第2話 トイレの紙さま(2)

 窓から流れ込んでくる雨の匂いを含んだ空気は眠気を誘う。重くのしかかってくる瞼をおしのけようと顔の筋肉をあちこち動かしてみても、動かせば動かすほどかえって気怠さが増していく。眠ってはいけないと抗えば抗うほど、眠気は強くなる。

 睡魔に負けてたまるかと空は勢いをつけて顔をあげ、黒板を睨みつけた。しかし、日本語と英語のいりまじる板書は眠気を助長するだけだった。昼食後の一番眠い時間に英語の授業を割り当てる方が間違っていると時間割を責めながら空は睡魔に屈した。

 目を閉じてからどれほどの時間が経っていたのだろう。突然入った校内放送の大音量に空は叩き起こされた。

 寝ぼけた頭に放送の内容はすぐには理解できなかった。まるで外国語のようにしか聞こえない。後で富岡校長が流していたと知った空だが、その時は誰の声という判別もつかなかった。

 上ずった甲高い声が絶え絶えの息使いとともに天井近くのスピーカーから流れてくる。同じフレーズばかりが何度も繰り返されるので、空はスピーカーが壊れているのかと疑問に思った。

 教壇に立つ教育実習生の大塚優も生徒たちと同じように何事かと放送に聞き入っていた。

 しかしその内容を理解するや否や、優は一目散に教室の入り口にかけより、ドアを閉めようとした。

 その時だった。今にも閉まろうとするドアの隙間に体をねじこませ、希美が教室にすべりこんできた。息せき切って、髪を振り乱した希美の顔色は血の気を失って真っ白だった。

 その時になってようやく空は事の重大さを理解した。

 富岡校長はしきりに教室の外に出るなと繰り返していた。

 校内で何者かに襲われた生徒がいる、犯人が校内にまだいるかもしれないから教室の外には出ないこと、教師の指示に従うことなどを告げ、校内放送は終わった。

 それからパトカー、救急車のサイレンが聞こえてくるまで、教室内の様子は静止画のようだった。

 全員席についたまま、無言で身動きせずにいる。というより、動けないのだ。生徒を襲った人物が校内をうろついているかもしれない。その人物がいつドアを打ち破って教室に侵入してくるかわからない。そう考えると、暴漢の侵入してくるかもしれないドアから目が離せなかった。侵入口は同時に逃げ口となる箇所でもあるのだ。

 パトカーのサイレンが聞こえてきたその時、空は全員が一斉に胸をなでおろす音を聞いた気がした。

 サイレンの音に反射的に窓の外に顔をむけ、校庭に停まっている救急車を目にした時、空は過去にタイムスリップしたかのような感覚に襲われた。美術室で倒れていた津田沼校長が発見された日、救急車のサイレンが静けさを破ったその日も今日と同じ、金曜日だった。

「先程、校内にて生徒が何者かに襲われるという事件が発生しました。警察官が校内を巡回して不審者のいないことを確認しましたが、今一度、こちらから指示のありますまで、教室にて待機していてください」

 制服警官が教室を訪れ、事務的な調子で告げた。生徒たちを怖がらせないよう時折笑顔を浮かべてみせ、始終穏やかな口調だったが、彼の頬は青ざめて、とりつくろった笑顔の目は怯えたような光を発していた。

「あの、襲われた生徒は無事なんでしょうか」

 空は恐る恐る警察官に尋ねた。

「病院に搬送されたそうですから……」

 若い男性警察官は無理やりにつくった笑顔で、教室中を見わたした。

 病院と聞いてほっとしたような表情を浮かべるクラスメートたちがいる中、空は別のことを考えていた。襲われた生徒は病院に連れて行かなければならないような怪我を負ったのだ……。

 空はこっそりスマホの電源を入れた。授業中は電源を切っておく決まりだが、今はもう授業どころではない。希美と優は教室の外に立つ警察官と話し込んでいて、生徒のことはほったらかしだった。

 電源を入れるなり、メールやらメッセージやらが次々にスクリーンに現れた。教室にいろという海のメッセージ以外は、他のクラスの友だちから来た無事を尋ねるものばかりだった。無事だと返信しながら、空もまた、安否を尋ねるメールやメッセージを送り続けた。

「空……七美と連絡とれた?」

 今や誰もがスマホ片手に落ち着きなく教室中を歩き回っている混乱の中、山下聖歌が空のもとにやってきた。聖歌もまたスマホを握りしめている。違うクラスだが、親友の相馬七美の様子が気になるのだろう。


