マックスウェル惨歌

執行明

第1話

 一柱の悪魔が、極寒の地獄を歩いていた。

 その姿は人間に似ているが、肌の色は左右で二色に分かれている。右半身は動脈血のように鮮やかな紅色。左半身は死人の肌のような蒼白色。

 また、肩からは腕の代わりに無数の糸が生えていた。肩の辺りではまだ絹糸程度の太さを持っているが、先端にゆくにつれて細く枝分かれし、ついには空気の中に溶けるように見えなくなる、それほどの細い糸。

 悪魔の姿は千差万別だが、これが彼の外観である。

 周囲では白色の蜥蜴たち、悪魔と違って知能を持たない冥界の獣たちが、亡者に冷凍の息を吐きかけて凍らせ、その体を食い千切り続けている。その悲鳴を聞き流しながら、悪魔は散策していた。

 知能のある悪魔も、亡者の虐待に加わっている。人間そっくりの全裸の女悪魔たちで、氷付けになった死者たちに背を向け、しきりに尻を振っている。誘惑しているのではない。豊満な臀部から伸びた尾で、亡者を打ち据えているのだ。

 見物しているうちに、ふと白子の蜥蜴の一匹が悪魔に目を留めた。

 歓喜の叫びをあげ、息を吹きかけてくる。どうやら彼を亡者の一人と勘違いしたらしい。女悪魔は止めようともせず、尻を振り続けながら見物している。

 人間の測り方でいえば零下二百度にもなろうかという蜥蜴の息は、冥界の大気の水分――大部分は亡者どもの流血、涙、嘔吐から蒸発したものだが――をたちまち巻き込み、白色の輝く氷の粒に変え、悪魔へと襲い掛かる。

 だが悪魔は、冷たく輝く息を避けようともしなかった。

 悪魔の左肩から伸びている無数の赤い糸にひと撫でされただけで、白い気流は色を失い、蜥蜴のほうへと取って返す。

「ギエアアアッ!」

 熱風となった自分の息を浴び、白蜥蜴であったものは黒焦げになって七転八倒した。

 女悪魔たちはけたたましく笑った。

 誰が苦しむのも楽しい。それが悪魔というものだ。

 顔が半分凍りついた亡者のひとりも、ざまあみろとばかりに残りの半分で笑みを浮かべた。他の蜥蜴どもはそれを見逃さず、その亡者に一斉に喰らいつく。悪魔が焼いた蜥蜴以上の絶叫をあげ、亡者は必死に許しを懇願した。相手が言葉を解さない獣であることさえ考える余裕がないらしい。

 退屈な見世物だ。

 そう思ってその場を去ろうとしたとき、彼は全身に違和感を覚えた。

「人間、か……」

 体を構成している全ての粒子が上に引っ張られるような感覚。地上の者が自分を召喚している。

 次の瞬間、二色の悪魔は冥土から姿を消した。


 悪魔が呼び出された場所は、やたらと紙切れの散らばった乱雑な部屋の中だった。

 目の前には白衣の男がいるが、こちらに背を向けて何事かを仕切りに書きつけている。悪魔を呼びつけておいて背を向けるとは、おかしな魔術師だ。

「わっ!」

 男は何気なく後ろを振り返り、仰天してひっくり返った。

「き、きみはなんだ」

「なんだ、だと……?」

 悪魔はいぶかしげに顔をしかめた。

「貴様が我を呼び付けたのではないのか」

「し、知らない。それに他の人が呼んだのだとしても、なんで僕の部屋に?」

 悪魔は自分の足元を調べた。

 彼が呼び出された時から足で踏んでいる紙切れ。

「こいつか」

 悪魔は舌打ちした。

「この紙に数字を書いたのはお前か」

 男はこくこくとうなずく。

「……乱雑に書かれた数字の列が、たまたま我を呼び出す魔法陣になったというわけか」

 昔はこんなことはなかった。

数字は少数の神官、よくて貴族階級に独占されていた。彼らは数字が神秘的なるものであることを知っており、この男のように書き殴ったりはしなかった。それがここ百年ほどの間に変わってしまった。特にこの、人間が十九世紀と呼ぶ時代になってから、それが著しい。

