第2話

 月に叢雲がかかる。


 背後の母屋だけがぼんやりと明るい。

 今は大広間で皆が夕餉を食べている時間だ。常の食事は質素倹約、粗食を旨とし、麦飯と山の実りを使った一汁一菜が基本にある。


 明日、都へ発つ者にはそこへ一品、今宵は岩魚いわなが加えられている。ほんの心ばかりの祝いである。


 二人の巫女候補は、十と十一歳の、陽家一族の血を引く姉妹である。彼女らは露葉の従姉妹にあたる。


 紅葉が里にいた頃はよく行動を共にしていたが、いなくなってからはまるきり無視されていた。

 もともと、露葉が紅葉に付きまとうから一緒にいただけであって、姉妹は露葉になど興味がないのである。


 それは露葉も最初から知っていたため、無理に姉妹と共にいようとはしなかった。

 よって、夕餉の席を共にすることも遠慮した。


 露葉がいれば、千影たちが気を使わねばならなくなる。碧が都行きに選ばれたことも、気まずさに拍車をかけていた。


 大抵、修行は四つか五つの時分から始め、十二になる前には半人前に仕上がる。続きは実戦の中で勘を磨き、一人前に育ってゆく。よって八歳での仕事始めはかなり早いほうだった。


 碧は力が強いだけでなく、頭も勘も良い。ゆくゆくは柱男か、その側近候補となるだろう。そんな大人らの思いが透けて見える、此度の采配だ。


 彼らは血統に敬意を払いはするが、根には実力主義がある。実力を見た上で、血統を大事としているのである。だが稀に外れも生まれてくることを賢者たちは知っている。


 つまり、露葉は不良品として無言のうちに弾かれた。


 未だに修行は年少組に混ぜられ、小物の妖さえ斬りきれない非力さでは、仕事の役に立つか怪しい。

 年はすでに十に達した。露葉の猶予は尽きかけている。


(…必要な子に、なれなかった、なあ)


 夕餉が終わるまで、母屋の前で待っているのもやるせなく、山林の中へ入ってゆく。


 五年も慣れ親しんだ山は、小石一つの場所まで把握している。たとえ目を瞑っても歩いてゆける。

 千影には、夕餉の前に散歩をしてくると言付けておいた。多少、姿が見えなくなったとて、わざわざ探しに出る真似はしない。


 露葉を最もよく見てきた指南役は、娘がその狸のように鈍い表情の下で、どれほど落胆しているかを知ってくれている。散歩を止められることはなかった。



 やがて沢に辿り着いた。


 露葉は川辺にしゃがみ込み、黒い流れの中へ何の気なしに指をさす。

 五つも数える間に、指先は千切れそうなほど冷たくなる。

 流れは速く、いっそこのまま、全身を委ねてしまおうかとも思う。ずっとずっと流されてゆけば、下流には都がある。


(お母さんに会いたい…いなくなりたい…会いたい…)


