第1話

 そこかしこに茅が生い茂る地を、人々はかるかやノ国と呼んだ。


 刈茅とは屋根を葺くために刈り取った茅のこと。水をよく弾いてくれる草を屋根とし、家を作り、農地を作り、国を成し、細々と暮らしていた人の傍らには、常に神と呼ばれる同居人がいた。


 闇を司る陰の神と、光を司る陽の神。


 この陰陽二柱は非常に仲が悪く、天地を己が力で満たさんと、幾星霜に渡り相争っていた。

 陰が勝れば光は覆われ、陽が勝れば闇は追われる。強光の下でも真っ暗闇の中でも人は生きられない。

 さらに神気乱れれば、生命を脅かす妖が地上に溢れ返る。陰陽のどちらが消えても具合が悪かった。


 そこで神の勝敗が決すことを恐れた人の帝は、ある時、陰陽二神を等しく祀り、巫女の力によって両者を仲裁することとした。


 神と形が似通う人の中には、特別に陰の気の強い者、または陽の気の強い者がいる。その内で最も力の強い者を陰の巫女、陽の巫女として、荒ぶる二神を鎮め奉った。


 巫女の傍にはその霊力を強化するために、それぞれの気を持つ者を集めるようになり、そこから陰家、陽家と呼ばれる二派が生まれ、それぞれの家が妖者を滅し、陰陽の均衡を保つ、都の守護役に任ぜられた。


 賢帝の策は功を奏し、都の太平続くこと、ゆうに五百年。

 終わりなき世を誰もが信じ抜いている。


 十五代目、陽の巫女の次女として露葉が生を受けたのは、まさにそんな頃のことだった。



 ☽



 そこは帝と巫女のおわす都から、五里ばかり離れた山中。


 雪解けの清流が冷たく、小楢こならぶなが青々と葉を広げる初夏の候。

 手に手に短刀を持つ子らが、濡れた岩場を飛び跳ねていた。


 五つから十までの幼子らである。

 男も女も上衣は筒袖の直垂ひたたれで、手甲を付け、下衣は丈の短い半袴、足元は脛巾はばきを巻いて革足袋をはいていた。揃いの衣装で遊んでいるわけでないのは、真剣に何かを追っていることからわかる。


 何かは黒い毛玉ようのものである。素早く木々の間を跳ねて逃げ回るそれを仕留めるのに、子らは苦戦していた。


 今年で十になった露葉つゆはもまた、結い上げた黒髪を揺らし、必死に毛玉を追っている。


 だが露葉の動きは、他の者より幾分鈍い。岩を蹴っても高く跳べない。着地、特に右足での着地がおぼつかない。

 露葉よりも小さな子が、頭上を飛び越してゆく。

 前方にどんどん、それらの背中が増える。


「はっ、くぅ…っ」


 弾む息の合間に、呻きが漏れる。刺すような痛みに顔が歪む。

 今にも吐きたい弱音を飲み込み、歯を食いしばるや、額に衝撃が走った。


「わばぁっ!?」


 前方の岩に跳ね返った黒の毛玉が、露葉の顔面に直撃したのだ。

 勢い、川に倒され、飛沫が上がる。水嵩はごく浅く、後頭部が強く川底に叩き付けられた。


 それでも閉ざされなかった視界に、真っ赤な舌が映る。

 倒れた露葉を呑まんと、毛玉が大口を開けたのである。


 当の露葉は、呆けていた。早く右手の刃を口内に突き立てればよいものを、どうにも動けなくなった。


 なぜ、この妖はここにいるのだろうかと。


 そんな脈絡のない疑問が脳裏をよぎる。



 すかさず、横合いからの斬撃が毛玉を真っ二つにした。

 無傷の露葉の胸の上に、ぼと、と落ちる、毛玉の半分。赤い断面がどくどくと脈打っている。


 露葉が咄嗟にそれを掴むと、毛玉の残骸は煙となって、虚空に消えた。

 周囲からは歓声が上がっている。


 それは妖を一刀のもとに切り伏せた、英雄への惜しみない賛辞であった。

 相変わらず呆けていた露葉も、我に返り慌てて起き上がる。


「あ、ありが…」


 傍に立つ者へ礼を言おうとしたが、一瞬だけ向けられた冷ややかな眼差しに、口をつぐんだ。

 たった八つの子でさえ、すでにそんな顔を持つ。彼は何も言わずにさっさと川から揚がった。


「訓練終了! 一番誉、あお!」


 茂みから松の木のような肌色の男が現れ、高々と宣告した。

 八歳の碧は誇らしげに顎を上げる。

 露葉はその間に川から揚がり、木陰で着物の水を絞る。優秀な碧に群がる子らを遠目に見ていれば、死角から余計なひそひそ声が届けられた。


「露葉さま、まただめね」

「せっかくあっちから寄ってきたのにね」

「わばあ、だって」


 いちいち、そちらを振り返る気にもならない。


(きのうの訓練で右足ひねっちゃったから、うまく動けなかったんだけど…て、言ったってしょーがない、かあ)


