第4話 一ノ瀬美矢と屋上
公園で猫と会話した三日後のこと。
ぼくは音楽の授業に向かうために、小野寺たちとともに廊下を歩いていた。
「君ってもしかして!」
突然、興奮した女子の甲高い声が耳をつんざいた。
ぼくは声の方向をゆっくりと見た。そこには一人の見知らぬ女生徒が、ぼくに指を突きつけていた。
「ん……だれ?」
リスザルのような大きな目がくるくると動いていた。鼻、口、顔のパーツの一つ一つが大きく、それぞれが自己主張しているようだった。
にっと笑った口からのぞいた鋭い犬歯がアンバランスな魅力を醸し出していた。
少女は可愛かった。肩までのセミロングヘアーが、タコさんウィンナーのように跳ねているのが残念だったが、2年E組にはいないタイプの美少女だった。
「どっかで会えるかと思って、ずっと探してたんだ。これ、返そうと思って」
少女はチェックのハンカチを差し出した。
「君は、もしや、あのときの公園の!」
ぼくはやっと思い出した。あの時はろくに顔など見れなかった。中学生くらいだと思っていたけど、まさか同じ学校の生徒だったなんて。
「おい、あの転校生、一ノ瀬と堂々としゃべっているぜ……」
「あの、ペガサス一ノ瀬と……あいつはいったい何者なんだ?」
ぼくたちに遠慮することなく、まわりが噂話を始めている。
この女子は、一ノ瀬という名前なのか。ペガサスだなんて呼ばれているけど、その由来はどこからきているのか……。
いや、そんなことより今のぼくは注目を浴びてしまっている。
ぼくはその場を走り去りたい気分にかられた。
「ひどいわ! 私のことなんてぜんぜん見てなかったのね!」
一ノ瀬はわざとらしくよろめいた。
「いや、あの時は顔面が血まみれだったし、ぼくも卒倒しそうになって……」
正直、あのときの流血女子がこんなにかわいい子だとは思っていなかった。
「おい、転校生のやつ、あの一ノ瀬を血祭りにあげたみたいだぜ……」
「かなりの武勇の持ち主だな、前の学校ではきっと……」
「そして今、たがいの力を認めあい、友情が結ばれているところだな」
どこの少年漫画だよ。っていうか、勝手に女子と戦わせるな。
クラスの連中は横目で見ながら通り過ぎていく。なにより困ることに一ノ瀬さんは周囲の目をまるで気にしていない。というか周囲の目に気づいてすらいない。
「そうそう! 私、君に頼みたいことがあるんだ。いっしょにお笑いをやろうよ! 相方になってよ!」
その瞬間、ぼくは彼女の手首をつかむと、廊下を駆け抜け階段を上がっていった。
途中で「愛の逃避行か?」とギャラリーの声が聞こえてきた。自分でもどうしてそんな大胆なことをしたのかわからない。ただ彼女といっしょにいると噂がどんどん膨らんでいきそうで、ぼくは怖かったのだ。
もうじき休み時間が終わるせいか、幸いにも屋上には生徒がいなかった。
「そういや自己紹介まだだったね。私、2年A組の一ノ瀬美矢。名前はね、美しい弓矢の矢って書くんだ」
美矢は期待にみちた目でぼくを見ている。大きな瞳にはある種の魔力が宿るというが、本当のことだな。
「……2年E組、富永真沙紀」
ぼくはぶっきらぼうに答えた。
「同じ学年だったんだね。マサキってどういう字で書くの?」
「そんなこと、君に教えなきゃならないの?」
「名は体をあらわすって言うじゃん。教えてよ」
名は体をあらわすのだろうか? 公園の黒猫、ライガーさんのことを思い出す。あの猫はちっとも勇ましくなかったぞ。
「いーじゃん。いーじゃん。教えてよー」
美矢は肩をすごい力で揺さぶってくるので、ぼくは観念した。
「……真実の真に、沙吾浄の沙、それに世紀末の紀」
「さごじょうの、さって、どんな字? ここに書いてみて」
美矢は右手を広げた。
「こう、さんずいに少ないって書くんだよ」
美矢の手のひらを指でなぞってみた。熱でもあるかのように温かい手だった。
「自分の名前、好きじゃなくてさ。二文字で分解すると、真紀とか沙紀になるし、まるで女みたいやん? もっとこう、豪鬼とか正宗みたいなマッチョな名前がよかったよ」
「そう? いい名前だと思うよ。ツッコミ向きの綺麗な名前だよ、絶対」
こいつ、ぼくにツッコミをやらせたいのか? ていうか、ツッコミむきの名前ってどんな名前だよ。
「そんなことはどうでもいいねん。さっきみたいに目立つところで、お笑いやろうとか言うの、やめてくれるかな。学校では目立たんようにしようって決めてるねん」
「変なの。お笑いやろうっていうのに、目立ちたくはないの?」
「それは、なんていうのか……能ある鷹は爪を隠すっていうだろ。普段、目立たんやつがお笑いをやったほうがインパクトが出るというか……」
苦しい言い訳かと思ったが、美矢は素直に感心していた。
「よし、ますます決意がかたまった。私、絶対に君とコンビ組む」
「ぼくの気持ちは完全に無視かよ?」
「心配しなくて大丈夫。私と君なら絶対うまくいく。絶対!」
さっきから『絶対』を連発しているが、こいつは疑いや迷いを知らないのだろうか?
「はぁ? おたがいのこと、なにも知らないじゃん。君とぼくが組めばうまくいくという根拠は? 保障は?」
美矢は首をかしげた。そしてテヘッと笑った。
「いや、ないんかい! あれだけ熱意をぶつけといて、根拠ないんかい!」
「そう! それ! 今のツッコミの力強さ! いっしょにやろう! 絶対楽しいから!」
く……つい反射的につっこんでしまった。みずから墓穴を掘ってしまった。この思い込みの激しい相手をどう振り切るべきか。
そのときチャイムが鳴った。
「あ、ごめん。授業あるからこれで」
ぼくは強引に振り切ることにした。
「待って! まだ話が!」
「君とお笑い、やる気なんてないから! もう学校では話しかけんといて!」
ぼくは逃げるように走り去った。いや、逃げるようにではなく、逃げ去ったのだ。
お笑いコンビのスカウトとはいえ、女子から熱烈なアタックを受けるのは生まれて初めての経験だった。だけど、この決断は間違っていないのだ。きっと、たぶん……。
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