「まだだけど。連絡とれないんだ?」

「ウェブコブのアカウントが急に使えなくなっちゃって。メッセージ、送れないんだ……」

 ウェブコブとはスマホで主に使用するコミュニケーションアプリだ。電話番号同士でメッセージのやり取りができる手軽さが受けて生徒たちはメールよりウェブコブを主な連絡手段として使用している。

「メールしてみたら?」

 聖歌のスマホのスクリーンにはアカウント停止という文言が踊っていた。

「メールしたけど、返事、まだないんだ。七美と同じクラスの何人かとは連絡とれたんだけど、七美だけメールの返事もないし、かけてもつながらない」

「スマホを家に忘れてきたのかもしれないよ? それか、今はスマホをもっていないとか。体育の授業だと更衣室のロッカーに入れてるし」

「七美のクラス、午後一限目は情報処理の授業でPC教室にいるはずなんだ。PCからメッセージが見れると思うんだけど……」

「PCもスマホも触れない状況なのかも。そのうち連絡くるんじゃない?」

「うん、そうだね……メッセージもメールも遅いし、電話もかかりにくいし、みんなが一斉にアクセスして混雑してるだけかも」

 スマホを胸にギュッと抱きしめたなり青い顔で頷くと、聖歌は自分の席へと戻って行った。

 その背中を見送りながら空は七美と同じクラスの生徒にメールを送った。七美の無事を尋ねるそのメールの返信には襲われたのは七美とあった。



 事件を受け、午後の授業はすべて中止になった。保護者が迎えに来るまで教室で待機するようにと指示され、生徒たちは不安を抱えながら、じっと下校の時を待つしかなかった。

 学園内に侵入した何者かに生徒が襲われたという事実以外、詳しい事は生徒たちには知らされなかった。しかし、生徒同士で情報交換しあい、襲われたのはA組の相馬七美、どうやら授業中にトイレに行ったところを暴漢に襲われたらしいということは全校生徒に知れわたっていた。

 襲われたのが七美だと知ってショックを受けた聖歌は迎えにきた母親に支えられるようにして下校していった。

「災難だったな」

 海と陸の父親、御藏真澄が教室に姿を見せた途端、空は真澄に抱きついていた。海と陸の父親ではあるが、父親たちが友人で小さい頃からよく面倒みてくれた真澄は空にとってはもう一人の父親も同然だった。

 真澄は石川愛花というペンネームで少女漫画を書いているマンガ家だ。キラキラしいペンネームとは裏腹に、顔の彫りが深い上に眉も髭も濃いというむさ苦しい顔立ち、見上げるほどの長身の持ち主である。背が高いので立っているだけでも目立つというのに、Tシャツにジーンズというラフな格好の真澄は、オフィスでの仕事を抜け出してきた他の保護者たちの間で浮いていた。

 仕事でどうしても抜けられない空の両親にかわって真澄は家まで送っていくと申し出た。

「すごい渋滞だな」

 教室を出るなり目にした生徒と保護者の行列に真澄は思わず大きな声をあげた。

 教室を出てすぐの廊下から下校する生徒たちの行列が出来ていた。渋滞の列は一向に動き出す気配がない。

「お仕事、忙しいんですか?」

 待つ間、真澄は欠伸を繰り返していた。その目は充血していて、髭も伸び放題だった。原稿がたてこんで忙しい時の真澄の典型的な外見だ。

「仕事じゃねえって。ゲームしてて徹夜だったんだ。原稿の締め切りが迫ってるってのにさ」

 陸は吐き捨てるように言った。真澄は雑誌に何本もの連載を抱える売れっ子マンガ家だった。

「息抜きも必要なんだ」

「父さんの場合は現実逃避だ」

 海は容赦なかった。

 海と陸、真澄の関係は親子というより兄弟のようだ。年齢からいって真澄が長男になるのだろうが、精神年齢の順でいくと真澄が末っ子で海が長男だった。

 高等部一年の教室は新校舎の二階に位置する。一階にある昇降口には三か所にある階段を降りていけばたどりつく。しかし、行列はそのうちの一か所、昇降口に一番近い階段に集中していた。残りの二か所、旧校舎への渡り廊下近くの階段と、二階トイレ近くの階段には人っ子一人いなかった。

