第4話 嘆きのマリア(4)

電車を飛び下りるなり、空は全速力で駆けだした。駅の改札を抜けたところで海と陸の背中を見かけたとたん、空は走るのをやめた。陸より遅れているということは遅刻は確実で、走るだけ無駄だ。


「おはよう! 海が遅刻なんて珍しいね」


「俺だって最近は遅刻しなくなったんだって」


「陸の場合は抜け道から登校しているだけで、遅刻してないわけじゃないでしょーが」


「そーだよ。抜け道から学園に入れたら遅刻になんねーんだ」


 陸のニヤついた顔が何かを物語っていた。そういうことかと空は勘付いた。どうりで海も陸ものんびり歩いていたわけだった。




 正門へむかう道とは反対方向に三人はむかった。裏門、体育館を通りすぎ、角を曲がる。生垣に行く手を阻まれた新校舎を左手にうらめしげに見上げながら進んでいき、先の角を曲がれば正門へ行き着くという手前で陸が足を止めた。


 緑の壁と化した生垣に陸は両手を入れ、カーテンを開けるかように生い茂る青い葉を引き分けた。たちまち、体を横にすればすり抜けられるだろうほどの隙間が現れた。


「空、先に行け」


 陸に促され、空は隙間の幅に体を沿わせた。体を横向きにしてどうにかすり抜けられるほどの空間しかない。できるだけ体を薄くしようと、空は両手を脇にぴったりとつけ、腹をひっこめた。隙間をくぐり抜け、空はとめていた息を吸い込んだ。葉の青臭さが肺いっぱいに広がった。


 海が空の後に続き、海が開いた生垣の隙間から陸が転がりこんできた。


「ねえ、陸。津田沼校長先生もこの隙間から学園にこっそり戻ったんじゃないのかな?」


「腹を相当ひっこめないとなんねえけどな」


 小太りだった津田沼校長を真似て陸は腹を押えてみせた。


「津田沼校長がこっそり戻ったって何の話だ?」


 下校したはずが美術室で亡くなっていたのは変だと言っていた守衛の小野の話を、空は海に話してきかせた。


「忘れ物でもしたのなら正門から堂々と戻ればいいわけで――」


 遅刻しているという事実を忘れて海はしばらく考え込んでいた。その考えは突然遮断された。


「おい、そこで何をしている!」


 怒鳴り声を聞き、空と陸とはさっと身をかがめた。考え事をしている海には怒鳴り声が耳に入っていないようで、突っ立ったままだった。陸は海の腕をつかみ、引きずるようにして空とともに近くにあった建物に身を隠した。そこはマリアの祠と呼ばれている場所だった。鎌倉のような形をしていて、二、三人も入れば手狭になるような広さしかなく、中には礼拝堂に安置されているマリア像と同じ像が祀られている。


「隠れたって無駄だぞ」


 身をかがめて祠の入り口に顔をのぞかせたのは、松戸だった。四十過ぎの生物を教えている教師で、生活指導を担当している。細身で背が高く、なで肩なので細い首の長さが目立つ。松戸は白衣のポケットに両手を入れ、祠の奥に身を寄せている空たち三人を見据えていた。


「不審者が学園にいないか校内を見回っていたら、これだ」


 松戸に引き立てられるようにして、空たちは職員室へと連れて行かれた。


 職員室には何人かの生徒がいた。生徒たちは背を屈め、書類のようなものを書かされていた。


「書き方は弟に聞くんだな」


 松戸は書類を空たちの前に投げ出した。遅刻届とあった。遅刻した理由を記す書類だ。


「陸は弟じゃありません」


 松戸の視線を追った海が言った。


「双子だって兄弟だ。一分一秒だろうと先に生まれた方が兄だ」


 うるさそうに眉根をしかめ、松戸は机の上にペンを転がして寄越した。


「遅刻した理由を書くんですか? そんなことを知ってどうするんですか?」


「ごちゃごちゃ言ってないで、さっさと書け。今なら朝の礼拝に間に合うだろうから」


 一筋縄ではいかない海に松戸がうんざりしたように言い放ったその時だった。


 職員室の外で一際甲高い叫び声があがった。生徒も教師も一斉に職員室の廊下側に顔をむけた。


 生徒を職員室に残し、教師たちは互いに顔を見合わせながら、廊下の外へと出ていった。入れ違いに、美術教師の市川が入ってきた。


「市川先生、何があったんですか?」


 七美の事件を思い出しながら、空は恐る恐る尋ねた。


「なあに、朝の礼拝にむかう中等部一年の生徒がトイレの前でふざけていただけだよ」


 市川の説明に耳をそばだてていた生徒全員がほっとした表情を浮かべた。


「君たちは何で職員室に?」


「遅刻したところを松戸先生に見つかって連行されてきたんです」


 肩をすくめながら陸が答えた。


「陸くんは置いといて、星野さんと海くんまで遅刻とは珍しいね」


「市川先生こそ、早いじゃないですか。授業は午後からですよね?」


 市川にくってかかりそうな勢いの陸をさえぎるように海が割って入った。


「出品作を仕上げてしまおうと思ってね。いろいろあったもんだから、遅れてしまっていて」


 ああと海が小さく呟いた。津田沼校長が亡くなったため、美術室は一時期閉鎖され、美術の授業も取りやめになったのだった。授業中に個人的な作品に取り組んでいた市川だけに、その時間を奪われて追い込みをかけられているのだろう。


