第5話 トイレの紙さま(5)
陸の部屋には本棚がない。海の部屋にも本棚はない。しかしその理由は異なる。海は読んだ本の内容が頭に入っているので手元に置いておく必要がない。陸はそもそも本を読まない。漫画は読むが、真澄の作品を含めて漫画はすべて別室――漫画部屋と呼ばれている――に保管されている。
理路整然としている海の部屋もまた整理整頓されていると思われがちだが、現実には海の部屋は読みかけの本や望遠鏡、顕微鏡、用途のわからない道具などで散らかり放題だ。対して陸の部屋はベッドがあるだけである。集まるなら陸の部屋の方が広々としているというのに、陸も空も足の踏み場もないほどの海の部屋を好む。
幸子から渡された書類を手に御藏家を訪れた空が真っ直ぐに向かったのは海の部屋だった。
海は机に覆いかぶさるようにして作業に没頭していた。
「もしかして、それって、壊れたとかいう美術室の鍵?」
机の上に転がるドアノブから空は推測した。
小さなべニア板をドアに見立て、海は鍵を取り付けていた。
「陸がドアに体当たりしたから壊れたって聞いてたけど、陸が体重かけてぶつかった勢いでラッチが受け穴からすり抜けたってところだろうな。ここにラッチがすり抜けた時の傷がある」
海は小さな金属片を手のひらに乗せ、陸と空とに示して見せた。長さは十センチほど、中央に三センチほどの穴があけられている。海の説明では、ドア枠に取り付けたこのプレートの穴部分にラッチ(かんぬき)がはまり込んで鍵がかかるという仕組みになっている。ラッチの受け穴の脇には無数の細かい擦り傷があった。
「ドアが内開きだったから開いたようなもので、外開きだったらまず無理だっただろう」
側面に受け穴を開けたべニア板に、プレートの穴を重ねるようにして海はプレートを取り付けた。ドア枠の出来上がりである。ドアノブと錠のついたべニア板とドア枠とを並べ、海は鍵を鍵穴に差し込んだ。津田沼校長が持っていたという美術室の鍵のコピーで、やはり幸子から借りてきたものだ。
しかし、出っ放しのラッチは引っ込まなかった。錠が正常に機能していれば鍵穴に入った鍵がラッチの出し入れをコントロールするはずだった。
「やっぱ、壊れてるんじゃんか!」
勝ち誇ったように陸が声をあげた。
「鍵が奥まで差し込めないんだ」
鍵穴から半分はみ出している鍵を、海は引き抜いた。ドライバーを使い、海は取り付けたばかりの錠を外していった。たちまち、机の上にネジやプレートといった金属部品が散らかり始めた。
海が鍵と格闘している間、空はカーペットの上に並べたA4サイズの書類二枚を交互に見やっていた。そんな空を陸は海のベッドから気怠そうに眺めていた。
「なんだ、それ」
「学園の見取り図と全学年の時間割表。浅見さんにお願いしてもらった」
七美が襲われた金曜日午後一限目の時間割をみながら、空は見取り図の上に教科担当の教師の名前を次々に書きこんでいった。
「相馬が襲われた時に誰がどこにいたのか確認してるのか? 空、まさか生徒か先生相馬を襲ったと思ってんのか?」
「あらゆる可能性を考えてみることにしたんだ」
空は安達を真似た。不運な事故だとばかり思っていたが、七美を恨んでいるような人物はいるかという安達の質問がひっかかっていた。
「私が話をした刑事さんは、七美は狙われて殺されたと思っているみたいだったから」
「授業中だぜ? 生徒も先生も相馬を襲えたとは思えねえけどな」
「そうとも言い切れない。その気になれば授業中に教室を抜け出すことはできる。なんたって授業中で授業に集中しているはずだから、他の生徒が教室にいるかどうか気にしている人間はいないだろう? 先生が黒板にむかっている隙にでも抜け出せる」
