第2話 嘆きのマリア(2)
目覚ましよりも先にスマホが震えた。ここのところ眠りの浅いせいで空はすぐに目を覚ました。知らない番号からの電話だった。目覚まし時計の時刻は六時半を指していた。無視をきめこもうとした空だったが、手が勝手に電話に出てしまっていた。
「朝早い時間にごめんなさいね」
電話の主は聖歌の母親だった。
「聖歌から何か連絡が来てないかしら」
「いいえ」
聖歌の家を訪れて以来、連絡は取り合っていなかった。
「あの、何かあったんですか?」
「ええ、実は……」
起きてこないので部屋をのぞいたところ、聖歌がいなくなっていると気づいたのだと聖歌の母親は涙ぐんだ。
パジャマは丁寧に折りたたまれて枕元に置かれてあり、肌身離さず身につけていたスマホが見当たらない。外出したのかと慌てて電話をかけても、電源が入っていないようでつながらないのだという。
「夕食後、すぐにお風呂に入って、そのまま自分の部屋に引きこもったの。相馬さんの事件があってから、ご飯時には顔を見せるけど、それ以外は部屋にこもりきりだったから、てっきり部屋にいるものだと思っていたのだけれど。外に出るのをとても嫌がっていたのに、どこに行ったのかしら……」
親しい友人なら何か知っているだろうかと心当たりを連絡して回っているところなのだと聖歌の母親は言った。
聖歌がいなくなったと聞いて、空は嫌な予感がした。怪談の呪いという言葉がぱっと頭に浮かんだが、そんなバカげた話を聖歌の母親にできるはずもない。
「私からも聖歌の友だちに聞いてみますね」
何かわかったら連絡すると言い、空は電話を切った。
「なっ……」
すぐさま友人たちに連絡しようとして空は言葉を失った。スクリーンにウェブコブのアカウント停止の文言が現れていた。七美が襲われた時の聖歌のスマホのスクリーンを思い出し、空は総毛だった。
聖歌の身に何事かが起きた。直感でそう思い、海と陸とにメールを送った。返事は来なかった。二人ともまだ寝ているのだろう。
急いで着替えを済ませ、朝食もそこそこに空は学園へとむかった。正門は開いたばかりで校内に生徒の姿はなかった。空はまっすぐに礼拝堂へとむかった。
クリスチャンではないが、祈りたい気持ちになった時には空は礼拝堂へ足をむける。マリア像の穏やかな微笑みを見ているだけで息が整うような落ち着きを感じる。聖歌がいなくなったと知った今、空はマリア像に聖歌の無事を祈りたかった。
いつでも誰でも受け入れるという懐の深さを示すかのように、礼拝堂の扉は常に開かれている。しかし、その朝、礼拝堂の扉は閉まっていた。朝早いからだろうと大して気にもせず、空は扉を開けた。
たちまちユリの香が吹きつけてくる。園芸部が育て、華道部が生ける祭壇両脇の花飾りだ。ユリの芳香とは別の臭いも空の鼻をくすぐった。その臭いに導かれるようにして空は礼拝堂の中へと足を踏み入れていった。
ステンドグラスからはぼんやりとした朝の光が差し込んでいた。埃が煌めきながら天井へと昇っていく。剥き出しの梁と白壁とが今日に限ってどこかおどろおどろしく感じられる。
祭壇の奥、マリア像の足元に横たわるものがあった。憂いを帯びたマリア像の伏した目はそのものにむかって注がれ、抱き起そうとするかのように両手を広げていた。マリア像のまとうベールの裾は血に染まっていた。まるで赤い色の衣をまとっているかのようである。
その朝、マリア像は血を流していた。
マリア像の足元に横たえられた聖歌も血まみれであった。両手を脇にそろえ、仰向けに寝ているが、首は入り口にむかって傾いていた。大きく見開かれた瞳が恨めしそうに空を睨みつけていた。不自然な首のねじれは深くえぐられた傷によるもので、その場に広がる夥しい血の海の源であった。
その後のことを空はあまりよく覚えていない。大勢の大人が出入りして、聖歌が担架で運び去られていった。救急車のけたたましいサイレンの音をBGMのビデオでも見ているかのようだった。聖歌が運び出されていった光景だけが目に焼き付いていて、何を訊かれたのか、何を話したのか、はっきりしない。記憶はところどころ恐怖に塗りつぶされてしまっていた。
*
「聖歌のママから、聖歌がいなくなったと連絡がありました。私からも聖歌の友達に何か知らないか連絡してみると言って電話を切って……。朝早かったけど、何だか落ち着いていられなくて、学園に来ました。聖歌が無事でありますようにってマリア様にお願いしようと思って礼拝堂へ行ったんです……」
