しょくざいのはなし

もなか

第1話 やさい

 古びたアパートのドアが、郵便受けを派手に鳴らして開いた。私は少し乱暴に靴を脱いで、整えることもせずに八畳ほどのリビングへと進む。申し訳程度についたキッチンから私の妻の声が聞こえた。彼女はいつも、その小さな厨房からは想像もつかないほど美味い料理を生み出す。


「おかえりなさい」

「ただいま」


 ふとテーブルを見ると、この時間には並んでいるはずの晩餐が今日に限って見当たらなかった。代わりにしなびた花とランチョンマットが今日こそは主役になろうと意地になって自己主張している。


「晩飯はどうした。何かあったのか」

「昨日、友達に会って」

「知っている。高校時代からのだろう」

「その子に、教えてもらったお店、行ってきたの」


 そう言って彼女はおもむろに私の前まで来て立ち止まった。その手にはつやつやと光った赤い野菜。


 私はなんとも言えない苦笑いを浮かべた。
 



「トマトか」

「得意でないのは、知っているけれど」


 少し意地の悪い、意味ありげな笑みを残して彼女はキッチンへと戻る。私は深くため息をついてリラックスチェアに座った。彼女がそういう顔をするときはもう誰にも止めようがないことを、私は随分前から知っていた。


 * * *


 今日はいやに疲れていた。仕事仲間がやけに絡んできたし、それでなくてもややこしい外来の患者の相手を三人もしたせいだろうか。ミイラとりがミイラになるとは言うが、精神科医という仕事は本当に心を病んでしまうことがあるから注意しなければならない。


「ずっとね、考えてたの」

「何をだ」

「どう、料理してやろうかって」

「…それならトマトを諦めてはくれないか」

「それは…ちょっと」

「わかっている」


 そのやり取りの間に彼女はそっと湯飲みをテーブルに置いた。何のお茶を淹れたのかは、その香りですぐにわかる。


 私の職業を意識してかは知らないが、私がつらいときの彼女は実に察しがいい。独特のたどたどしい口調と好物の茉莉茶で私を癒してくれるのだ。


 私はいそいそとテーブルにつき、少し音をたてて茶をすすった。湯飲みの中ではゆらゆらと花弁が揺れている。


「どんな店だったんだ」

「直売所、じゃないけど……野菜がね、すごく美味しそうで」

「ほう」

「みんな新鮮で、ぴかぴかで、とりわけ」

「輝いていたのか、トマトが」

「そう」

「今のおまえの笑顔の方がよっぽど輝いて見えるが」


 少し皮肉を込めたつもりだったが、効くことはなかった。彼女は別段気にする風もなく、少しはにかんでまた作業を続けた。


 * * *


 茶もすっかり飲み終えてしまい、私は再びリラックスチェアに腰掛けた。ささくれだってきた木製の肘掛けを何となく手で弄ぶ。

 窓の外を見ると、もうすっかり暗くなっていた。道理で腹が減る訳だ。その間にもぱたぱたとせわしなくスリッパの動く音が聞こえている。


「なかなか時間がかかるじゃないか」

「ごめんなさい…遅くなって」

「いや構わんが」

「でも…折角、早く帰ってきたのに」

「気にするな」

「うん…ありがとう」

「おう」


 トマト料理といえばまず洋食を想像するだろうが、彼女の作る料理は専ら和食だった。その彼女がトマト主体の料理を作ろうとしているのだから、それは苦戦するはずである。彼女のことだ、私にトマト嫌いを克服させるという名目で、洋食やイタリアンも挑戦してみようかしらとでも思っているのだろう。真偽の実はともかくとして、久々に本気になって食材と向き合う彼女を私は長い目で見守ることにした。


 包丁がリズミカルに刻む音が妙に心地よくて、私は少しうつらうつらしていた。私はこの、意識がとうとうと揺らいでいく時間がとてつもなく好きだった。こんなにも無防備に、夢見心地になるまで安心できる関係もそうあるまい。


「……できたあ」


 喜びとも安堵ともつかぬ声で、私の意識は暖かな微睡みから抜け出した。

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