2 夜の顔
マーラは急いで鍋をコンロから降ろした。しかし今度は鍋敷きが見当たらない。鍋を見て、コンロを見て、ダイニングテーブルやシンクの周りをグルッと見ても、普段料理をまともにやらない台所には鍋敷きらしい鍋敷きもない。
ルシアを見ると、彼女はすっかりミロの姿を見てとろけてしまっていた。面白がって魅惑の魔法をかけてしまったのか、ルシアは両手を胸に当て、心ここにあらずという感じだった。
「ミロ! 魔法でルシアを魅了しない! ルシア! 目を覚ましなさい!」
片手に鍋を持ったままマーラがパチンと指を弾くと、ルシアはハッと我に返った。
今まで何をしていたのだろうと周囲をキョロキョロ。
「ルシアったら……! 火加減、どうやって調節するの? 鍋敷きは?」
マーラが半泣き状態で鍋を持ったまま立ち尽くしている。
「あれ、マーラ。何やって」
「何じゃないわよ。かまどの火加減どうやって調節するのって聞いてたの。あーもう。焦げちゃうじゃない」
「あ、はい。火加減火加減。もう大丈夫です。鍋はここに」
コンロの上に鍋を戻し、ふぅと一息。マーラは慣れない電磁調理器にグッタリのようだ。
蓋を閉め、タイマーを設定。
「後はそのままにして、タイマーが鳴ったらルーを入れて少し煮込めば終わりですから」
ルシアが言うと、マーラは安心したようにダイニングテーブルの椅子に腰をかけた。
「……疲れた。ミロもこのタイミングで出てこなくても良いんじゃない?」
「で、ですよねですよね。あれ? ミロって確か小生意気なちっさいガキんちょ……」
「ガキじゃねぇよ。昼間は魔法で魔力を押さえ込んでるから子どもだけど、夜になるとどうしても魔力が戻ってくるんだ。で、大人の姿に。もっと夜が更けると羽とかしっぽとか角とか牙とか生えてくるぜ。街中にいるときはなるべく力を抑えるよう、これでも努力してんの。それにしてもさぁ、ネスコーの魔女マーラ様ともあろうお方が、何慌てててんだよ。面白いなぁ」
クククッと肩を震わせて笑うミロ。
マーラは頬を膨らませてテーブルに肘を付き、プイとそっぽを向く。
「あのね。文明が進みすぎなの。他の時代でどうにか自然に振る舞えたのは、数百年の間殆ど変わらない文明のお陰もあってのことよ。包丁は使えても、火のないかまどでの調理なんて、他の時代ではあり得ないんだから分かるわけないでしょう? 井戸から汲まなくても水が出てくるとか、ボタンを押せば明かりが灯るだとか。前の時代なら寝てる時間よ? ミロはこれがどういうことか分かる?」
「知らない。俺はこの時代、面白くて好きだよ」
「そうかしら。魔女と悪魔にとってはあまり都合よくないと思うけど? 第一、夜が明るすぎる。いつでも人間の姿を保てるくらいにしておかないと、後で大変なことになるかもしれないわ」
「大変なこと? 別に気にしなきゃ良いだろ、そんなの」
「そうは言うけどね、これまで経験したことのないようなことばかり。凄く疲れちゃう。一番困るのは、夜に過ごすところが少なそうなことね。ルシア、どこか夜でも静かなところ、ないのかしら」
魔女も悪魔も夜の生き物なのだろう。ルシアは少し考えを巡らせたが、あまり適当な場所が浮かばない。
「この辺は、王都の中でも随分静かな方だと思いますよ。夜も早めに店が閉まりますし」
「それでも、こうやって家々には明かりがついているでしょう」
「そりゃそうですよ。あとは城壁の外に出れば……ですかね。本当に何にもありませんけど」
ダイニングテーブルを囲んで、三人はぼんやりと天井を見つめた。
古いながらも装飾の凝った年代物の照明がぶら下がっている。
「この界隈はまだ古い街並みが残っているけれど、中心部は様変わりしていたわね。王宮のある東側はどうかしら」とマーラ。