 寄ってきた標的を仕留められないどころか、殺されかけて、無様に助けられる、そんな醜態を晒すことは日常茶飯事だ。

 怪我の有無など主張したところで何も見直されはしない。


 年少組が集められたこの中で、一番年上の露葉が、一番なんの役にも立たない。

 そんなのは、とっくに一族中に知れ渡っていることだった。



 ☽



「まずはしっかり霊力を込め、的を斬りましょう」


 訓練を終えた黄昏時に、露葉は一人、母屋の裏に呼び出され、補習を受けていた。

 ここは山の中腹ほどに作られた陽家の修練場である。

 陽気の強い霊力を持つ子らが、いずれ都にて巫女の護衛や妖退治に務めるべく、親元を離れて共同生活をしながら、日々鍛錬を行っている場所である。


 そこにいる多くが年端もゆかぬ子ども。それと、彼らを指導する者が十名ほどである。

 中でも露葉を特別に担当しているのが、指南役の中でも若手の、千影という男であった。


 巫女の子である露葉には、指南役といえど敬意を払う。巫女から受け継いだ力に期待すればこそ、指導も厚く行われる。


 鎬地しのぎじにまじないが彫り込まれた短剣を持たされ、露葉の前には再び黒い毛玉ようの化け物が用意された。


 この黒い毛玉が妖もの。

 手毬と同じ小さな体をしているが、侮るなかれ。これらは地上の命を無限に食い荒らし、時には神にも仇なす《禍つ者》と呼ばれている。


 妖の形状は様々で、この世の光と闇のあらゆる場所に潜み、あらゆるものから生まれ出でる。


 ただし今、目の前にあるのは妖を模した、千影の識神しきじんである。

 識神とは木札や人形などに霊力を込めて作られた虚実のしもべのことで、術者の思うままに動く。

 この操り人形を使って、妖を仕留める練習をしようと言うわけだった。


 どうにも気が進まないながら、露葉は短刀を逆手に構える。

 まずは斬ってみろと、識神は宙で動かない。

 露葉は助走をつけ、千影に手当てをしてもらった右足で踏み込み、斜め上へ腕ごと刃を振り抜こうとする。


 実際に肉を切るかのような重い手応えがあり、刃は毛玉の体の半ばで止まってしまった。

 この識神の体は霊力の塊。刃が通らないのは、肉や骨のせいではなく、露葉の霊力が足りずに押し負けているということである。


「もっと集中して、力を込めて。でなくば妖は斬れませんよ」


 妖もまた、霊力の塊である。中には肉体を持つ者もあるが、いずれにせよ強く霊力込めた刃はその力の分だけ切れ味を増し、剛力でなくとも切断できるのだ。

 露葉はしばらく毛玉に刃を刺したまま、どうにか動かそうとしていたが、あるところで諦めた。


「――あのさ、千影」


 すっかり肩を落とし、申し訳なさげに口開く。


「千影がわたしにばっかり、たくさん教えてくれるのは、すごくありがとだけど、特訓する日は食事当番とか掃除とかやらなくていいのも助かるけど、たぶんこれ、あんまり、意味ないと思う」


