小刀を胸の前で握り締め、投げようとしない。閃は仕方のない子を見るように、苦笑いを浮かべた。


「露葉さまは妖が怖いのか」

「そうじゃないけど…」


 説明したいが、うまく言葉が出て来ない。

 退治しようとすると、どうしても疑問が頭をよぎるのだ。


 なぜ、この妖はここにいるのか。

 潜んでいたものを、なぜわざわざ露葉たちの前に引きずり出し、殺させるのか。


 答えは決まっている。未熟な露葉たちを鍛えるためだ。一人前の退治人となり、帝の御世を守れるようにするためだ。


 妖は人を喰い、世を乱し、神に仇なす。この小さな蜘蛛妖とて舐めてかかってはいけない。


 生まれた時から明白な理由を目の前に掲げられ、十分にそれを理解し、納得している。

 なのに露葉の頭に棲む強情者は、いつまでも疑っている。


 このめった刺しにされている無力な妖は、本当に殺されねばならない存在なのだろうか、と。


 頭がそこから一歩も進まねば、体も進めぬのは自然の理で、そういうわけで露葉は妖退治の模擬訓練が非常に苦手であり、それが露葉を役立たずにしている最たる原因であった。


 この疑問を露葉は何度か指南役の誰かの前で口にしそうになったが、いつも咄嗟に躊躇われる。

 何やらそれを言うことは、石壁によく弾む手毬を投げつけるようで、まるで余計なことに思えるのだ。


 返答に窮す露葉の頭に、閃は傷だらけの分厚い手を乗せる。


「まあ、この天下には、どうにもならないことがあるからなあ」


 思いやりの込められた、冷徹な言葉であった。

 妖のことばかり考えていた露葉は我に返る。


(そっか。わたしはもう、どうにもならないんだ)


 巫女候補の選定から外れ、露葉はいよいよ諦められたのだ。

 励まされ、促されても一歩も動こうとしないのだから、見放されるのは当然だろう。


 蜘蛛妖は跡形もなく溶け消えた。


 その夜、千影が露葉を補習することはなかった。



 ☽



 夕餉は麦に山菜を混ぜ込んだかて飯で、露葉は久しぶりに椀によそったものを広間で食べた。

 だが、縁側で一人で食べるよりも落ち着かず、そこそこに残して厨に逃げる。


 残飯は野菜屑などと共に堆肥にし、裏のささやかな畑に使うが、今日の飯にはわずかながら米が入っており、捨てるのはもったいなかった。よって他に残した切り干し大根も一緒に握り飯にしてしまう。後で食べられるようになったら食べるのだ。


 近頃の露葉は、大勢がいる場所ではどうにも胸が詰まり、腹は空いているはずなのに物が喉を通らない。だが千影などには心配させたくないので、一人でなんとか対処している。


 特に当番でもなかったが、することもないので空の飯櫃や椀を井戸端で先に洗う。後から食べ終えた者が、遠慮なくたらいに入れていく椀も黙って洗う。


 露葉はしばらく雑用をしていなかったのだから、このくらいのことは当然だった。感謝などされるわけもなく、期待して良いものでもない。


 気づけば本来の当番は現れず、露葉が数十人分の椀と皿を洗って棚に戻し、鍋や囲炉裏周りの掃除まで終えたのは、月明かりが厨に差し込む頃だった。


 満月を過ぎると、月は昇る時刻が日々遅くなる。

 この頃のものは居待月いまちづきと呼ばれる。座って待たねば疲れてしまうほど、なかなか出て来ぬ月ということだ。


 杉の木よりも高くに出でた顔は、半月よりもやや太い。ここから十日と少しばかりかけてその身を細くし、姿を消していく。


 露葉は外に佇み、ぼうっとそれを見上げていた。


(退治人になれなかったら、みんなの洗い物とかして暮らしていくことになるのかな)


 夜空の下でそんなことを思う。一生都には行けず、この山で死ぬことになるのかもしれないと。


 実際は、いくら力がなくとも、巫女の子にそんな雑用が生涯振られるわけがないのだが、露葉は妖退治以外の仕事を他に知らないため、最もあり得そうな末路に思えている。


 孤独に考えるうちに、腹が鳴る。そろそろ、物を食べられる体調に戻ってきていた。

 懐から竹皮に包んだ握り飯を出した時、ふと痩せっぽちの山犬の姿が頭に浮かんだ。


(あの犬、死んだかな)


 妙に気になった。

 死にかけているくせに、瞳だけが切実な生命力に満ちていた獣。三日月よりも体は痩せ衰えていたが、意思は強く生きようとしていた。

 足は昨夜の沢へ向かう。

 少し気にかかる。それだけの理由だった。



 ☽



 川の流れは、昨夜と寸分違わない。

 山道から出ると、同じ川辺に山犬の子は寝ていた。露葉に気づき、頭をもたげる。


 今宵も警戒する素振りはない。白鼠色の瞳を光らせ、黒い鼻先をひくひく動かしている。露葉が握り飯を放ると、口で受け取った。


「ギン、おいしい?」


 露葉は対岸にしゃがみ、勝手に付けた名で呼びかける。ギンは握り飯を喰らうのに夢中で聞いていない。


「ほんとはわたしのご飯なんだからね」


 恩着せがましく言ってみたところで、獣には通用しない。露葉は諦め、その場に座った。


 また時間をかけて食べ終えれば、ギンは最初のように伏せる。

 食べるだけで体力を使い果たしてしまったかのようだ。しかし目線だけは露葉のほうへ向けられている。


「…そっち行っていい?」


 遠慮がちに尋ねてみるが、ギンは反応しない。試しに対岸に移ってみても、立ち上がろうとさえしなかった。露葉の動きを目で追うだけである。


 そろそろと露葉は近づく。


 最後は隣に腰を下ろしても、ギンは何もしなかった。あるいは、何もできないのかもしれなかった。


 灰色の毛並みが月明かりに浮かぶ。


 きれいとは言えない。栄養が足りず、老いた犬のようにくすんでしまっている。

 足や、鼻の周りに付いている黒いものは泥か、血か。そっと背をなでると、骨の形をそのままなぞれた。


「わたしがご飯をあげなかったら、お前は死んじゃうの?」


 見つめてくる白い瞳に問う。


 この体では狩りどころか、屍肉を噛むことすら叶わないかもしれない。柔い飯であればなんとか飲み下せるのだろう。

 ここにいたのは、また露葉に飯をもらうためだったのかもしれない。


「お前は、わたしのこと必要だって、思ってくれる?」


 死にかけの獣を相手に、こんなにも虚しい問いかけはなかった。だが今の露葉には縋るものが必要だった。縋ってくれるものが欲しかった。


 するとギンは、露葉の足に頭をすり寄せた。柔らかい毛が脛をなで、くすぐったい。


 露葉はうつ伏せになった。

 ギンの横に頭を置いて、寝ることにした。


 喰われるかもしれない不安はまだかすかにある。

 だがそれよりも今は、この山犬の子に寄り添い、寄り添われていたかった。

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