第四章 嘆きのマリア

第1話 嘆きのマリア(1)

母親が風呂場に入ったのを確かめると、聖歌は階段を一気に駆け下りた。急がなければ。


 玄関の鍵を開け、素早く外に出る。たちまちむっとする湿気が体を包む。今夜は雨になるのかもしれない。聖歌はスマホを取り出し、時間を確かめた。時刻は午後十時半を示していた。


 駅にむかって聖歌は歩き出した。この時間ならまだ電車は走っている。学園まで一時間とかからない。指定された時刻、夜中の十二時に十分間に合う。


 真夜中の十二時、礼拝堂のマリア像に聖なる血を捧げよ、そうすれば怪談の呪いから解き放たれる――あの人はそう教えてくれた。


 あの人が言うんだから間違いはない。あの人は石膏像の怒りを鎮める秘密の番号を送ってくれた。七美にも教えてあげればよかった。動く石膏像の話をしたばかりに七美は呪われ、殺されてしまった。殺されるのは本当は私だったはずなのに……。


 あの人もそう言っていた。お前は秘密の番号で守られていたから助かったのだ、石膏像の怒りはかわりに七美にむかっていったのだと。あの秘密の番号では石膏像の怒りをおさめることはもうできないのだとも。


 次は自分が殺される番なのだと思うと、聖歌は学園に行くことができなくなった。死を逃れることはできない。部屋にこもって怯える日々が続いた。


 そんな時にあの人からまた連絡があった。かけられた呪いを解く方法が見つかったという。あの人は親切にも教えてくれたのだ。


 早く学園に、礼拝堂に行きたい。呪いを解きたい。


 気持ちが焦り、聖歌は歩くスピードをあげた。


 夜遅くとあって電車は空いていた。上りだから酔客すらもいない。駅に着くなり、聖歌は電車を飛び下り、改札を駆け抜けた。


 駅から学園までの通学路を聖歌は一気に駆けていった。普段なら十分かかる道のりを五分くらいで学園の正門前にたどり着いた。


 聖歌を待っていたかのように正門はほんの少しの隙間を残して開いていた。体を斜めにし、聖歌は学園内にすべりこんだ。


 鬱蒼とした桜並木の道をさけ、聖歌はテニスコートを突っ切って旧校舎の正面玄関へとむかった。正面玄関の扉もまた、聖歌を迎え入れるように開いていた。ためらうことなく聖歌は八角の間へと足を踏み入れた。昼間でさえ薄暗い八角の間は夜とあって漆黒の闇に埋もれていた。


 闇をぬぐうようにして聖歌は真っ直ぐ歩いていった。中央階段がそこにはあるはずだった。爪先が階段を蹴るなり、聖歌は一気に階段を駆けのぼっていった。


 階段をのぼりきった先で聖歌は立ち止って息を整えた。マリア像の安置されている礼拝堂は左に曲がったすぐそこだ。


 その時だった。板のきしむ音が微かに聞こえた。息をとめ、聖歌は来た道を振り返った。重苦しい闇の奥底から再びギィ……という音が聞こえた。何かが中央階段を昇ってきている。


 礼拝堂までの短い廊下を聖歌は息もせずに駆け抜けた。開いていた扉から中に飛び込むなり、重い扉を勢いよく閉めた。それから息を殺して扉の外の様子をうかがった。


 足音は聞こえてこなかった。聞こえるのは聖歌自身の荒い息遣いだけだった。聖歌を追う何者かもさすがに礼拝堂の中には入れないとみえた。


 入り口を気にしながら、聖歌は祭壇へとむかった。






 祭壇両脇にはユリの花が飾られていた。ムッとするユリの香気が胸を塞ぐ。大理石のマリア像は薄闇にほの白く浮かび上がっている。幼な子を迎え入れるかのように両手を広げたマリア像のもとへと聖歌は進み出ていった。


 マリア像の足元に跪き、聖歌はポケットからナイフを取り出すと手首にあてた。ひやりとした金属の感触に身が引き締まる。ナイフは肌の上を滑っていった。血がじわりと傷口滲みだした。まるで赤い糸をまきつけているかのようだ。もたつきながら左手で右手首にもナイフをあてる。


 両手首の傷口を並びあわせるようにして、聖歌はマリア像にむかって両手を掲げた。マリア像は伏し目がちに聖歌を見下ろし、その口元にかすかな笑みを湛えている。


 腕を滑り降り、血は肘から床へと滴り落ちていった。これで怪談の呪いから解放されるのだと安心するなり、強い眠気に襲われた。目を閉じ、聖歌は静かに床に横たわった。


 扉の開く音がした。天国への扉が開くのだと聖歌は夢見心地に聞いていた。

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