第14話

 昨日の放課後、ぼくと美矢は化学室の前にいた。

 文化祭のことを聞こうと、職員室で担任の唐沢先生をつかまえたら「文化祭の担当は熊谷先生だから、そっちで聞いて」と素っ気ない返事をされた。

 熊谷先生が生徒と仲良く話しているところを見たことがなかった。友達感覚にならないように生徒との距離を置いているわけではなく、授業や生徒そのものに関心がないように思えた。

 そんな無愛想な熊谷先生を相手に交渉を始めるのだから、ぼくは緊張していた。

「失礼しまーす!」

 化学室の外から声をかけるが返事はない。

「お邪魔しまーす!」

 ぼくがとめる間もなく、美矢は化学室に入り込んでいった。

 化学室には白衣を着た熊谷先生が机にうっぷしていた。

 美矢は人差し指を唇の前に立て、音を立てないようにうながした。そして足音を殺しながら熊谷先生にむかって近づいていく。

「やめろよ……また出直そうぜ」

 熊谷先生は耳にイヤホンを着けている。大音量で聴いているのか、音がシャカシャカと漏れていた。

「なんの曲を聴いてんのかなー?」

 美矢の手がイヤホンに伸びる。

「やめろよ。失礼だろ」

 片方のイヤホンを抜いて、美矢は自分の耳にはめた。先生はまだ気づいていない。

「aikoのカブトムシね……」

「いーから、はやく戻せって!」

 熊谷は上体をゆっくりと起こすと、ぼくらの方を向いた。目は真っ赤に充血していて鼻のあたりが濡れていた。

「先生、もしかして泣いてたんですか?」

 美矢が単刀直入に聞いた。

「はは、なにを言っているのかな? その、大の男が人前で涙を見せるわけがないだろ。これは服の袖についていたアンモニア的な薬品が化学変化をおこして浄化作用のためにやむをえずに出た涙で、メソメソと泣いていたわけではだんじて……」

 熊谷先生、言い訳がしんどすぎますよ!

 机の上に女の人がうつった写真が置いてあるのに美矢は気がついた。

「わ、この人、菅野美穂に似ている」

「え? 本当? 菅野美穂に似ている? いやぁ、そこまでは可愛くないだろ。うへへ」

 なぜだか熊谷先生はちょっと嬉しそうに笑った。

「おい、あんまり余計なことは言うなよ……」

 ぼくは美矢の耳元でささやいた。

「もしかして、出ていった奥さんか彼女のことを思い出して泣いていたんですか?」

 美矢は責めるような口調で聞いた。熊谷先生の肩がわなわなと震えだす。

「ううう……半年前に出ていったというのに、いまだに忘れられないんだよー!」

 熊谷先生は声を荒げ、号泣した。廊下に漏れていないか気になるところだ。

「出直そうぜ、美矢……大人を泣かしたりして、ひどいやつ」

「いいえ、精神的にまいっているときほど、頼み事をするチャンスよ」

「カリスマホストみたいなことを言うなよ」

 いつかまた、もっと素敵な人があらわれるよ。星の数ほど女性はいるよ。世界の半分は女の人なんだよ。などとありきたりな言葉をかけながら、美矢は熊谷先生の背中をさすった。