「急がば回れだ」

 真澄は先頭切ってトイレ近くの階段を降りていった。聖ヶ丘学園の卒業生である真澄には学園内の様子は手に取るようにわかっているのだろう。

 階段を降りた先は左手に保健室、正面のトイレ前の廊下を歩いていけば昇降口だという短い距離を、しかし空たちは歩いていくことができなかった。

「すみません、こちらは通れないので別の道を行ってもらえますか」

 階段を降りたすぐ目の前に立っていた制服警官に空たちは制止されてしまった。

 若い警察官はこわばった表情で一行に来た道を引き返すようにと告げた。

 警察官の肩越しにみえたトイレの周囲にはテープが張り巡らされ、関係者以外の人間の立ち入りを遮断していた。

 そういう事情なら仕方ないと、一行は降りてきた階段を昇り、前にも増して長くなっている列の最後尾についた。

「夕飯前に帰れんのか」

 列について一分もしないうちに真澄が根をあげた。

 行列は動く気配が一ミリもなかった。誰もが一刻もはやく学園の外に出たくて堪らないというのに、まるで釘で打ち付けられたようにその場から動けずにいる。先を急ぐ苛立った気持ちがあちらこちらに群雲のように沸き立っていた。

 何をするわけでもなく、列が動き始めるのをひたすら待ち続けている間、空のスマホにはひっきりなしにメッセージが入ってきた。

 その内容は事件について見聞きしたこと、憶測、噂話などだった。授業中にトイレに行った七美は血まみれでトイレの床に倒れているところを発見された。どうやら刃物で切り付けられたらしい。七美はすぐに救急車で病院に運ばれた。七美を発見したのは中等部一年の生徒だという。授業中に気分を悪くし、保健室に向かう途中で凄惨な現場を目撃してしまったその生徒はひどいショック状態でやはり病院に連れていかれた。七美を襲ったのはトイレの紙さまだとか、八角の間から出てきた幽霊だ、いや、津田沼校長を襲った石膏像だとかいったバカげた噂話が数を増すにつれ、空はうんざりしてスマホの電源を切ってしまった。

「まさか学園の中で襲われるなんて……」

 牛の歩みながら昇降口にたどりつき、テープの張り巡らされたトイレを再び目にした時、空はふと感じた恐怖を口にしていた。

「トロイの木馬だな。一旦中に入られてしまったら学校ほど脆い場所はない。授業中だと誰にも目撃されないで好き放題できる」

「海の言う通りだけどさ。そのトロイの木馬とやら――生徒を襲った犯人はどうやって学園に侵入したんだろうね。おい、なんだよ、みんなして変な顔して」

 真澄の漏らしたたわいない疑問に、空はがつんと頭を殴られたような気がしていた。陸も海も同じような感覚に襲われたようで、三人はそろって間抜け面を晒していた。何故そんな簡単なことが思いつかなかったのか。

「生徒に危害を加えようって人間がまさか正門から入ってくるなんてことはないだろ?」

 真澄の指摘は的を射ていた。周囲を高い鉄柵に囲まれた学園は要塞のようなものだ。よじのぼることもできなければ、十センチほどしかない柵の隙間から滑り込むことも不可能である。正門には守衛が常駐していて、学園に用のある人間は守衛に身分証を提示し、名前と用事の内容をノートに書きこまなければならない。裏門は常に閉まっていて、こちらも学園に用のある人間にしか開けられない。登下校の一定時間帯以外に学園に侵入する手段はないのだ。だからこそ、空は学園は安全な場所だと考えていたのだし、その安全なはずの場所で起きた事件にショックを受けているのだ。

「正門からでなかったら、入れないこともないけどな……」

 ぼそりと陸が呟いた。

「どっかに抜け道があるんだ?」

「まあな」

 ためらいがちに陸が口を開いた。

「一か所だけ、鉄柵の間をすり抜けられる場所があるんだ」

「そんな場所があったら、目につきそうだけどな」

 軽く顎をあげて宙を見やる海は、その頭の中に学園の周囲を描いているようだった。

「生垣の茂みで見た目にはわからないようになってる」

 鉄柵の一部は校舎を取り囲むようにして植えられている生垣に埋もれている。鉄柵と生垣とが交互にめぐらされているように見えるが、実際は鉄柵の内側の所々に生垣が存在しているにすぎない。

「鉄柵の角の部分は他の部分より柵が太いだろ? でも一か所、その太い柵が抜けている場所があるんだ。体を横にしたら柵の間をすり抜けられる。生垣が邪魔といえば邪魔だけど、かきわけていけばどうってことないし。正門が閉まっていても、あそこからなら校内に入れるんだ」

「さては、最近遅刻しないなと思ったら、その抜け道から学園の中に入っていたってわけ!」

 空の指摘に、陸はバツが悪そうに舌を出してみせた。中学時代は遅刻常習者だった陸だが、チャイムの鳴る前には確かに教室にいなかったはずだというのに、朝の礼拝には間に合うように教室にすべりこんでくる。正門は閉められた後なのにどうやって先生たちに知られないで校内に入ったのかと空は不思議に思っていた。

「七美を襲った犯人も、その抜け道から入って、そして逃げていったんだ……」


 ――数時間後、夜のニュースで空たちは七美の死を知った。

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