錠を分解する手を休めずに、海が口を挟んだ。
「でも、振り返った先生に、あれって思われねえ?」
「それこそ、トイレにでも行ったんじゃないかって思われるだけだ。そんなに怪しまれない」
「なるほどねえ」
俄然興味がわいたとみえ、陸はベッドからおり、空の隣に座って見取り図をのぞきこんだ。
「とりあえず、授業で教室にいた先生と生徒は全員アリバイがあるとみなすとして――」
「市川先生なら、美術室にはいなかった」
分解したばかりの鍵を今度は組み立てにかかりながら、海はさらりと言ってのけた。海のクラスの午後一時限目は美術の授業だった。
「名簿を忘れたっていって、市川先生は職員室に戻っていったんだ」
「職員室にいたって聞いてる。正確には職員室の前らしいけど」
幸子から聞いた事件発生直後の話をしながら、空は市川と幸子の名前を職員室前の廊下に書きこんだ。
「市川先生が職員室に行っている間、美術室を抜け出した生徒はいるかって、刑事にしつこく訊かれた。いたかもしれないけど、いちいち他の生徒が何しているかなんか気にしていないからわからないって言っておいた」
「美術の時間は自由だからなあ。市川も自分の作品に夢中で生徒の監督なんかしてねえから抜け出すのは簡単だし」
陸の指摘した通りで、試験期間前ともなると多くの生徒たちは美術室を抜け出してテスト勉強に励むのが悪習慣と化している。
「仮に海のクラスの奴が犯人だとしてだ。市川が美術室を出た後に自分も抜け出す。市川は二階の渡り廊下から新校舎にわたって、階段を降りて職員室にむかう。犯人はそのまま新校舎の廊下を突っ走って昇降口脇の階段から一階に降りてトイレにいた七美を襲う。同じルートを引き返して美術室に戻る。授業中だから誰にも目撃されないで済む――」
空からボールペンを奪い、陸は美術室からトイレにむかって一本の線を引いてみせた。
「あれ? 空、俺らのクラスは英語の授業だっただろ? 白石の名前を書き忘れてるぜ」
陸は一年C組の教室に英語教師の希美の名前を書きこんだ。
「陸、覚えてない? あの日は教育実習生の大塚先生が授業してたでしょ。私たちが気づかない間に白石先生は教室を出ていったみたいで、校内放送が流れた頃に教室に戻ってきたじゃない」
毎年六月頃、二週間の期間限定で教育実習生が学園を訪れる。ほとんどが卒業生で、後半の一週間は担当教科の専任教師の指導のもと授業を行う。すでに二週間が過ぎ、実習生たちは学園を立ち去ったが、七美が襲われた時はちょうど実習生がいた頃だった。
「そうそう、そうだった」
陸は慌てて白石の名前の上に線を二本引いてみせた。それから化学実験室に書きこまれた松戸の名前も二重線で消してみせた。
「教育実習生で思い出したけど、松戸も教室にいなかったって話だぜ」
「どういうこと?」
松戸は生物の教科を担当している。
「松戸のやつ、授業が始まったばかりの五分ぐらいは教室にいたけど、後は教生にまかせてどこかに消えたらしい。校内放送が流れる少し前に慌てて戻ってきたんだとさ」
「教室にいなかったのなら、松戸先生はどこにいたのかな?」
「職員室にいたんだと」
「白石先生も職員室にいたって聞いた」
空は安達との会話を思い出しながら、空は松戸と希美の名前を職員室に書きこんだ。それから、幸子が事務室にひとり残してきたという玲子の名前を事務室に、騒ぎを聞きつけて駆け付けてきた保健医の野沢佳苗と富岡校長の名前を、それぞれ保健室と校長室とに書きこんだ。校長秘書の奈穂はその日は休みを取っていた。
「こうしてみると、海のクラスの生徒以外は全員アリバイがあるんだよね」
