第5話 からし

 美術館、博物館、科学館、図書館。

「館」の付く施設は、心が凪いで気持ちがいい。

 あまり音がしないのもいい。そういう施設へ行ったときは必ず、そっと目を閉じて耳をすます。靴音や服が擦れる音、周りを気にしたひそひそ声を、どんな人が立てた音だろう?と想像するのがなんとなく楽しい。

 今日来たところは特に静かだった。山の麓にあるその美術館は、古い煉瓦造りの建物を再利用したところだった。一般的な美術館は展示室が複数あるものだが、ここは違う。もとは旧式の発電所だったそれ、小ぶりな体育館くらいの大きさを持つだけのただ一棟が、区切られることなくひとつの部屋として使われていた。だだっ広い空間に、美術品だけがそっと、または壮大に鎮座している。それがまた魅力だった。何せ脚が疲れない。

 だが、難関はその先にあった。美術館の出入り口脇に階段があるのだが、その先にある展望台に行きたいと彼は言うのだ。ふたりして登るも、彼がうさぎのようにぴょんぴょんと進むものだから、僕は息が上がってしょうがなかった。


 * * *


 僕は車に乗り込んで、大急ぎでエアコンをつけた。そのまま両腕をだらんとダッシュボードの上に投げ出す。送風口に袖口を向け、思い切り風を取り込んだ。

 展望台に向かったはいいが、車を美術館のそばにある駐車場に停めていたので、当然帰りは階段を降りなければならなかった。ただでさえ僕は疲れているというのに、あろうことかそこを彼は猛ダッシュでかけていったのだ。それを追いかけてきたのだから、汗が止まらない訳である。

 靴の中でじわじわと足が膨らんで行くのを感じながら、助手席の彼に向けて僕は大きく口を開けた。


「あーん」

「え?何?」

「何?じゃない!どうしても展望台行くんなら、後でなんか言うこと聞けよって約束しただろ?」


 だからほら、あー!と、サンドイッチを抱えた彼に思い切り顔を寄せる。しぶしぶといった様子で彼は、一番大きな一切れをむんずと掴み、僕の口に捩じ込んだ。


 * * *


 10年前のこと。高校生だった僕は、いつもの友人たちとつるんでいた。行きつけのチェーン店で喫煙席に座る。

 店員が無愛想に水とおしぼりを配った後、灰皿はそちらにありますのでと僕に目配せした。どうも、と軽く会釈する。その小さな背中を見送っていると、友人たちがくつくつと笑いを漏らしながら僕を見た。それもそうだ、なぜなら僕は唯一、このメンバーで煙草を吸わない。

 僕はずっと、クラスの中で一番背が高かった。それ故にやたら怖がられたり無意味にやっかみを買われたりすることもあった。だが、それよりなによりつらかったのは、女子からの扱われ方だ。女子の間では、背が高くてもやしじゃない男子はハイスペックらしく、やだこの人素敵と見上げられては星を撒き散らされてきた。そのくせ僕が本当はただのチキンなのを知ると、冷たい顔で立ち去っていく。そのうざったいことと言ったら。

 しかしさっきの店員は、そういうことをしなかった。珍しいなと思いながら、みんなが注文を決めたのを見計らってベルを鳴らす。


「あの、サンドイッチをひとつ。ポテトサラダで、マスタード大盛り」


 店員の様子を見ながら、ひとつひとつ、言葉を整えて伝える。ポロシャツの開いた部分から、華奢な首筋が見えた。店指定のハンチングを目深に被ったその顔が、ゆっくりと明るみになり、


 * * *


「…まさか男だとは思わねえもんなあ…」

「あ?」

「いや、なんでもねえよ」


 危うく地雷を踏みそうになる。彼との出会いはまさしくそれだった。もごもごと口を動かしながら、つんときたからし特有のそれに嬉しくなる。うまい。彼の作るサンドイッチは、あの店の味そのままだ。


「そういえば俺、こないだお前んとこの店に行ったぞ」

「!?」


 うっかり口の中のものをこぼしそうになる。うちの店は女性しか入れない。同伴男性すら禁止で、だから入ることなんて不可能なはずなのに。

 慌てふためく僕をみて、彼はにやにやと鞄から化粧ポーチを取り出してみせた。


「いやあ…すげー猫かぶってんのな、お前」


 女装して潜入してみせたという彼から、ぷーくすくすという声があちこちから聞こえてきそうで、僕は身体中がかっかと熱くなっていくのを感じた。


「ちょっ待…仕事だからしょうがないだろ!まじふざけんなよ!」

「はははは!てかあんなとこでよくやってけてるな!すぐ辞めると思ってたわ、顔がいいのを理由に寄りつくやつしかいねえのに」

「はあ…もう慣れたっつーの」


 元はと言えば、僕の女嫌いを克服させるために彼がこの仕事を勧めたのだ。最初はその提案に殺意すら覚えたのだが、業務として接していくと意外とみんなギャルじゃなくってほっとしたものだ。それに、接客業は思ったより僕の性に合っている。


「ぶっちゃけお前を指名しようか迷ったんだけどな、なんかそんときは既に埋まってたぽくて」

「やめてくれよ心臓に悪い…そんな暇があったら普通に電話してくれ」

「それじゃつまんねーだろが。お前が俺に気付くかどうかも込み込みなんだぞ?」


 あの日の俺はぁ、こおんな感じでぇ、ああんな服着てぇ、あはんうふんと彼は腰をくねらせた。馬鹿じゃねえの、と一瞥しながら、実際女装されたら本人とは気づかないかもしれない…と冷や汗をかく。今後のご新規さんには気をつけよう。


 * * *


「ごちそうさん、美味かったー!」

「んー」


 空になったバスケットを畳む彼の耳が、ほのかに色づくのを、僕は見逃さなかった。


「…なあ、また、作ってくれるか?」

「何だよその言い方。別にいいけどよ…それとも何か?毎日僕のために味噌汁を作ってくれないか的なあれか?」

「だとしたらどうする」

「どうもしねえよ。実例と前例がありすぎんだよお前は…はー気持ちわり」


 彼は大袈裟に自身の両肩を抱き、心底嫌そうな三白眼でうわあ…と僕をめつけた。ここぞとばかりに僕も茶化しにかかる。思いっきり顔を覆い、めそめそとした声で語りかけた。


「そんな…それじゃあもう、僕のことなんか、うっ、嫌いだよね…」

「あー?ばか、何言ってんだよ…お前のことは、ちゃんと好きだからな」


 予想外の言葉に、僕は目を見開いた。彼は誤魔化すように僕の肩をばしばしと連打し、お前の思ってるのとはちげーかもしんねえけどな!!と狭い車内で声を張り上げた。それはあの日、女子と間違えて告白したあの時からようやっと、10年越しに得た答え。

 生きていると、良いこともあるもんだ。エアコンの設定温度を最低にする。最近店によく来る、僕ばかり指名するあの子にも、こんな日が来ることを願うばかりだ。

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