第6話 消える人々(6)

さながら倒壊するビルのごとく、希美の体が空の目の前で崩れ落ちていった。


 とっさに椅子から立ち上がり、空は教壇に倒れ落ちていく希美の体を支えようとした。小柄で華奢な体格の希美だが、力を失った体は容赦なく空にのしかかって来、空は重力の力をいやとなく知らされた。


 教室中にあがった叫び声を聞きつけて駆けつけた教師たちによって、希美は保健室へと連れていかれた。


 席を立った時にでもどこかにぶつけたものか、すねに大きな切り傷を負った空もまた、陸に抱きかかえられるようにして保健室へと運びこまれた。


「ただの切り傷ね。大したことなくてよかったわ」


「血が出ていたので、陸が驚いちゃって。大した量でもないし、自分で歩けるっていったのに、わざわざ保健室までついてきて」


「意外と男の子は血に弱い子が多いのよ。見慣れてないから」


 保健医の野沢佳苗は手際よく傷の手当てを施した。年は二十代後半、面長で色白、セミロングの髪は染めているのか地毛なのか、赤味をおびてゆるくうねっている。


 不思議なもので、怪我をしたと気づいてからの方が痛みが強くなっている。


 出血に動揺した陸はいてもまったく役に立たないので、教室に帰ってもらった。


「白石先生は大丈夫ですか?」


「多分、貧血だと思うから、少し休めば大丈夫でしょう」


 空と佳苗とは同時にカーテンの仕切りに目をやった。その向こうのベッドに希美は寝かされている。


「ちょっと疲れがたまっていたのじゃないかしら。このところ、いろんなことがあったから……」


「松戸先生のことがあったから……」


 一瞬、咎めるように鋭い目付きをしてみせた佳苗だったが、すぐに苦笑いを浮かべてみせた。


「もうみんな知ってるのね。松戸先生と白石先生との関係」


「学園の外で二人でいるところを見かけた生徒がいて、噂にはなっていました」


「その噂なら知っているわ。松戸先生は結婚しているのだから関係をもつのはやめるように言ったんだけど……」


 佳苗は再びカーテンの仕切りに目を向けた。その目は忠告を聞き入れられなかった女心を憐れんでいた。


「いつだったか、亡くなった津田沼校長に呼び出されて、怒鳴りつけられたことがあったらしいの。怒鳴り声が廊下を歩いている人に聞こえやしないかとひやひやしたって言ってたわ。でも、それでも関係を続けていたのね……」


 松戸と希美が校長室に呼び出された話は空も聞いて知っていた。津田沼校長は誰かれ校長室に呼びつけては叱りつけるのが仕事みたいなところがあったから、あまり深くは気にもとめていなかったが、津田沼校長が亡くなり、松戸が行方をくらましている今、校長に叱責された事件がひっかかった。


「松戸先生と白石先生は、不倫関係についてとやかく言われたことで津田沼校長を恨んだんでしょうか」


「さあ、それは……そんなことで……」


 言葉を濁し、佳苗は目を伏せた。


「ところで、野沢先生。七美が襲われた時、どこにいましたか?」


「どこって、ここ、保健室よ」


「一人でですか? 生徒はいましたか?」


「あの日は誰もいなかったから、一人だった」


「保健室と、七美が襲われたトイレとすごく近いですけど、七美が襲われたのに気づきませんでしたか?」


「警察にも同じことを訊かれたけれど、何も気づかなかったわね。悲鳴が聞こえて、慌てて廊下に飛び出したら、血まみれの女子生徒がトイレの入り口に立っていて。私、その子が怪我でもしたのかと思ったんだけど、どうも血だまりに滑って転んだだけだったみたい。どうしたのって聞いて、トイレを覗きこんだら、相馬さんが倒れていた……」