「富岡校長、本宮さん、野沢先生にはアリバイがない。三人とも、それぞれ校長室、事務室、保健室にいたことになっているが、それを証明する第三者がいない。たとえば、本宮さん。浅見さんが給湯室にむかった後、こっそり事務室を抜け出し、相馬さんを襲って事務室に戻ってくることだって可能だった。同じことは、富岡校長と野沢先生にもいえる。二人とも、相馬さんを襲って、校長室や保健室に戻れたはずだ」
空が名前を書きこんだ見取り図を見もせずに、海は言った。
海の指摘を受け、空はあらためて見取り図に目を落とした。事務室、校長室、保健室ともに新校舎の一階にある。七美を襲って戻ることは簡単だ。七美が襲われたトイレから一番近いのは保健室で、走れば一分もかからないはずだ。校長室へも事務室へもせいぜい一、二分で戻れるだろう。
「それから、新井さんもだ」
「新井さんは休んでいて学園にいなかったんだから、アリバイがないとかそういう問題じゃねえだろ」
陸が海を一蹴した。
「新井さんなら、抜け道の存在を知っていた可能性がある。学園の中の様子もよくわかっている。こっそり学園に侵入し、相馬さんを襲って、抜け道から脱出する。出来ない事じゃない。わかっているのは、あの日、新井さんは見かけ上は学園にいなかったってことだけだ。――あれ? おかしいな」
今更何を言うのかと、空と陸は二人して海に呆れていた。
「空……。富岡校長も野沢先生も、悲鳴を聞いて、校長室なり、保健室なりから出てきたんだったよな」
「浅見さんから聞いた話ではそう」
「そうか……」
鍵を取り付ける作業の手を休めずに海は考え込んでいた。
「何かひっかかるんだ?」
「『悲鳴を聞いた』『何かと思って廊下に出て様子を窺った』」
「そう。富岡校長も野沢先生も廊下に出てきたからこそ、事件があった時にも部屋にいたっていうアリバイが成立しているんだから」
「松戸先生と白石先生はどうなんだ?」
空は見取り図上の職員室に目をやった。職員室とトイレとは距離にして数メートルしか離れていない。
「職員室にいたんだろ? なら、相馬さんが発見された時の悲鳴を聞いているはずなんだ。トイレからもっと離れた校長室にまで聞こえたっていうんだから、職員室にいて聞こえていないはずはない。異様な物音が聞こえたら何かと思うだろう? 現に、校長たちはそう思って廊下に出てきた。でも、誰も職員室から出てきた松戸先生と白石先生を見ていない。浅見さんが見たのは、校長、野沢先生だけだ」
「つまり、二人とも職員室にはいなかった。海はそう言いたいんだな」
「松戸先生と白石先生は本当はどこにいたのか。調べる必要がありそう――」
「みろ、陸。やっぱり鍵は壊れていなかったんだ」
空をさえぎって海が叫び、陸を手招いた。空も陸の後に続いて海の手元をのぞきこんだ。
ドア枠に見立てたべニア板とドアノブのついたべニア板とは今や一枚につながっていた。鍵は鍵穴の奥まできちんと差し込まれている。海が鍵の頭をつまんで回転させると、ラッチが外れ、ドア枠のべニア板が机の上に倒れた。
「海、これ、何?」
机の上に転がる小さな金属片を空はめざとく発見した。長さは一センチほど、片側にのみ波模様が刻み込まれ、歯車を連想させる。
「鍵の部品?」
「分解したからいうけど、そんな部品はなかった」
自信たっぷりに断言したものの、海は浮かない表情だった。
「部品じゃないけど、鍵を分解したら出てきたんだ」
「じゃあ、部品だろ」
すかさず陸が突っ込んだ。
「部品なら、ここに転がっていて鍵がかかるわけがないだろう」
海が応酬した。陸は何も言い返せなかった。
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