第3章 混沌を望む者

1 魔女と料理を

 大きさの違う二つの月が上空に輝き始めた。

 昼間の騒ぎが嘘のように、夜になって辺りはしんと静まりかえっている。

 ルシアはマーラと二人で台所に立っていた。洗い物や生ゴミをひとしきり綺麗にして、買い出ししてきた食材で料理を作る。

 台所の窓からは、月がよく見えた。鼻歌を歌いながら包丁で綺麗に芋の皮を剥いていくマーラの手先を、ルシアが感心したように見つめている。


「今の時代だって、包丁くらい使うでしょうに」


 変に見つめられ、マーラは思わず噴き出した。

 ルシアは顔をしかめながら、


「それはそうなんですけど、そんな長い爪でよく上手に包丁が使えるなと思って。死んだおばあちゃんがね、爪を伸ばすと料理の時邪魔になるからきちんと切りなさいって。衛生的に考えても爪は切るべきだと思って、お洒落もせずにホラ、こんな感じで綺麗に切るのが好きなんです。タブレット操作するときも、爪があると当たって使いづらくなるんですよ。友だちにもネイルアートしてる子いますけど、私はやっぱりお洒落より日々の暮らしに邪魔か邪魔でないかだけで判断しちゃうから、マーラみたいに長くてお洒落な爪でお料理が上手なのは凄いなって。手先、器用なんですね」


 魔女が自分の家の台所で料理をしている奇妙さと、変に俗人臭いところがおかしくて、何度も首を傾げてしまう。

 ベルーン村で様子がおかしくなったミロが落ち着いたところで、三人はバスに乗らず、また転移魔法で帰宅した。ルシアはバスと電車を乗り継いで帰るつもりだったが、具合の優れないミロを人目に晒すのはよくないと、マーラが諭したからだ。

 幸い、携帯端末にはリオルから≪教授が先に帰っても良いって≫とメッセージが入っていた。本当はもっと詳しい事情を腰を据えて話すべきだというのはよく分かっている。しかしあの状況では説明なんて無理だった。人の良い教授で助かったと、ルシアは胸を撫で下ろした。同時に、これは本格的に教授に相談してみなければと思い至った。

 偶然だったのかどうか、今朝借りた本、カフェで出会った二人、そしてベルーン村の石碑が一つの線で結ばれてしまったのだ。もう、ルシア一人でどうにか出来る案件ではない。


「魔女はね、薬草を煮たり、すりつぶしたりして薬を作るでしょう。それに、こう見えて木の実や果物を使ってお菓子を作るのも上手なのよ。さっき市場に行ったときに、季節の果物が沢山並んでいたわね。今度何か作ってあげるわよ」


 うふふと笑って作業を続けるマーラは、黒い服さえ着ていなければ、普通の女性に見える。お洒落が好きで、料理上手で、優しい女性に。

 黒い服の上に、タンスから引っ張り出した白いエプロン。髪を後ろで一つに束ねて垂らすと、かなり色っぽい。男性であればコロッといってしまいそうなくらい、いい女だ。

 ビーフシチューを作ろうと、近くのスーパーマーケットへ食材を買い足しに出たときも、多くの人がマーラの美しさに釘付けになっていた。

 ビニルの透明な袋を初めて触り、このパリパリしたのは何かしらと首を傾げても、冷蔵の棚に食材が並ぶのに衝撃して、冷たい風の魔法を始終かけているのと質問してきても、はたまた、電気のある時代には辛うじて行ったことはあるのよ、だけどどうして夜なのに建物の中をこんなにも明るく出来るのかしらと妙なことを言い出しても、誰も不思議に思わず、ただ素敵な女性だなと目を細めてしまうくらい、その美しさに見とれてしまうのだ。


「ありがとうございます。期待してます。ところで――、ミロは、大丈夫なんですか」


 半分物置状態だった昔の祖母の寝室に、使っていないベッドがあった。

 転移魔法で帰宅した後、ルシアは大慌てで片付けて、そこにミロを寝かせた。その後、ルシアは見ていなかったが、マーラは何かしらの魔法をほどこしたらしい。チラリと覗いたときには、気持ちよさそうに寝息を立てていた。


「ええ大丈夫。ルシアが優しい子でよかった。本当に助かったわ」


 マーラに褒められ、ルシアはこそばゆくなった。

 鍋で肉に火を通しながら、口元が自然にほころんだ。


「しばらくの間、この時代にいなければならないのよ」とマーラ。


「しばらく、ですか」


「さっき“流星の子ども”の話をしたわね。そのことで、私たちはある人物を追ってこの時代に来たのだけれど――、どうも上手い具合に街に溶け込まれてしまったみたいで。本当に困ってしまうわ。こっちは慣れない文明に四苦八苦なのに」


「追ってって……、まさか他にも、マーラたちみたいに他の時代から来た人が王都にいるってことですか」


「ええ。あなたと出会ったとき、通りで魔物が襲ってきたでしょう。あれを送ってきた張本人が、恐らくこの時代のどこかに」


 肉に焼き目を付けつつマーラの話に耳を傾けていると、ふいに遠くで物音がした。ミロの寝ている部屋の方角だ。どうやら起きたようだ。足音が聞こえている。

 野菜を投入し、更に炒める。ジュージューと良い匂い。ルーの箱に書かれた手順通りに、ルシアは材料を投入していく。


「ルシアは料理、よくするの? それとも、外で食べる人?」


 マーラに聞かれ、ルシアは苦笑い。


「実は、最近あんまり料理してません。一人暮らしって、面倒なこと全部省きたくなっちゃうもんなんですよね。誰かがいれば違うんだろうけど、おばあちゃん死んでからずっと一人だったし。生きていければ良いかなって、台所に立つ回数減っちゃって」


「――だろうと思った」


 急に頭の上から、太い声が降ってきた。

 ミロの声じゃない。

 ルシアは鍋に火をかけたまま、慌てて振り返った。

 オレンジの混じった独特の長い金髪。パーカー姿。背はルシアを見下ろせるほど高い……美しい顔をした男。


「台所にあんな腐った果物置きっぱなしにしてるくらいだ。料理どころか食べ物にも執着しないような暮らしっぷり。そっか。だからルシアは小さいのか」


 顔つきは綺麗なのに、口が悪い。そしてこの声は、カフェテラスの闇の中で聞いた、悪魔の……。


「ミ、ミロ……?」


 青い瞳でじっと見つめられ、ルシアは心臓がはち切れそうだった。

 明かりの下でその姿を見るのは初めてだったのだ。

 あの闇の中では確か、背中に羽が生えていた。そして、頭には角も。それが何にもない。

身体が火照り、硬直した。

 こんなに美しい人間を見るのは初めてだと、ルシアは思った。


「さては俺の美しさに見とれたな」


 ニヤリとミロが笑うと、その姿で更に胸がキュンとした。

 異性には殆ど興味のなかったルシアにとって、それは初めての体験だった。


「え? あ、あの。嘘、どうしよう。カッコ良すぎ……」


 最早言葉にすらならない。

 そうこうしているうちに、鍋の具材たちはジュウジュウ音を出し始める。

 嫌な予感がしたのだろう、マーラはそっと鍋の様子を覗き見た。


「……焦げてる! 火加減落とさないと! ちょ……、このかまど、どうやって。ねぇルシア!」


 音がジュウジュウからチリチリに変わり始めていた。野菜と肉の焼ける焦げの匂いが辺りに充満し始めた。

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