第7話 追憶1 始まりの日
◆
事の発端は今年の2月のある寒い日だった。
よく晴れ渡った澄み切った空は見ていて気持ちがいい。今日は校舎の窓から富士山も見えているはずだ。角度が悪いので私たちの3年5組の教室からは街並みと校舎しか見えない。それでもいつもよりもコントラストがはっきりした街の風景は、新鮮に視覚に映える。
私とユリはいつものように教室で机を並べてお弁当を食べていた。
うちの学校のお昼は学食派が圧倒的多数で、次が中庭の芝生派、3階のテラス派と続く。冬でも芝生派が一定数いるのには少し驚く。今日みたいな特に寒い日でも、数人が芝生にあるベンチに座って購買で売っている肉まんとスープを談笑しながら食べているのが見える。
一方、私とユリのような教室派はマイナーな存在だ。その日はたまたまなのか、特に教室派が少なく、お弁当を広げているのは私とユリだけだった。
そこに同じクラスの先崎玲奈ちゃんが、つかつかと靴音を響かせるようにやってきた。
「小田さん、ちょっといいかしら?」
玲奈ちゃんは、うちの学校離れした綺麗系の美人。父親は大抵の人が知っている大企業の重役。中学校は都心のトップ女子校に行ってたけど、中学3年生の時に父親の仕事の関係でアメリカに引っ越したらしい。高校1年の9月に日本に戻ってきて、元いたトップ女子校ではなくうちの学校に編入してきた。
トップ女子校では授業に追いつけないし、何よりあそこは通学が大変だったから、らしい。たしかにこのあたりから都心のトップ女子校まで行こうと思うと、最低でも電車に乗っている時間だけで1時間半はかかる。
そんな玲奈ちゃんが私になんの用事? と正直訝った。クラスが同じになってもそれまでほとんど話をしたことがなかった。なんていうか、彼女は別世界の住人といった雰囲気を常に醸し出していた。
玲奈ちゃんはお弁当を広げている私の前に陣取ると、片手を机について毅然と言い放った。
「私、国広君にチョコレートあげようと思ってるの。構わないかしら?」
「はあ」と気の抜けた返事の私。
「ええっ?」とボルテージの上がるユリ。
いや、そんなこと私に言われても反応しようがないんだけど、とお箸をくわえたまま固まっていると、なぜかユリが横から鋭く声をあげた。
しかも、売られた喧嘩は買ってやる!とでも言いたげな、いきなりの喧嘩腰で。
「ちょっと! それ、本気なの?」
「もちろん。でも、朝霧さんには関係ないから」
玲奈ちゃんの声も完全に臨戦モード。なんなの、これ?
「関係あるかないか、玲奈ちゃんが決めることじゃないよね?」
「私が誰にチョコレートあげるかの話に朝霧さんは関係ないでしょ」
「それならトモにも関係ないよ。勝手に渡せばいいじゃん」
「勝手に渡していいなら渡すわよ。一応断ってるのに文句言われる筋合いはないわ。しかも朝霧さんに」
「そういうやり方はちょっとずるいんじゃない?」
「朝霧さんにずるいと言われるのは心外だわ」
なになに? なんで一触即発なの?
ていうか、既に暴発してるんじゃない?
私抜きで進む口論に、私は一人でおろおろしてしまった。
「とにかく、私は国広君にチョコレートあげることにしたから」
再び「はあ」と私。「それがどうしたの?」と顔に書いてあったかもしれない。
「そういうことで、よろしくね。小田さん」
玲奈ちゃんはそれだけ言ってすたすたと去ろうとした。私によろしくね、と言われても何がよろしくなんだろう?とユリを見ると、苦虫をかみつぶしたような顔をしている。
私はそんなユリを直視できずに、とっさに玲奈ちゃんに声をかけてしまった。
「あ、玲奈ちゃん、待って!」
玲奈ちゃんは歩みを止めて振り返る。そんな玲奈ちゃんの立ち姿を見て、なんかカッコいいなあと思った私は、今にして思うと相当間抜けだ。
「コージ君にあげるんなら甘くなくてナッツの入っているのがいいよ」
「え?」
「――コージ君そういうの好きだから」
玲奈ちゃんは驚いた顔で私をまじまじと見つめる。
そして、変な表情で私に言った。
「ありがとう。参考にさせてもらうわ」
玲奈ちゃんが去ると、ユリはちくしょう、メシがまずくなったぜ、と男気満点のセリフを吐きながら、私に言った。
「あれってさ、どう聞いても宣戦布告だよ」
バカな私は未だに事態が呑み込めていない。
「宣戦布告? なんの?」
「分かんないの?」
「んー、コージ君にチョコあげるってことだよね?」
「……トモは平和だなあ」
ユリは心底呆れたという感じで、私を見る。その視線にほのかに憐憫の情を感じる。なんか申し訳ない気分になった。
申し訳ない気分にはなったが、何が起こっているのかはそれでもまだ良く分かっていなかった。
玲奈ちゃんがコージ君にチョコレートを上げること。
それを私に前もって告げること。
それがこんなに重大なことになるとは、その時かけらも思っていなかった。
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