第六章 怪談の呪い

第1話 怪談の呪い(1)

梅雨時はどうしたってにおいが内にこもる。鉄筋コンクリートの新校舎よりは木造の旧校舎の方が屋内の空気が澱む。湿気を帯びた床や階段や階段の手すりから黴臭いにおいが立ちのぼるからだ。


 古い本をめくっているかのようなそのにおいが幸子は嫌いではなかった。実際、築百四十年を超える旧校舎は生徒たちの青春を見守ってきただけでなく、戦争を体験してきて、語る物語を数多に持つ本のようなものだった。


 だが、そのにおいは校舎の体臭とは違った種類のものだった。本能的に危機感を得るような臭いだ。部活のため朝早くから登校してきた生徒たちが気づいて、幸子にどうにかしてほしいと言ってきたくらいだ。


 生徒たちに文句を言われ、幸子は異臭のもとをたどっていった。地層の断面のように他の空気とは明らかに質の異なるにおいを追うのは犬でなくても簡単だった。


 以前にも異臭がしたことがあったっけと幸子は記憶をたどった。聖ヶ丘学園に勤めてから二十年になる。確か、勤め始めたばかりのころだったから、二十年前だ。その時と似たにおいだ。場所と季節は思い出せなかった。


 異臭は旧校舎の生物室からひどく漂ってきていた。腐りかけた生ごみのような胸やけのする嫌なにおいだ。吐き気を催す口元を押えながら、幸子は生物室のドアを開けた。


 とたんに異臭が殴りかかってきた。締め切った室内で行き場を失っていた異臭は廊下に漏れ出ていたものよりも濃い。異臭は教室の隅から強く発していた。


 異臭の元と思われる場所には人が立っていた。


 生物室の鍵はたった今開けたばかりで、中に人のいるはずがない。幸子は一瞬ぎょっとして身構えた。そしていつもそうだと思い返した。


 生物室には等身大の人体骨格標本がある。生物室に入るたび、薄暗がりで見る骨格標本を幸子は一瞬人間と勘違いするのだ。この日も生物室には暗幕がおろされて外からの光は遮断されていた。ホルマリン漬けの標本を守るため、生物室には常に暗幕がおろされている。


 人のいるわけはないと、幸子は異臭の元であるらしい骨格標本に近づいていった。水でもこぼれているのか、足元は滑りやすくなっていた。


 吐きそうになる口元を押え、幸子は骨格標本に近づいていった。


 近づくにつれ、標本ではなく実際に人が立っているのだと気が付いた。幸子を脅かそうとしてか、どうやら生徒が骨格標本のふりをしているらしいのだ。


 驚かさないでと注意しようとして、幸子は胸騒ぎを覚えた。


 その男子生徒は全裸で教室の隅に微動だにせずに立ち尽くしていた。その腹部が黒く塗りつぶされている。頭はうなだれて、足が宙に浮いていた。


 暗幕を透過して漏れ入るぼんやりとした朝日に照らされて見えたのは、骨格標本のかわりに支柱に吊るされた少年の死体だった。


 腹がえぐられ、かきだされた腸が足元でとぐろを巻いていた。足元がぬらぬらとしていたのは流れ出た血だまりだった。


 血だまりに足を取られながら、幸子は声にならない叫び声をあげて生物室を飛び出した。


 血まみれの幸子をみて、廊下を歩いていた生徒が叫んだ。


 生徒には目もくれず、幸子は廊下を駆けた。ただただ、生物室から遠くへ、遠くへと逃げていきたかった。

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