 記憶を追うように佳苗はドアの向こうをみつめた。わずか数メートル先のトイレで殺人事件が発生したのだった。


「七美が襲われたのはそれより前ってことになりますけど、本当に何も変わったことはなかったんですか?」


「ええ、何も。気づいてあげられたら、相馬さんを助けてあげられたかもしれないのに」


 佳苗は心底悔やむかのようにきつく下唇を噛んだ。


「ここと職員室とも近いですけど、職員室にいても悲鳴は聞こえたと思いますか?」


「ええ、聞こえたはずよ。事務室や校長室まで聞こえたくらいだから。富岡校長も浅見さんや市川先生も何事かって駆け付けてきたんだから」


 ややあってから、佳苗はそうこたえた。


「松戸先生と白石先生は?」


「二人は二階で授業中だったでしょ?」


「職員室にいたと言っているそうです。悲鳴が聞こえてきた時、二人は職員室から出てきましたか?」


「……いいえ」


 佳苗は首を横に振った。疑念がわきあがりつつあるのが八の字になった眉から読み取れた。


 その時だった。隣のベッドからかすかな呻き声が漏れ聞こえ、佳苗はあわただしく希美の枕元に駆け寄っていった。


 カーテンの仕切りの隙間からそっと様子をうかがうと、希美は佳苗に支えられてベッドの上に上半身を起こしていた。


「起きて大丈夫ですか?」


 空はベッドから降りて、希美のベッドの足元に立った。


「何があったの? 私、確か、授業をしていたと思うんだけど」


 まだ頭がぼにゃりしているらしい希美にむかって佳苗が事情を説明した。


「星野さんがとっさに支えてくれなかったら、頭をぶつけるかして怪我していたかもしれないのよ」


「そうなの。星野さん、どうもありがとう。迷惑かけてしまったみたいで、ごめんなさいね」


 無理やりに作ってみせた希美の笑顔が美人なだけにかえって痛々しく感じられた。


「白石先生。これ、白石先生のピアスですよね」


 空はポケットをまさぐり、ピアスを取り出してみせた。


「倒れた時にきっと外れたのね」


 空の掌に転がるピアスを取ろうと望が指先をのばしてきたところで、空は手を閉じた。


 希美と佳苗とは怪訝な表情で空を見つめていた。


「倒れた時に外れたんじゃないんです。白石先生のピアスはちゃんと両方そろってます。これは別の時に別の場所で外れたピアスです。違いますか、白石先生」


 希美の表情がこわばった。ただでさえ白い顔色がさらに色を失って死人のようだった。


「無くした場所も状況もわかっているのに、倒れた時に外れたなんて嘘をついたのは、その状況が人には言えないものだったから、じゃないんですか」


「……」


 空はなおも畳かけた。


「私は、このピアスを自習室で見つけました。誰かの落とし物だと思って、届けるつもりでポケットに入れておいてすっかり忘れていたんです。でも、生徒の落とし物ではないと気づいたんです。校則でピアスは禁止されているから生徒のものじゃない。それなら誰か女性の先生の物です。野沢先生も白石先生もピアスの穴を開けていますよね。それで、私、ちょっと賭けに出たんです。『白石先生のピアスですか』ってきくことにしました。違ったら、違うって言われるだけだし、野沢先生の物なら野沢先生が私のだって言うだろうと思って。思った通り、ピアスは白石先生のものでした。でも、両耳にピアスがあるのをわかってて、どうして倒れた時に外れたなんて嘘を言ったんだろうと思いました。先生は、外れたかどうか耳を触って確かめもしなかった。ピアスを見てすぐにもうずっと以前になくしたピアスだとわかったからです。そして、なくしたということもわかっていました。なくしただろう場所にも見当がついていました。でもその場所は言えない。だから、倒れた時に外れたなんて嘘を咄嗟についたんです」


「待ってちょうだい、星野さん。星野さんはさっき、ピアスは自習室で見つけたと言ったわよね。別に白石先生が自習室に出入りしててピアスをなくしたからといってやましいことは何もないと思うんだけど」


 佳苗は希美をかばって憤慨していた。


「野沢先生の言う通りです。先生たちだって自習室に出入りします。やましいことはないはずです。なら、どうして自習室でなくしたと素直に言わなかったのか。それは自習室にいたことを知られたくなかったから。いてはいけない人と一緒にいたから――そうですよね、白石先生」


 希美は首を折ってうなずいた。その姿はまるでしなだれた白バラのようだった。


「私たち……私と松戸先生とは確かに自習室にいました。あの日、相馬さんが襲われたその時です。彼の奥さんが浮気を疑っていて、残業という言い訳が使えなくなって私たちは学園の外では会えなくなっていました。学園で毎日のように顔を会わせているといってもそれは本当に顔をあわせているだけで、私は不満だった。だから、教育実習生がいる間、授業を彼らに任せて私たちはこっそり会っていました。自習室なら誰もいなくて都合がよかった。あの日も私たちは自習室で落ち合った。悲鳴が聞こえてきて何事かが起こったのはわかったわ。それで慌てて教室に戻ったの。その時、ピアスをなくしたと気づいたけど、取りには戻れなかった……」


 空はピアスを希美に渡した。


 ピアスは掌の上で転がり、希美はぎゅっとその手を握りしめた。


「自習室にいたのなら、どうして職員室にいたなんて嘘をついたの?」


 佳苗に尋ねられ、観念しきったとばかりに希美は深いため息を漏らした。


「松戸先生に、職員室にいたって言えって言われたから。授業をほったらかして会っていたなんて、私もとても言えなかった……」


「不倫を隠そうとして嘘のアリバイを言うなんて。警察に疑われるとは思わなかったんですか?」


「自分たちは事件とは無関係だから嘘をついても問題ないって松戸先生が……。私たちのアリバイが証明されなくても、いずれ犯人は逮捕される。警察に余計なことを言う必要はないって。不倫のことが警察から奥さんの耳に入るほうが怖かったみたい」


「警察から疑われることよりも?」


 希美は苦笑いを浮かべながら、大きなため息をついた。


「白石先生は、松戸先生が校長を殺したと思いますか?」


 空は、佳苗にしたのと同じような質問をよりダイレクトに希美にぶつけた。


 返事はすぐにあった。細い声だけれど力強い調子で希美は「いいえ」と言った。


「津田沼校長を殺した犯人だからこそ、疑われているのを知って逃げたんだろうって警察は言っているけれど、私は信じていないの。行方不明になる前の日、私たちは旅行の話をしていた。少しまとまったお金が入ったから、それで海外旅行にでも行こうって。それなのに自分からいなくなるなんて、考えられないの……」

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