かけつけた安達刑事に促され、空は事情を語った。体の震えが止まらず、首からすっぽりと毛布に覆われていても、歯がカチカチと鳴り続けた。
一限目の授業はとっくに始まっていたが、ショック状態の空は保健室で休んでいた。保健医の佳苗は空の背を毛布の上からしきりにさすっていた。
「あの、刑事さん。聖歌は……」
空は思い切って尋ねた。
「首の頸動脈を切っていたからねえ……」
血の海に浮かんでいるかのようだった聖歌の姿を目の前に見たような気がして、空は顔を背け、保健室の窓を見やった。
「覚悟の自殺だったんだろう」
「自殺?」
「自殺以外に何があるっていうんだい?」
いぶかしがる空を安達は不思議がっていた。
「手首も切っていたし、遺書もあった」
「遺書、ですか?」
「スマホに残してあったよ」
「スマホに遺書なんて、その気になれば誰にだって書けるものじゃないですか!」
「親友が亡くなったんだろう? それで生きていく気が失せた」
「遺書にそうあったんですか?」
安達は否定も肯定もしなかった。
「七美が死んで、確かに聖歌は落ち込んでいました。でも、だからって聖歌が自殺なんかするはずはありません」
「ずいぶんと確信があるんだね」
安達の探るような視線を空は真っ直ぐに受け止めた。言葉を選ぶようにして、空はゆっくりと口を開いた。
「自殺なんかじゃありません。聖歌は殺されたんです」
空の背中をさする佳苗の手が止まった。空は安達の様子をうかがっていた。安達は表面上は驚いていないように見えた。刑事である以上、感情の起伏を表立っては出さないようにしているのだろう。
「殺されたとは穏やかではないね」
穏やかならぬ心中をごまかすかのように安達は剛毛のくせ毛に手をやった。
「そう言うからには君は犯人に心当たりがあるんだね?」
「はい、安達刑事。聖歌を殺したのは津田沼校長先生を殺した犯人です」
「星野さん。津田沼校長は事故で亡くなられたのよ」
小声ながら強い調子で佳苗が空をたしなめた。
「違うんです。あの日の地震程度の揺れでは石膏像は倒れるはずがないんです。だから津田沼校長先生は事故にみせかけて殺されたんです。聖歌は、犯人が津田沼校長先生を殺す現場を目撃してしまったんです。それで口封じに自殺に見せかけて殺されたんです」
「それで、その子は津田沼校長を殺した犯人は誰だか言っていたのかな?」
しばらくの間を置いて安達がようやく口を開いた。
空はむなしく首を横に振るしかなかった。津田沼校長が殺されたと思われる時間に美術室の前を通ったというだけで聖歌は犯人を見たとは言っていなかった。もっとも、聖歌は石膏像が犯人だと思い込んでいたのだが。
「亡くなった子は自殺だ。そう思いたくない君の気持ちもわからないでもないがね」
妙に奥歯に物の挟まったような安達の言い草が空の気にかかった。
「ところで、あんな朝早くにどうして礼拝堂に行ったのかな?」
「どうしてって……。さっきも言ったと思うんですけど、聖歌の無事をマリア様にお祈りしようと思って――」
「クリスチャンなの?」
「違いますけど……マリア像は学園のシンボルのような存在だし、私たちを守ってくれるような気がして」
「もしかして、その子が礼拝堂にいると知っていたんじゃないのかな?」
「どういう意味ですか?」
きょとんとしている空にむかって、安達はビニール袋を差し出してみせた。中には血のついたスマホが入っていた。聖歌のスマホだと、空は身構えた。
「真夜中の十二時、礼拝堂のマリア像に聖なる血を捧げろというメッセージが君から送られている」
スクリーンが血で汚れていたが、目を凝らしてみれば確かにメッセージを送っているのは空だった。
「血を捧げろと言われて、亡くなった子は手首を切ったんじゃないかな? 軽いいたずらのつもりだったのが、その子が死んでしまったので怖くなった。それで殺されたなんて作り話をしたんだろう」
「私の名前になってますけど、でも、私、こんなメッセージ送ってません」
空は再びスクリーンに顔を近づけた。メッセージが送られたのは午後十時とあった。
「この時間ならもう寝てました」
「……怪談の呪いだか何だから知らないが、人が死んでいることを忘れるんじゃないぞ」
空の強い視線に、安達も負けてはいなかった。
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