「参りましたよ。この間まで小学生だったもんだから、落ち着きがなくって」


「松戸先生。相馬さんが襲われた時、どこにいましたか」


 職員室に戻ってきた松戸に、海が唐突に尋ねた。


「なんだね、いきなり」


 松戸は怪訝な表情を浮かべていた。白衣の腰のあたりがざわめいていた。ポケットにつっこんだ両手を結んだり開いたりを繰り返しているからだろう。


「なんでそんなことを君に言わなくちゃいけない?」


「教育実習生に授業をまかせて、教室にはいなかったそうですけど」


「別に問題はないだろう? 少しの間、席を外していただけだ」


「少しの間? 生徒の話だと、教育実習期間中、実習生に授業をまかせきりで授業中ずっと教室にいないことが多かったとか。実習生の授業の様子を監督しているべきなのに、事件のあった日も相馬さんが襲われるという非常事体が起こらなければ授業中ずっと席を外しているつもりだったんじゃありませんか」


「まるで私がサボっていたかのような言い方だね。いいか、御藏くん。教師にはいろいろとやらなければならないことがあるんだ。生徒にはわからないだろうけどね。あの日は職員室にいて、次の授業の準備をしていたんだ」


 威圧するかのように、松戸は薄い胸をはりだしてみせた。


「職員室にはひとりで?」


「証人ならいる。白石先生だ」


「事件現場と職員室は近いですけど、何か変わった様子に気づきませんでしたか? 何か変わったことを見たとか、聞いたとか」


「気づいたとしても、そういう話は君じゃなく、警察にするよ」


 松戸は唇の端に皮肉な笑みを浮かべた。


「倒れている相馬さんを発見した生徒があげた叫び声を、職員室の前にいた浅見さんと市川先生が聞いています。職員室にいた松戸先生と白石先生も叫び声を聞きましたか?」


「もちろんだ」


「そうですか。でも、変な話ですね」


「何がかね」


「市川先生、事務員の浅見さんの話だと、市川先生と浅見さんは職員室前で叫び声を聞いたそうですが」


 美術室へむかおうとする市川を海は呼び止めた。


「ああ。それで何事かと浅見さんと様子を見に行ったんだ。そしたら……」


「職員室の前で叫び声が聞こえたのなら職員室にいた人物にも聞こえたはずですよね」


「多分、そうだろうね」


 少しの間を置いてから市川がこたえた。


「松戸先生は白石先生と二人で職員室にいたそうなんです。叫び声を聞いて様子を見に出てきてもよさそうなんですけど、浅見さんの話だと、松戸先生も白石先生も職員室からは出てこなかったとか」


「……そうだね。職員室には誰もいなかったようだったが」


 松戸を見る市川の目が猜疑心で満ちていた。


 海は再び松戸へと質問を投げかけた。


「何事かと外の様子を確認しようとはしなかったんですか? さっきの騒ぎでは外に出ていかれましたけど。あの日、事件現場から近い保健室にいた野沢先生は保健室から出てトイレへむかっています。そうして事件が発覚したわけですが」


「異常な事があったとはわかっていたよ。だからといってむやみに職員室を出て外の様子を確かめるのは無防備じゃないか? 犯人がそこらをうろついていたかもしれないんだ。野沢先生は第二の被害者にならずにすんで運がよかったんだ」


 唾をとばしながら、今にも海に噛みつきそうな勢いでまくしたてる松戸だが、その目は左右に激しく動いていた。


「それに、白石先生がひどく怖がってね。それで職員室から出られなかったんだ」


 ようやくのことでそれだけ言うと、松戸はさっさと教室にもどって礼拝に出るようにと言い捨てた。相変わらず、白衣のポケットは膨らんだり、しぼんだりを繰り返していた。




「職員室にいたなんて嘘だな」


 職員室を出たとたん、陸が呟いた。


「白石先生がひどく怖がっていたというのは本当だろう。ただ、“職員室で”でないだけで」


「海は、松戸と白石が一緒にいたのは本当だと思っているのか?」


「たぶんね。職員室ではないにしろ、叫び声の聞こえた範囲、トイレにごく近い場所にいたんだと思う。校内放送がかかるのと同時ぐらいに教室に戻ってきたんだろう? つまり、校内放送で何が起こったかを知る前にはすでに何かしらの事情を知っていて、慌てて教室に戻ってきたってわけだ」


「噂は本当だったんだ」


 空が呟くと、海は不思議そうな顔をした。陸は“噂”の内容を知っていたようで、したり顔でいる。


「松戸先生と白石先生が付き合っているんじゃないかって噂」


 生活指導担当の松戸の不倫とあって、生徒には厳しいくせに自分がだらしないなんてと陰口をたたかれていた。白石と松戸の年の差も生徒たちの噂話の格好のネタだった。


「学園の外で会っていたのを見た生徒がいるんだって」


「外でだって会うだろうに」


「週末に二人きりで? それに松戸先生は結婚しているんだよ」


 ふうんと言うだけで、海は噂話に乗ってこようとはしなかった。この手のゴシップには関心がまったくないらしい。


「ところで、面白いものを見つけたんだ」


 ごそごそとポケットをさぐったかと思うと、海は握った手を開いて中の物を陸と空にみせた。海のてのひらにはピンク色のプラスチックが転がっていた。長方形の中央部分に字が書かれていた。


「美……室……美術室?」


 目を細めながら、空はミミズのはったような字を解読した。


「海、これ何?」


「多分、美術室の鍵のタグだと思う」


 そう言われて、陸と空とは同時に再び海のてのひらをのぞきこんだ。鍵はついていないが、長方形の一辺に丸い金具が取り付けられてあった。金具の部分に鍵をつけるのだろう。


「どこで見つけたの?」


「マリアの祠に隠れた時に踏んづけたんだ」


「それって、なくなったっていう美術室の鍵のタグなんじゃねえの?」


 海はこくりとうなづいた。


「何で、なくなった美術室の鍵のタグがマリアの祠にあったの?」


「さあ」


 首をすくめてみせ、海は朝の礼拝にむかう自分のクラスの列めざしてかけていった。

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