第三章 トイレの紙さま

第1話 トイレの紙さま(1)

「待って、聖歌!」

 美術室の前を通り過ぎようとして背後にいるはずの山下聖歌がいないと気づき、相馬七美は慌てて来た道を引き返した。

 聖歌と七美は茶道部員だ。旧校舎二階にある茶道室で部活を終え、新校舎の教室に戻るには渡り廊下を行くのが近道なのだが、どういうわけなのか聖歌は渡り廊下の近道を避けるようになった。二階の渡り廊下を使わずに教室に戻ろうとすると、茶道室脇の中央階段を降り、一階の渡り廊下から新校舎へと移動し、正面玄関前の階段から二階に上がらなければならない。階段の上り下りだけで十分遠回りなのだ。

 遠回りなだけではない。中央階段を降りた先には八角の間が控えている。七美は八角の間が苦手だった。本来直角であるはずの壁の角が欠けているという点が何かしらの不安をかきたてるのだ。その上、八角の間は昼間でも薄暗い場所だった。

 出来る限り八角の間を避けたい七美だったが、一人で二階の渡り廊下を行くのも今は嫌だった。茶道室と美術室は隣合わせ、渡り廊下を行くには美術室の前を通り過ぎなければならない。

 聖歌を追い、七美は中央階段を駆けおりていった。長い髪が背中で軽やかに揺れ、制服の裾が舞う。後を追う七美、先を行く聖歌とは、さながら空中で戯れるモンシロチョウのようだった。

「二階の渡り廊下を行った方が教室には近いのに」

 追いついた七美を振り返ろうともせず、聖歌は八角の間を足早に通り抜けていく。

「もしかして、美術室の前を通るのが嫌とか?」

「……」

「津田沼校長先生が美術室で死んだから?」

「……」

「気味が悪いっていう気持ちはわかるけど、いつまで避ける気? 卒業するまで? 極端な話、一階で火事があったらどうやって避難するの? 美術室の前を通りたくないからって、わざわざ一階に降りるなんてこと、やっていられないんだよ? 私だって、一人だったら美術室の前を歩きたくないけど、聖歌と一緒なら平気だし、走って通り過ぎればいいんだし」

「私、まだ死にたくないし」

 予想外の聖歌の反応に、七美は戸惑った。

「何? 死にたくないって」

「石膏像に殺されたくない」

 途端に七美は噴き出した。

「聖歌、津田沼校長先生は石膏像に殺されたって話、本気で信じてるんだ?」

 七美に笑われて気を悪くしたのか、聖歌はぐんぐんと渡り廊下を行き、新校舎に足を踏み入れた。 

「津田沼校長が亡くなったのは、単なる事故だって」

「地震で倒れてきた石膏像に押しつぶされたって言うんでしょ。でも、あの日の地震の揺れでは石膏像が倒れるはずがないって聞いたよ」

「石膏像の置き方が悪かったら、たいしたことのない地震でも倒れてくるかもよ?」

「美術部の子たちは、石膏像の管理をきちんとしてたって」

「でも、いたずらしている人がいたんだって、私は聞いた」

「誰がそんなことするの?」

「四月のメルマガで美術室の動く石膏像の怪談が紹介されていたから、新入生を怖がらせてやろうって思いついた在校生がいるんじゃない?」

「ビーナス像は? どうやったら高さ二メートルもあるビーナス像が簡単に倒れるような仕掛けができる?」

「わかんないけど」

「いたずらじゃなくて、石膏像が勝手に動いていたんだとしたら?」

「そんなわけないじゃない!」

 苛立ちを覚え、七美は思わず声を荒げた。 

 七美と聖歌とは幼稚舎からの友達だ。人見知りの激しかった七美がどうしても友達になりたいと勇気を振り絞り、滑り台で遊んでいた聖歌に抱きついて、それから二人は親友になった。

 幼い頃からいつも一緒にいると顔かたちが似通ってくるものらしい。仲のいい二人はよく双子の姉妹に間違えられた。聖歌は黒目がちの大きな瞳がチャームポイントのはっきりした顔立ちをしていたが、七美は小づくりな、すっきりした面立ちであるにも関わらずである。

 容姿は似ていないと笑い合う二人だが、魂のレベルでは双子と言えるほど、趣味や嗜好はそっくり同じだった。とはいうものの、一点だけ、聖歌と七美が決定的に違う部分があった。聖歌の迷信的な部分だけは七美にはどうしても受け入れがたかった。

 七美も占いは好きな方だが、話半分で聞いている。怪談話はエンターテインメントとして面白いのであって、幽霊が実在するとは思っていない。

 七美がスパイス程度に考えているものを、しかし聖歌は主食のようにとらえ、なくてはならないもののように扱う。占いで悪い事を言われたりすると落ち込んだし、怪談を本気で怖がっていた。トイレの紙さまの存在を知ってからは一人ではトイレに行くことができなくなった。七美と連れだって入ったとしても、トイレの紙さまがいるという奥の個室にだけは頑として入ろうとはしなかった。

 気味が悪いという感覚は七美もわからないわけではない。動く石膏像の話を全く信じていない七美だが、人が亡くなった美術室を忌む気持ちは理解できる。しかし、聖歌の拒絶反応ぶりは異様だった。

「怪談なんて、ただの作り話だって」

 怖がる子供をなだめるかのように、うってかわって七美は柔らかい声音で言った。

「七美は信じていないんだ」

「石膏像が勝手に動くなんて話、信じる方が難しいよ」

「石膏像は動かないっていう確信はどこからくるの?」

「……」

 今度は七美が黙り込んでしまう番だった。

 トイレの紙さまを怖がってトイレに入れなくなった時と同じだった。あの時も、七美がいくらトイレの紙さまなんていないと説いても、聖歌はきかなかった。存在していないものの証明は困難だ。トイレの紙さまがいたらいたで怖いくせに、七美がそんなものは存在しないといっても聖歌は耳を貸さない。存在していて欲しいと思っているのかと七美は不思議に思ったくらいだ。

「七美は石膏像が動くところを見たことがないから、信じられないんだろうけど」

 新校舎の階段を昇り切り、聖歌は足をとめた。渡り廊下のすぐ先は美術室、ほんの数メートル先には茶道室がある。ものの一分でたどりつく同じ場所に、二人は五分以上の時間をかけていた。

「私が石膏像が動くところを見たことがないって、それってまるで聖歌は見たことがあるみたいな言い方だね」

 話すか話すまいかと格闘した後、聖歌は重々しく口を開いた。

「七美、私ね、見たんだ。石膏像が動くところを――」

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