第4話 おさけ
ずっと待っているものがある。それは、自分のためだけに向けられた、大好きな人の視線。それを得るために、何度言葉を投げかけただろう。毎回、期待外れの展開だっていうのに。その数だけ心にぽっかりと穴が開く。
その点、夜の街はいい。みんな思い思いの言動を楽しんでるから、その渦に身をまかせることができる。悲しい気持ちも何もかも。お酒なんてなくたって、その空気さえあればいくらでも酔うことができた。できることなら、あたしだって自由に生きたい。
* * *
「やだもう、今日も一段と素敵ねえ」
「そりゃそうですよ磨いてますから」
彼はしゃんと背を伸ばし、
ふたりで店の奥へ進む。机をぐるっと囲むようにあるソファ。好きな場所に座れるのに、あたしは彼にぴたりと寄せて座った。
「そうそうこれ、ありがとうございます!早速着てみましたっ」
「思った通りね、この組み合わせが一番いいわ。貴方の手持ちともよく合ってる」
「ほんとばっちりですよ…お姉さんさあ、こういうののセンス良すぎですって。僕の専属コーディネーターになりなよ」
よく手入れされたボルドーのタイが映える、畳みじわと地模様の入った真っ黒なシャツを、自慢げに彼ごと撫でてみせる。
彼は、最近の若者言葉で言うところの、スパダリ?だった。愛されベビーフェイスと、触れたくなるほど柔らかそうな肌。そして何より、ふとしたときのさりげない優しさがあたしを魅了してならない。だからって貴方、誰にでも調子のいいことばかり言ってると、失うわよ。いろいろと。
「ねえ、最近忙しいの?あんまり会えないのが寂しくって」
「おかげさまで僕も今じゃ人気者ですから…仕事が楽しくてしょうがないんです」
「んもう、あたしと合う時間も作りなさいよ!じゃないとほんとに怒るから」
「あーー待った待った待った!!お姉さん怒るとすぐ
あたしはまた、知らないうちに顔をひどくしかめていたらしい。すぐさま直そうとしたけど、寧ろその行為はあたしの気持ちをさらに高めてしまった。どこまでも反響していく怒りは、己をブースターにしてしまって、終着点を知らない。
* * *
あたしは、"まずまずの反応"というものができなかった。無意識に全力以上の感情を出してしまう。よく泣くしよく笑うし、怒るときだって全力だ。彼が例外的に優しいだけで、大概の人にはオーバーリアクションだの起伏が激しすぎるだのと遠ざけられてしまう。複数の目に白々しく見つめられる度、あたしは自分の影が遠く長く伸びていくのを感じていた。
でもあの子は違った。あの子は土足であたしの影に踏み込む代わりに、無条件の愛を与えてくれたのだ。彼女の前では素直な気持ちを表現できたし、あたしが生き生きとしているのを、口では罵りながらあたしの心に寄り添ってくれていた。
あの子といられたら、あたしは、どんなに幸せだったろうか。本気であの子との将来を考えたこともあったけど、移りげな心がそれを許さない。魅力的な男性を見つけては、その人に心奪われてしまう質なのだ。そうして今日も、こんなところでこんなことをしてしまっている。
「少しか落ち着きました?…あれ、大丈夫ですか、考え込んじゃって」
「いやあのね…貴方ってほんとにかっこいいわあ、って見惚れちゃったのよ」
「はは、何今更なこと言ってるんですか。いつも僕を指名してくれるくせに」
「だって貴方しかいないんだもーん」
「いやいや他にもいるでしょ!全く、浮気しないでくださいね」
「はいはぁい」
ひらひらと手を振ってそのままグラスに手をかける。結露してできた水滴が、頑張って磨いたあたしの爪につたっていく。甘くないのは得意じゃないけど、あの子が好きな味だから…と一気に煽る。
彼はここのところで一番のお気に入りだった。一度でいいからナニしてみたいと思ったこともあったが、その
「なんかありましたか?」
