第3話 おにく
仕事帰りに通る橋の袂、川沿いに立つ一つのビル。その最上階にある景色の良いジャズバーに、私はときたま訪れる。そこではいつも、あいつが待っているからだ。
「お早いお帰りだこと」
「何がお早いよ、もうすっかり夜も更けたでしょうが…すいませんマスター、いつもギリギリに駆け込んで」
気にしないでください、と目の前の紳士は目尻の皺を深めた。相変わらず素敵なロマンスグレーだ。彼が既婚者でなければ、すぐにでもアプローチしていたことだろう。それに比べてこいつと言ったら。
「んふ、お仕事頑張ってるの素敵ぃ」
「うっわ酒くさ…どんだけ呑んだのよ」
「もお、ちょびっとだけよう」
ちょびいっと、と言いながら彼女は指と指を近づけてそれを表現した。その目と口も一緒に細めている。
「あのね、酔ってるからってまたタクシー乗せるのは勘弁だから。ちゃんと自腹切りなさいよ」
「やあよ、貴女と一緒に帰るんだもん」
「いや方向全然違うから」
しれっと言い切ると、彼女はぐだぐたと駄々をこねた。その姿はなんともだらしないのだが、私はどうにもこいつを憎めそうになかった。
* * *
「で、今日の演目は?」
「えっと…あれはワルツの類、だったわよねマスター」
彼は静かに目を伏せて、肯定の意を示した。
「嘘!すんごい聞きたかった…」
「聞いててすぐに貴女が浮かんだわよ、思いっきり酔いしれてるその顔がね」
「うるさいなあ、だってあの系統はハズレがないじゃん?堪んないんだって」
お客が二人だけの空間に、私たちの声が柔らかく反響する。話しながら、彼女の表情筋はすっかり緩んでいた。正確には、リラックスしすぎて口がぽかんと開いている状態。彼女のためだけに作られた、マスター特製の唐揚げの皮を丁寧に取り外しながら。
「外食でそういう食べ方は良くないって」
「ここなら気も知れてるからいーの」
「まあそれもそうか…いやいや、やっぱ駄目でしょ」
皿を取り上げようとするも、先を読まれて持ち上げられてしまった。手と手が交差するバトルがしばし繰り広げられる。私の肩が激しく音を立てたので、それは休戦となった。
「あのね…唐揚げなら幾らでもあんたん家で作ってあげるって。だから」
「そんなことよりさあ聞いてよ!この間、めちゃくちゃかっこいいイケメンくんに会っちゃってね?あたし一生懸命アプローチかけてるんだけど、これがのれんに腕押しでさあ…」
「はあ…また?いい加減一人に絞ったらどうなの」
「そんなの出来る訳ないじゃない。みんな均等に大好きなんだもん」
「均等?私には散々適当な扱いしてきたくせに。よく言うわ」
「それはあなたが特別だからよ。あなたの前ならあたし、いくらだってお腹見せちゃう」
愛らしいダックスフンドを彷彿とさせる、手をちょこんと曲げたその姿。そして冗談めかして艶めく声は、本来は魅力的なのだろう。しかしそれは、私の神経を逆撫でた。特別って何?ただの元クラスメイトなのに?彼女が放ったその一言に、私は自分の身体が見る間に冷えていくのを感じた。握りしめた掌が冷や汗をかいていく。
「あんたはいつもそうやって、全部なかったことにしようとするよね」
「突然何よ…ご不満でもあるのかしら?」
「…不満っていうか…」
この手の質問を私は幾度となく彼女からされてきた。何か不満?あたしにどうしてほしい?その度に心の奥底が静かにくすぶるのを、私はいつも見ないことにしてきた。見てしまったら最後、もう戻れない気がして。
…戻れないって、何が?
「酷い顔…大丈夫?ちょっとイジワルが過ぎたかしら」
「いや、いい。気にしないで」
「気にするわよ…貸しなさい」
おもむろに彼女は私に手を差し伸べた。退ける間もなく、その手は私の額に触れる。そのまま顎、首筋、鎖骨へと降りて行く。彼女が丁寧に伸ばしているその爪が、薄く肌を削る。
鼓動を鳴らす私から、彼女はそっと手を離した。その一瞬の指先の動きまで、心に刻み込まれていくような感覚が滲む。
「熱はないわね…でも心配だから、仕事は程々にするのよ?」
「言われなくてもわかってるから」
行き場のない彼女の手を振り払って、気にしてくれてありがとう、と言う言葉を私は飲み込んだ。彼女に素直になるなんて、私らしくない。素直になったら、どうなる?その場合の利点を脳内で洗い出そうとしたら、その全てを黒鉛筆でぐちゃぐちゃに塗りつぶされてしまった。
* * *
「悪いけどもう帰るね」
「えーっ今来たとこなのにぃ?」
「明日は朝から予定が入ってるの、我慢して」
「予定って…ひょっとしてあのお友達?」
「そうだよ、私が決めた店だもん。案内しなきゃだから、とちる訳にはいかないの」
店のドアが開いた反動で、からころと鐘がなる。私は彼女のネックレスや、その左手の薬指に何もないことを確認して、帰路についた。
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