 短刀を引き抜くこともできず、露葉は柄を放してしまった。


「たぶんわたし、掃除とかしてたほうが、よっぽど意味あると思う」


 そう言えば指南役が顔を曇らせるが、さりとて仕方がない。


「わたしのお母さんとお父さんは、もしかしたら違う人なのかも」

「そんなわけないでしょう」


 呆れと、それから労わる気配をにじませ、千影は言い聞かせる。


「間違いなく、あなたさまのお母上は巫女で、お父上は柱男はしらおです。現に露葉さまのお顔は柱男に似ておいでですよ。ほら、女子は父に似ると申すものでしょう?」

「…似てなければよかったのに」

「え?」

「ううん、なんでもない」


 露葉はぷるぷる頭を振ってごまかした。

 母に似ているにせよ、父に似ていているにせよ、どちらにせよ露葉の肩身の狭さは変わらない。


 母が巫女なら、父は柱男。

 柱男とは陽家当主の別名である。これには最も霊力の強い男が選ばれてなる。必ず柱男が巫女を娶るというわけではないが、当代はたまたまそういう縁となった。


 いわば露葉は、陽家で最も力の強い男女の間に生まれた子なのである。であればこそ、その子は親と同等の力を持っていなければおかしい。


 露葉には上に兄と姉が一人ずつあり、十五の兄は次代の柱男候補、十三の姉は先日、次代の巫女と決定された。


 そこで、もし姉に不慮の事態が起きた時のため、露葉の年代の子らの中からも一人か二人、巫女候補がそろそろ選定される。

 候補は都で巫女修行をしながら、現巫女、あるいは次代の巫女の侍従を務めることになる。


 血筋だけを見れば、露葉はその最有力候補となる存在である。


 ゆえに千影が指導する。

 青年は陽家の中でも術の巧者であり、指導も若輩ながら器用にこなしている。

 そうであればこそ、露葉はかろうじてここまで成長できた。しかし、すでに限界を感じ始めている。


 十歳の露葉が自分で自分を断じることができたわけではない。

 たとえば霊力を見出され、引き取られた碧のような、本来陽家とまったく無縁の孤児たちと比べても、極めて成長の遅い露葉に対し、大人たちが向ける視線の意味を、当人が正しく感じ取ったのである。


 もう、この子はだめなのかもしれない。


 皆がそう思うなら、そうなのだろうと、露葉も思うしかない。

 共に修行する子らは露葉をすでに下に見ている。陽家の正統な血筋にありながら、力を受け継げなかった出来損ない。なのに優秀な指南役に一人特別指導され、雑用を免除されている。

 誰もが露葉を気に食わないのは無理もない。


 大人たちの特別扱いは露葉自身が願ったことではないのだが、いつしかそんな言い訳をすることもなくなった。


 すべては露葉が悪い。何をしてもらっても、何もできない露葉が悪い。


 だったらもう何もしてくれるなと、思ってしまう。


 同時に、その考えが千影や周囲の者に対してとんでもなく不義理であることも、ちゃんとわかっていた。


「できなくて、ごめんなさい」


 わかっているから、謝罪しか口にできない。


 結局、夜中まで習っても露葉は千影が合格を出せる程度に達せなかった。幾度目にもなる裏切りである。千影はなんとも言葉をかけられずにいた。


 夕餉の時を過ぎ、この頃になれば露葉の分はもう飯櫃の中に残っていない。あらかじめ千影が作っておいてくれた麦の握り飯を、縁側の暗闇で星空を供にいただく。


 暇のある時は千影が横で食べるが、今夜は大人だけの大事な会合があるらしい。


 一昨年までは姉の紅葉もこの修練場にいて、よく膳を隣に並べていた。

 紅葉がいる間はまだ平和で、少なくとも、露葉は仲間内でそこまで悪しざまに言われることはなかったし、まるで存在しないかのように振舞われることもなかった。


 明るく強い、紅葉の光を受け、どうにか存在できていた。


 だが紅葉は巫女候補に選ばれ、父母と兄のいる都の本家へ移ってしまった。

 露葉も早く来るんだよと、別れ際に言われたが、逆に紅葉たちが露葉のもとへ様子を見に来てくれることは絶対にない。


 会えるのは年に一回、一族全員が本家に集まり新年を祝う時、首を伸ばして遠くの席に見る程度。母に至っては御簾の向こう側にあって影しかわからない。


 陽の巫女は国の大事な守り手であり、たとえ親子といえど軽々しく触れることは許されない。そうしていつも物理的な距離に阻まれているから、露葉はどうしても母を「母上」だのと仰々しく呼びたくない。


 お母さん、お父さん、紅葉ねえ、真白にいと、いつまでも幼子のように近い距離で呼んでいたかった。


(でもみんなは、もうわたしのこと忘れちゃったかな)


 四つまでは母の膝元で育った。

 父にも覚えている限り、数度は遊んでもらえた。庭で肩車をされた時の景色が今でも鮮明に思い出せる。


 だが山里に連れて来られてからは、父母とはほとんど会えていない。まともに言葉を交わしていない。


 とはいえ立派な親は責めようがない。巫女も柱男も安易に都を動けないのだから、露葉が会いに行くしか方法はないのだ。


 それには妖退治の仕事を十分請け負える力があると認められるか、もしくは巫女候補になれれば、すぐにでも都へ連れて行ってもらえる。


(絶対に選ばれないだろうけど、わかってるけど、でも、わたしは巫女の子だから、もしかして、万が一――)


 どうせ贔屓をするのなら、今こそしてほしい。


 巫女の血に期待して、第一候補でなくともついでに連れて行ってくれないものかと、露葉は甘い夢を見つつ、同室の五人に蹴飛ばされた部屋の隅に丸まり、寝た。


 明くる朝。


 予告なしに廊下に張り出された紙に、書かれていたのは三人の名前。

 巫女候補として二人の少女の名と、八歳の碧。


 露葉の名があるわけもなかった。

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