 学校というものができてあらゆる者が数字を書くようになり、四則計算の秘儀も周知のものとなった。円周率などというものは秘伝中の秘伝であったのに、今では平民の子が暗記している。数が神魔に通じる力を秘めたもの、世界の秘密を解き明かす鍵であるということを知らぬままに、ただ無邪気に覚えて喜んでいるのだ。

「まあいい」

 悪魔は怜悧な視線を男に向ける。

「貴様、名前は? そして此処は何処だ」

「ジェ、ジェームズだ。ジェームズ=クラーク=マックスウェル。ここはマリシャル大学の科学哲学科だけど……」

「そうか。意図していようがいまいが、貴様は悪魔である私を呼び出した。望みがあるなら言え。報酬と引き換えに、我が叶えられるものであれば叶えてやる」

「悪魔? 報酬?」

 マックスウェルはきょとんとしていたが、何事かを思い出したらしい。

「というと、僕の魂かい? どこでだか忘れたけど、悪魔と取引すると魂を取られるという話を聞いたことがあるよ」

「高望みをすればな。願いによっては、動物などの生贄でも構わぬ」

「悪魔によってできることが違うのかい?」

「ああ」

「君は何ができる悪魔なんだ?」

「細工だな。人間の職人には及びもつかぬ細かさを持った細工ができる。後は、熱や冷気を生み出すこともできる」

 青年は不思議そうな顔をした。

「細工って、手もないのに?」

「あるぞ。お前達人間と同じ場所に」

「君の肩からは、糸ばかり生えているようなんだが」

 悪魔はそれには答えず、部屋中に散らばっている紙切れを見渡して言った。

「書き損じはあるか」

 ジェームズは足元の紙を一枚拾い上げ、それを悪魔に差し出した。

 失敗したらしい何かの計算式に、何本も線を引いたもののようだ。悪魔が肩から伸びる糸束でそれを撫でると、塗り潰した部分だけが消え、もとの数字がはっきりと現れる。

「すごい! 一体どうやったんだ」

「鉛の粉の粒を、一粒ずつ全て抓んで取り除いただけだ。お前が糸だと思っているものは全て、一本一本が我が腕だ。その先端は人間の目に見える細さではない」

「へええ」

 ジェームズはしきりに感心してうなずいている。

「じゃあ、君に精巧な貴金属でも加工してもらえば、お金儲けができそうだね」

「以前に私を呼び出した者も同じ事を言ったがな。私への報酬を考えると、大した儲けにはならんそうだ」

「なるほどね。で、熱と冷気を生み出せるというのは?」

「やることは基本的に同じだ。人間の目には見えぬだろうが、この世界を覆う大気は、それ自体も細かな粒でできている」

「ああ、窒素分子とか酸素分子とかだね」

 悪魔は鼻白んだ。

 昔の人間ならば、空気が粒でできているなどという悪魔の知識を聞かされれば、人間には計り知れぬ叡智と平伏するか、悪魔の惑わしだと叫んで信じようとないかのいずれかだった。事実、以前に粒の秘密を教えてやったギリシア人は、世界の真理を聞けたと大喜びしていたものだった。

(あの男は確か、デモクリトスとか言ったか)

 ほんの二千数百年前の話である。思えば当時の人間たちは扱いやすかった。それにひきかえ今の人間は、空気の粒に名前まで付けているらしい。

「まあいい。その粒はじっとしているのではなく、常に動き回っている」

「知ってる。でないと気圧が無くなっちゃう」

 ついに悪魔は嘆息した。

「……空気が熱いとは、その粒が素早く動き回っていること。冷たいとは、粒の動きが遅いことを言うのだ。私はそのひとつひとつの粒をこの無数の腕で掴み取り、抑えたり後押ししたりして、熱を調節することができるのだ」

「分子をひとつひとつ……?」

「信じぬか」と言って悪魔は、両肩から伸びる糸を左右に広げた。

 蒸し暑かった部屋が、たちまち人間に心地よい程度の冷気で満たされる。ジェームズは驚いて壁の寒暖計を確認した。さっきまで30度を越えていた赤い水位がみるみる下がり、18度で止まった。