「あの辺は一大観光地です。夜、王宮はライトアップされてます。ホテルも多いし、夜までやってるお店も結構ありますよ」
「なんで王宮に観光に来るんだよ……」とミロもぼやく。
「それはですね、もうアズールには王家が殆ど残ってないからですよ。グルー大陸にはひとつだけになりました。他の王国は解体されて、今は民主国家です。他の大陸にも残ってるには残ってますが、お飾り的に王家と王宮が残るだけで、実質民主国家ですからね。グルーディエだって、王国と言いながら、王政じゃないんです」
「王政じゃない……? 国王は権力を持たないの?」
「ちょっとわかりにくいと思いますが、昔は王様が政治の中心だったじゃないですか。それがちょっとずつ変わってきちゃったんです。民衆にも知恵が付きました。王様からああしなさいこうしなさいと言われなくても、自分たちで自由な世の中を作っていきたいと思うように。権力のある王様、王家は次々に解体して、普通の人になってしまいました。ただ、グルーディエの場合は、この大陸の中心であり、最も歴史の長い王家ということで、ある意味保護の対象というか……ちょっと言葉にしにくいんですけど、要するに歴史を途絶えさせるわけにはいかないというような理由で存続を許されているんです。今実際にグルーディエで権力を持っているのは首相や議会です。それに経済界、大学。ここ200年くらいで世界の構造がガラッと変わってしまったので、マーラやミロがいた時代とは全然違うところが多いと思うんですよね」
ルシアは淡々と現状をわかりやすく説明した。
初めはマーラたちが過去からやって来たという点に関して、かなり半信半疑だったのだが、魔法を見せられ、不思議なことが続き、だんだん信じるようになってきていた。
マーラはふぅと長く息を吐き、ゆっくりと窓の外の月に目をやった。
「それでも王家は辛うじて存在している。……ミロ、興味ある?」
「どうだかな」
――もし、生まれた夜に死神星が降ってこなければ、何代か前のグルーディエの王となっていたかもしれない。マーラの話では、そういうことだった。
この美しさは、高貴な血筋によるものなのか、それとも魔法によるものなのか。
昼間は感じることの出来なかったときめきが、ルシアの心をかき乱していく。
「ルシアの顔、真っ赤だ」
ふいに、ミロの顔がルシアの真ん前に現れた。テーブルに手を付いて覗き込んでくるミロに、ルシアは驚いて身体を反らそうとして――、肩をぐっと引き寄せられた。力強い大きな手。そして反対の手で、ルシアの眼鏡をヒョイと外してしまう。
「ああ! 眼鏡! 返してください!」
手を伸ばすが届かない。あたふたしていると、ますますミロの顔が近くに迫っていた。
「近い、近い近い!」
青い瞳、縦長の虹彩。柔らかい錦糸のような髪。整いすぎた顔に筋の通った鼻。キリッと締まった口元……。どれをとっても素敵すぎて、ルシアは感じたことのないドキドキで心臓が破裂しそうだった。
「……ルシア、お前さぁ」
ミロは何かを言いかけた。
しかし、言葉を飲み込んで、しばらくルシアの顔をじっと覗き込んでいた。
恥ずかしいと目を逸らそうとすると、ミロはルシアの身体をひねって、自分の方に顔を向けさせる。
そのうちルシアは自分が震えていることに気付いた。ミロに力尽くで肩を抱かれ、――怖いと、思ってしまったのだろうか。
スッと、眼鏡がルシアの手に戻って来た。
ミロが肩から手を離し、髪の毛を書き上げて顔を渋らせている。
「眼鏡、ない方が美人だと思うよ」
ミロは誤魔化すようにぽつりと言った。
それを、マーラはじっと考え込むようにして見つめていた。
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