 今すぐこの場から消え去り、母の胸に飛び込みたい。

 直後にそこで死んでも良いから。

 ぎゅっと、強く膝を抱えた。



 ☽



 どのくらいそうしていただろう。


 顔を上げたのは、気配を感じたためだった。せいぜい二間ほどしか幅のない川の向こうに目を凝らすと、犬が見えた。


 山犬である。


 露葉は機敏に腰の短刀を抜く。修練場の山には野生の獣が多く棲む。鹿も熊も猪もいる。


 集団で暮らす山犬は、一匹だけで見かけるということが稀だ。囲まれていないか露葉は己の背後も窺った。


 しかし結局、影は目の前の一つしか見当たらなかった。朧月夜でよく観察すれば、山犬はひどく痩せており、しかもまだ子供のようである。


 白鼠色の双眸だけが、妙にぎらついていた。

 だが唸り声を上げるでもない。浅い川を渡って来ようとするでもない。がたがたの四つ足で川辺に立ち、露葉を見つめる。


 露葉は構えを下ろした。

 みずぼらしい山犬から、危険は感じない。ただその瞳に、わけもなく惹き付けられる。恐怖とは異なる何かによって、目をそらせなくなった。


 川の音が、一人と一匹の間を流れてゆく。


「…お前、お母さんがいないの?」


 露葉の尋ねに、山犬は何も言わずどんな反応も示さない。だが露葉にはわかっていた。


 孤独な山犬の子供は、母を失ったのだ。さらには父や兄弟も。だから痩せている。狩りができず、満足に食べられていないのだろう。


 ひとりぼっちの子犬など、恐れるべくもない。


 露葉は懐に入れた包みの中から、千影がくれた握り飯を一つ、向こう岸へ放った。

 飯は岩の上に潰れ、すかさず山犬がそこへ飛びつく。

 夢中で貪る様を眺めながら、露葉ももう一つの握り飯を食べた。


 山犬は歯が欠けているらしく、そこからいちいち飯が零れ、勢いのわりに食べ終えるまでは時間がかった。


 やがて両者とも食べ切ると、岩場に座ってしばらく、沈黙のまま互いを見つめる。他に見るものもなく、特に立ち去る理由も思いつかなかった。


「ギン、かな」


 ぼんやりと、露葉は山犬の名などを考えていた。

 白っぽい瞳が銀を嵌め込んだように見えるから、という程度の意味合いである。


 ギンは威嚇もしないが、食べ物をくれた露葉に対して尾を振ったりもしなかった。

 川辺に伏せ、折れそうな前足の上に顎を置き、ただ露葉を見上げる。目を閉じれば眠れそうな体勢だ。


 露葉も、だんだんここで寝てしまって良い気がしてきた。

 戻ったところで、狭い部屋の隅に追いやられ、小さく丸まって眠るしかないのである。ならば川辺のほうがよほど伸び伸びと横になれる。


 もし、寝入った露葉を喰おうとギンが企んでいるのだとしても、それで困ることは何もない。


(骨だけでも残れば、きっとお母さんのところに千影が届けてくれる)


 母に会い、消えてなくなる。そのどちらの願いも叶う。

 真綿で絞め殺されるのを待つよりも、そのほうがずっと気持ちが良いように思えた。



 ☽



 薄群青の夜明けに、露葉は目を開けた。


 まず確認した手や足は無傷であり、はらわたを引きずり出されてもいなかった。

 後頭部や肩甲骨など、骨の出張った部分が痛むだけだ。 


 身を起こし、向こう岸に山犬の姿を探すが、見当たらない。


「…なーんだ」


 喰われなかったことに、ほんの少しの安堵と、落胆。


 死ねなかった以上は、戻らねばならない。だが、戻りたくはない。憐れまれるのも蔑まれるのももう嫌だった。


 下流へ向かい、岩々を跳び移ってゆく。本当にこのまま都まで行ってしまおうかと、冗談でなく思い始めている。


「…あ」


 途中で、滝に行き当たった。

 落差が一丈ほどはある。

 粗く削れた岩肌の上を、白い飛沫が段々と落ちていっている。横着して降りられないこともないが、無事に都まで行きたいのなら、迂回するほうが賢明である。


 だが、そこで露葉は見つけてしまった。


 川横の山道を歩く、従姉妹の二人と碧。


 それと付き添いの指南役が一人。

 旅支度を整え、先頃出発したのだろう。今から向かえば、昼には都へ着ける。


 露葉は急いで若い橅の葉陰に身を隠した。多少の物音は滝の音でかき消される。おそらくは誰にも気づかれなかっただろう。


 ちょうどよく窪んだ木の根に嵌まり込んで、露葉は必要以上に息を殺す。

 そうしてやり過ごすうちに、頭は徐々に冷静になっていった。


 碧たちは本家で歓迎されるだろう。だが、露葉はどうであろうか。

 母に会う前に、そもそも門前で止められるだろう。忍び込もうにも、結界の張られている本家には正しい入口からでなくば入れない。


 母に会えず、追い返されるのは目に見えている。そしてまた、馬鹿にされる種になるのがわかる。


 そう思ってしまうと、一歩も動けなくなった。


 碧たちは先へ行く。


 露葉は進めず、結局、来た道を戻るしかなかった。

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