「すごい……」

 そう呟いたジェームズは、何事か考え込み始めた。

 一時間が経過した。

「……おい」

 悪魔はジェームズに声をかけた。

「え?」

 青年は驚いて悪魔を見た。まるで彼の存在を忘れていたかのように。

「願いはまだ決まらんのか」

「え? ああ、ごめん。願い事ね。忘れてた。今はいいや。呼び出しといて悪いんだけど、帰ってくれないか」

「何……?」

 もともと悪魔とは、人間の感情の機微などに頓着しない存在である。契約してそれを果たし、その代わりに生贄の魂――動物のであれ人間のであれ――を持ち帰る。ただそれだけだ。ジェームズの態度は、非礼といえば非礼であったが、そんな人間の道徳に悪魔がこだわるはずもなかった。

「そうか。ならば勝手にしろ」

 悪魔は冥界へと帰還する呪文を唱えた。悪魔の体はそれだけが暗がりの中に入り込んだように黒ずみはじめる。

「あ、待ってくれ!」

 ジェームズの声と共に、悪魔は色彩を取り戻した。

「なんだ」

「君が帰るのは、あの世ってところなのか?」

「そうだ」

「そっちには君以外にも大勢の悪魔がいるんだよね」

「ああ」

「じゃあ、悪魔が死人の願い事を叶えてくれることもあるのかい」

 悪魔はかぶりを振った。

「冥界にいる死者は、すでに魂を持ってはいない。生贄を捧げることができない者が、悪魔と契約することはできん」

「僕が生贄を用意してあげるから、その人の願いを叶えてくれということは?」

「……それが貴様の望みか」

 真剣な顔でうなずく。

「では聞こう。その者に叶えさせる望みは」

「探し物の在り処を知りたい」

「そんなことか」

 悪魔はせせら笑った。

失くし物探しとは、人間のまじない師が使う最も初歩的な術である。生者であるなら、場末の占い師にでも頼んでくるようなことではないか。わざわざ本物の悪魔を、まして彼ほどの上級悪魔を召喚して願うことではない。

「良かろう。その願いなら鼠一匹分の魂で充分だ」

「よかった! 鼠ならすぐ取って来れるよ」

 そう言ってジェームズは部屋を出て行く。ものの五分も経たず、彼は一匹の白鼠を持って戻って来た。

「生化学研究室から実験用のを一匹もらってきたんだ」

 悪魔は証文を差し出した。

 互いの血液で署名された証文は、特殊な呪によって不滅の契約と化す。

「これで魔の契約は完了した。さらばだ」

「あ、ちょっと待ってくれ。ひとつ聞いていいかい?」

「何だ」

「失礼だけど、もし君やその悪魔が、仕事の途中で神父さんとか牧師さんにやっつけられてしまったら、契約はどうなるんだろうか?」

 悪魔は笑う。

「悪魔との契約は、一方が滅びれば破談になるというような生易しいものではない。魔界そのものとの契約なのだ。いったん交わされた契約の代償を受け取った以上、私に何かが起こったとしても、必ず魔界は他の悪魔に契約を履行させねばならぬ。履行に何匹の悪魔の力を要しようとも、必ずだ。ゆえに悪魔との契約は絶対的なものだ」

「安心したよ。それじゃあ、頼んだよ、悪魔さん」

 悪魔が再び帰還の呪を唱え、冥土へと消え去った。

 残されたジェームズは、椅子の背に体重を預けて考え込んだ。

 もし本当に悪魔たちが約束を守ってくれるなら……大変な目に遭うだろう。悪魔たちが何万匹、いや何億匹もいるとしても、彼の願いを叶えるにはどれほどの時間がかかるか見当もつかない。

 だとすると、悪魔たちに人間を苦しめる余裕はなくなるだろう。そうすれば天使とか神様とかいったものも、用済みになるのかもしれない。


 悪魔はまだ知らない。

 マックスウェルから名を聞いた死者、ラプラスが何者なのかも。

 そして、そのラプラスが求めたがっていたものが、全宇宙の全ての素粒子の位置だということも。

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マックスウェル惨歌 執行明 @shigyouakira

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