第7話 さかな
二時間。ジャリジャリと音を立て頭皮に塗られる研磨剤。ねとねととしたクリーム。何本ものコード。電極。腰と胸に巻いたベルト。それら全てに取りかかること、二時間、弱。
政治家が泊まるような大きな病室で、ひとり清潔なベッドに寝かされる。枕元には数多のプラグが突き刺さった無機質な大きな箱、頭上には音を立てない監視カメラ。小学生になったばかりのわたしには、その異様な空気に押し潰されそうだった。
検査技師が去り、電灯が落とされる。お気に入りのブランケットを羽根布団の下に仕込ませても、何度も目が開く。いつもならこの魔法のふわふわは、わたしをすぐに眠らせてしまうというのに。
何時なんだろう。何度見てもカーテンの向こうは暗いままだ。腕時計を枕元に持ってきておけばよかった。
押し寄せる暗闇。突き付けられる現実。
ここには、誰もいないのだ。
* * *
荒い鼓動と息で目が覚めた。まただ。遠い昔のことなのに、今でも思い出せてしまう。
今日は再検査の日だから、それでこんな夢を見させられたのだろう。押し寄せる波が静まるのを待ち、スマホを起動させSNSの通知を確認する。今日の夜は確かフォロワーさんの生放送があるはず。それまで起きていられるだろうかと思念するその瞬間すらうつらうつらしてしまい、自分の頬をピシャリと叩き喝を入れた。
ぼさぼさになった髪の毛をリセットさせようと、薄いレースカーテンだけが閉まった部屋でブラジャーを取り、パンティーを脱ぎ、うんと伸びをしてから浴室へと向かった。丹念に洗い、髪と全身をしっかり保湿してからドライヤーをかけ、甘めのお洋服が詰まったワードローブでお気に入りの一着を身に纏う。
洗面所に戻り、お洋服と色合わせをしたメイクをし、オイルをつけた髪を丁寧にヘアアイロンで巻いていけば、トータルコーディネートの完成だ。久しぶりの再検査ということは、今日こそは、あの人に会えるかもしれない。
* * *
二時間置きに検査のため脳波室へと向かうその途中に、彼がいる窓口はあった。わたしの検査や病気とは、何の関係もない窓口。行き来の度に何度覗いても彼はいない。重くのしかかってくるわたしの病気を、いとも簡単に風船で飛ばした彼。
しかしとうとう本日最後の検査となってしまった。窓口の前でつい立ち止まる。深く息をつき、わたしが歩を進めた時だった。
「おや、久しぶりじゃないか」
「…せんせえ!!」
振り返ると、彼は
頭中につけられたコードを隠すために、目深にフードを被ったわたし。とびきりの自分を提供したくて、検査前に窓口であんなに粘ったのに。あなたはいつもそう、一番かわゆい姿を見てほしかったのに、乙女心を知らない人。
「それで、どうだった。昨日はちゃんと寝られたのか」
「んもう、せんせえったら!わたしもう子供じゃないんだよお」
「じゃあ、昼の魚はちゃんと食べたんだろうな」
「うっ…」
精一杯のかわゆさで反応してみせる。ぷくりと頬を膨らませたままこの姿、ちゃんと見えているだろうか。届いているのだろうか。
「うるさいうるさいうるさーい!なんでもカンペキなせんせえには、わたしの気持ちなんてわかんないんだもんっ」
ふんだ、と言いながら思い切り顔を振ったその反動で、フードがぽさりと脱げた。彼がそっとわたしに手を伸ばし、わたしのお洋服に触れ、わたしの頭に被せた。フードの影からすぐそばに彼の手があるのが見える。その指には、真新しい指輪がこっそり光っていた。
わたしはフードの奥で驚愕した。
「私にも苦手なものくらいある」
ぽすぽすとわたしの頭に乗せた手を、彼は白衣のポケットにしまった。
「妻がそれに付け込まなければ良いのだが」
そういえばまだ知らなかったか、あれから初めて会うものな、と彼は呟く。
それ以上、いらないよ。今日はもう、できればその手を見たくない。
* * *
コードを外し病室に戻ると、置きっぱなしにしていた携帯に着信が来ていた。明日のおしゃれデートの彼からだった。彼は彼で、あれからどうなったのだろう。わたしの努力は、実を、結んだのだろうか。
荷物をまとめ、上履きを履き替え、鍵を持ってドアを開けた。緩衝素材であるゴムの部分が、ぷしゃりと音を立て、閉じた。
しょくざいのはなし もなか @monakalover
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