 熊谷先生が落ち着いた頃を見計らい、美矢は切り出した。

「先生、私たち、文化発表会のステージでお笑いをやりたいんです」

 熊谷先生はさっきまで号泣していたのが嘘だったみたいに、別人のように引きしまった表情に変わった。

「君が言っているのは、あれかい? ボケたりツッコんだりするやつかい?」

「はい、ボケたりツッコんだり、ボケにボケを重ねたりするやつです」

「はいどうもーで始まり、やめさしてもらうわ、で終わるやつだね」

「んー、私たちがやるのはコントですが、そうは離れてないと思います」

 あまりにも基本的なことを確認してくる。熊谷先生はお笑いについてどれだけ理解しているんだろう。ちょっと不安になってきた。

「じつは私もね、その昔、お笑いをやっていたのだよ。これ、他の生徒たちには言うなよ」

 熊谷先生は窓の外を見ながら、ぼそりとつぶやいた。

「え? 本当ですか? 人には意外な顔があるんですね! なんて芸名だったんですか?」

 美矢の態度が一変し、先生を尊敬のまなざしで見た。

「マイアミ……ルネッサンス!」

 熊谷先生はアゴに手をあて、得意げに答えた。

「マイアミルネッサンス! どこかで聞いたことがあるような! 聞いたことがないような!」

「いや、ぜんぜん知らないんだろ? 無理にあわせるなよ」

 ぼくは美矢の脇腹を肘でつついた。

「それで、その……先生は面白かったんですか?」

 そんなダイレクトな聞き方はないだろう? ぼくは舌打ちをした。

「そうだな……あの時の私は輝いていたな。養成所に通っていた時は、同期の中でも五本の指に入るぐらいの面白さだったと自負している」

 そう言って熊谷先生はふふんと笑った。

「うーん、それって、ちょっと微妙」

「これには、ぼくも同意」

「な! 養成所というのは全国から人が集まってきてだな。面接でふるいにかけて二百人くらいにしぼられるんだ。その中で五組以内だから、そうだ! この学校でたとえると、学年で十位以内の成績、くらいの実力はあったはずだ!」

「んー、十位以内」

「中途半端にすごいようなすごくないような……」

 正直、具体的な数字は言わない方が良かったと思う。

「誰か友達で有名になった人はいないんですか?」

 美矢がさらに質問を重ねる。もういいから。熊谷先生にあまり過剰な期待をするなよ。

「そ、そうだ! 誰か抱きしめてよーのギャグでおなじみのマフモフ川西とは同期だったぞ。よく授業のあとに、ファーストキッチンでだべっていた! だべっていたぞー!」

 生徒の気を引こうと必死かおっさん。その熱意を授業の面白さに反映させてほしいものだ。

「あはははは。マフモフの真似、やってみてよ、先生!」

「もう誰か俺のことを抱きしめてくれやー!」

 悲痛な表情で熊谷先生は自分の背中に腕をまわす。ここ最近、テレビで散々よく見るギャグだ。短期間で飽きられ、来年には消えていそうなピン芸人の真似を見て、美矢はウケている。

「あはは、あんま似ていないけど面白い。もっかいやってー!」

「誰か俺のことを抱きしめてくれやー!」

「あははは! オリジナルより面白い! で、先生はどうして面白いのにテレビに出れなかったんですか?」

 おい! 麻酔銃をぶちこんで美矢を眠らせたかった。

「そ、それはね……十年のあいだにいろいろと……」

 質問をした美矢にたいしてというより、あらがいがたい運命の力に怒っているような、それこそ生徒に見せたらいけないような深刻な顔になってしまった。

 それとは対照的に美矢の顔は溌溂としている。面白い答えが返ってくるのを期待しているようだ。美矢の場合、思いやりや情緒よりも好奇心を優先しているのだろう。

「や、先生の話はまたゆっくり聞かせてください。今はぼくたちの話を。お願いします。ぼくたち、文化祭でお笑いをやりたいんですよ!」

 熊谷先生はわれにかえった。表情からは女々しさが消えていた。

「そう、たしかに文化発表会のプログラムには私が関与している」

「じゃ、じゃあ、認めてくれますか? 先生!」

 なぜか美矢よりぼくのほうが興奮していた。認めたくはないが、ぼくも熱い気持ちになっているのかもしれない。

「ふ。たしかに先生はお笑いが大好きだ。ただし……簡単に認めるわけにはいかない。演劇部や吹奏楽部、それに合唱部だって努力を重ねていて、それぞれレベルが高い。だから私は君たちにテストをあたえるよ」

「テスト……なんだか熱い展開になってきたね」

 美矢が自分の唇を触った。熊谷先生は髪を後ろにかきあげた。

「今日から十日以内にネタを作って、私の前でやってみなさい。もし、この私を笑わせることができたら、文化発表会のことを考えてあげよう!」

 熊谷先生はそう言って背中を向けた。ひるがえった白衣が一瞬、マントのように見えた。

「ネタを作るにあたって、条件がある。時間は三分以内。プロのネタのコピーや身内ウケの類いは一切禁止」

 こうして、ぼくと美矢の第一試練、ネタ作りが始まったのであった。


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