「えっ、?」
「前回もそんな顔してたから」
どんな顔をしていたんだろう。想像していると、おもむろに静かな声で彼は言った。
「僕、初めてお会いしたときから思ってたんですけど、」
失礼を承知で申し上げます、と身を正す。
「お姉さん、ひょっとしなくても、ここに来る必要ないんじゃないですか?」
「………えっと…………は?」
「すいませんっ!!怒られてもしょうがないですよね…でも、僕なりの親切心なんです。大切なお客様ですし、本当ならずっといらしてほしいですけど…」
「…けど、?」
「あの、だけど、その…お姉さんには幸せになってほしいんです。だから、本当のことだけを見て生きてほしくて。…こんな、
彼はあたしのことを真っ直ぐに見つめたまま、続くはずの言葉を飲み込んだ。その沈黙はとても美しいものなのだろう。確かにそこに言葉は必要なかったが、あたしは耐えきれず目を伏せた。あたしが欲しいのは、これじゃない。
* * *
「…自分の気持ちに、気付いてるかどうかも怪しいの」
「それは、その…その人が、ですか?」
「うん、まあ、そうね」
とつとつと感情を垂れ流しにしていく。出会ってからさほど経っていないというのに、彼とは昔からの知り合いだったような感覚があった。彼なら全て受け入れてくれるだろう、という確信も。
あたしはひとしきりあの子の話をした。あの子は自分の魅力をちっともわかってないのよ、あんなに心が愛らしい人はそういないっていうのに。はつらつと、天真爛漫に、向日葵のような笑顔を咲かすっていうのに。その裏側にある後ろめたさすら、あたしの心を揺さぶるというのに。
「ねえ、お姉さん」
大好き、大好き、大好き…!!
何度だって言える。言ってあげられるのに、その気怠げな表情を見ては時が止まってしまうのだ。こんなに長く近くにいるのに、その触れ難さは計り知れなくて。
何度気づかせようとしたかわからない。それなのにあなたは、いつも、いつまでも見ないふりをするの?それじゃああたし、いつまで経っても片想いじゃない。
「どうして苦しいんですかね」
突然、だけど静かに彼は、あたしの肩をそっと抱いた。ぐちゃぐちゃになった心でその顔を見上げると、彼はそっと親指であたしの涙を拭う。
「でも、それで十分なんですよ」
十分なんです、と遠くの方を見つめる彼からそっと影が立ち去るのを見た。ああ、そうか、きっとこの人もあたしと同じ。
「だから、一緒にいることの一瞬一瞬を、僕は感じたい」
変わらず彼はあたしの瞳を深く見つめた。それに応えるように見つめ返すと、彼のその瞳が、本当はあたしを捉えずに、あたしを通して別の何かを感じているように思えた。彼の瞳にうつる、あたしの瞳も。
* * *
遠くのボーイからの視線を受けて、あたしたちは触れることをやめた。あたしはなんだか気まずくて、速やかに身支度と会計を済ませた。お見送りします、と彼が入り口まで送ってくれる。
「今日は本当にありがとう」
「いいんです。というより、僕の方こそ取り乱してしまって…」
今日のあの対応は、職業人としてはよろしくなかったかもしれないが、とても人間臭くて生きていることを感じられた。なんとも腑抜けた顔をした彼。でも、その姿はとても清々しかった。
「もうちょっと楽しんでみようかしらね」
あたしが言うと、彼ははにかんで答えた。
「今の顔、いちばん綺麗ですよ!」
* * *
店を去り、あたしは今日の予定を見直した。珍しく入れた夜の予定の相手に、風邪をひいたと嘘の連絡を入れる。
やっぱりあたしは、あのジャズバーへ行くのだ。閉店間際、仕事終わりのあの子が飛び込む前に。そうして出迎えよう、あの子とお揃いのマティーニを片手に。
今夜こそは、愛に生きる女になる。
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