第2話 おまめ
わたしたちの間には、いくつかの掟がある。
ふたりで会うときは、とびきりのお洒落をしてくること。行き先は交代で決めること。そして必ず、うんとおいしいコーヒーを楽しむこと。
今日は彼女との約束の日だった。いつもは薄化粧だけれど、今日ばかりはわたしなりにいちばん可愛くきめてみる。それでも、ああやって通りの向こうから手を振る彼女には、到底敵わないのだけれど。
* * *
わたしたちはたわいもないことを話しながら、目的の場所へ足を向けた。もうすぐ雨が降るというので、少しばかり早足で向かう。
「わあ…!!」
「ね?君の好きそうなとこって言ったでしょ?」
それは、雨が降りそうなこの景色が全部うつるような、大きなガラスだった。
大通りに面したそのカフェは、所狭しと建物が並ぶ場所の一角だった。道路側の壁は全てガラスでできていて、その向こうには使い込まれた北欧家具。天井から吊るされたテラリウムもあった。その、なんとも曇り空の映える美しさが、わたしの心を掴んで離さない。
「…君のそこまでの表情、久しぶりに見た」
「だって、ここ、わたしのどストライク、てゆうか、これ、」
「ふふっ…はいはい、中入りましょ」
彼女にはいつも出し抜かれてばかりだ。毎度素敵なお店を紹介されては、ひとしれず困ってしまう。これじゃあ、次にわたしがお店を紹介する立場がないじゃないか。
* * *
ゆったりとしたソファ席に座る。思ったより深く沈んだので、予想外のそれにわたしはひっくり返りそうになった。ふわふわの長いスカートの中が、危うく見えてしまうくらいに。目の前で彼女がにやにやと笑う。少し頬を膨らませて、わたしは話を戻した。
「…なんだかんだ、まだ、一年も経ってないなあ」
「そんなもんだっけ?君たち付き合ってる期間長かったからかな…すごく落ち着いた夫婦だよね、老夫婦くらいの」
「そうかも、」
細身のメニューを卓上に広げ、彼女と目を合わせてわたしははにかんだ。
「でも、どうして、そんな質問?」
「いやー…なんかさ、実はちょっと聞きたいことあって」
「??」
静かに首を傾げると、彼女はずい、と身を乗り出して切り出した。
「ずばり、結婚の決め手とは何かね」
「決め手、?」
彼女とわたしは同い年。高校の頃から付き合ってきた仲間たちが次々と結婚していくのを見て、彼女なりに思うところがあるらしい。
「でも、わたし、プロポーズされた身だし」
参考にならないかも、と答えると、あーそっかあ、だよねと彼女はぶすくれた。
「はーあ、私にもそういう人がいればなあ!すんごい好みの人が突然目の前に現れて、私のことを攫っていってくれればいいのに…私が君みたいにお料理上手で儚げな女の子だったら、もっと違うんだろうけどなー」
「んー…」
彼女は昔からそうだった。なんというか、おとぎ話のような展開を夢見る体質。おんなのこにはよくあることだし、日頃は女っ気を感じさせない彼女がそれを待ち焦がれる姿は、寧ろ可愛らしくもあった。しかしいつからか、ぱったりとその幻想は抱かなくなっていたようにも、思えたのだが。
「…すきなひと、いるんでしょ?」
いないことないけど…と彼女は言葉尻を濁した。こういった話題になると彼女はいつも隠したがる。周囲にはとっくにばれているというのに。それ以前に、彼女自身がその気持ちに気付いているかどうかすら怪しいのだが。
正直、彼女の想い人に思い当たる節がない訳でもないが、彼女を慮って知らないことにしておく。今もその人を好きならば、確かに結婚は難しいかもしれない。
注文を済ませ、コーヒーが来るのを待ってから、わたしは静かに話し始めた。
「でもねえ、そうだなあ」
「なに?」
「プロポーズの前から、わたしの答えも、決まってたと思う」
「ほう、それはまたどうして」
彼は唯一、わたしを本当の意味で自由にしてくれた人だった。わたしに選択肢をくれたのも、選択権をくれたのも。尽くすことがわたしの全てで、それなしに愛されることなんてないだろうとわたしは思いがちだった。それを彼はすぐさま見抜き、我慢するときしないときのバランスを教えてくれた。君は放っておくとすぐ自分を蔑ろにするからな、君の好きにするといいと彼は言う。だから、そう。この人とならきっと、
「…わたしも、彼も、ふたりとも幸せになれるんじゃないかって、」
思ったの。と、わたしは締めくくった。
なんとなく顔を見れず、コーヒーをスプーンで弄びながら話していたのだが、ふと彼女が声をかけた。
わたしはその瞳を真っ直ぐに見つめる。
「…なんか、わかった気がする」
わたしは、彼女の瞳に、星屑のかけらを感じた。
その表情は、吹っ切れているとも諦めきっているともとれるのだが、彼女をよく知るわたしからすれば、まだ見ぬ未来を見つめているように思えてならなかった。
* * *
今日のコーヒーもまた、格別の一品だった。だけどそれはわたしにとっての話。フルーティなものを好んで飲む彼女には向かなかったかもしれない。特に酸味が効いていたのが主な原因だろう、飲んだ瞬間彼女は思い切り顔をしかめた。今日の話題にはぴったりの風味だったな、とわたしはひっそりと微笑んだ。
お会計を済ませようとレジへ向かうと、その傍には何故か色とりどりの野菜が並んでいた。
「あの、これは…??」
「ああ…このカフェは地産地消をアピールしててさ、わざわざ山の方の野菜を農家さんに頼んで置かせてもらってるんだって!」
「こんな洒落てるのに、なんか、珍しいね」
野菜はありのままの野菜だが、そのディスプレイ方法はやはりカフェだった。天然の蔓草で編んだと思われるバスケットに、クリップでポップがついている。クラフト紙におしゃれな文字が書かれたそれは、土臭いはずの野菜たちを突然、手仕事と清潔感にあふれた異世界にに呼び込んでしまっていた。
なんか買ってく?と彼女は声をかけるが、今回はやめることにした。せっかくの格好がちぐはぐになってしまうかもしれない。
「ふふっ」
「えっどしたの?」
「ううん…ちょっと可笑しくって」
一番つやつやと光って美味しそうなそれ、日頃もくもくとわたしのご飯を食べる彼が唯一嫌うそれを明日、大きなマイバッグを持って迎え入れようと思う。
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