第3話 女神の死の抱擁(3)

「なんだ、今日はこれだけか?」

 ドアの前に集まっている生徒の数の少なさに目をむいて驚きながら、市川は美術室のドアを開けた。だが、市川に続いて教室に足を踏み入れたのは陸だけだった。

 陸の後を追おうとした空だが、視界の隅に校長が倒れていたという場所が入ってきた途端、足が動かなくなってしまった。石膏像に押しつぶされていたという凄惨な現場を見てしまったような気になったのだ。

「空!」

 陸に名前を呼ばれ、現実世界に戻ってきた空は弾かれたように教室の中に飛び込んでいった。陸や空が教室に入ったのを見て、ようやく他の生徒たちも恐る恐る教室に足を踏み入れ始めた。いつもなら教室の後方の作業台から埋まっていくのに、この日は教室の前方、しかも入り口に近い作業台に生徒たちの塊ができていた。


 校長の事故死があって閉ざされていた美術室が解放されてから一週間が経つ。死体は取り除かれ、後片付けも済んでまるで何事も起こらなかったかのような様子の美術室だが、どことなく薄気味悪さを感じずにはいられない。生徒の大半がそう思っているようで、美術の授業が再開されても美術室に入るのを嫌がって多くの生徒たちが授業をボイコットしていた。出席している生徒たちにしても、できたら死体のあった場所から遠く離れていたいと思うのも仕方ない。何事も起こらなかったようなというが、石膏像の置かれてあった棚の上は今だにがらんとしていて、何事かのあった事実を雄弁に物語っている。

「まあ……あれだ、美術室にいたくないっていうんなら、自習室で他の教科の勉強してくれて構わないよ」

 生徒たちの落ち着かない様子を感じ取って市川がそう言うと、ほっとしたような表情を浮かべ、何人かの生徒たちはそそくさと美術室を後にした。

「適当に課題をこなしてくれたらいいから。まあ、いつもそうだけど」

 美術の授業は授業とは思えないほどリラックスしている。デッサンだとか水彩だとかの課題が与えられ、最大二週間かけて課題を完成させればいい。課題にさえ取り組んでいれば、友達としゃべっていても何も言われない。授業中、市川は黙々と個人的な作品の創作に取り組んでいる。

 この日の課題はデッサンだった。校長の事件が発生する前から授業の課題はデッサンだったが、デッサンの対象はそれまでの石膏像から市川が自宅から持ってきたという野菜や果物に変わっていた。

「石膏像、みんな壊れてしまいましたね」

 空はすっきりとした棚の上に視線を向けた。心なしか、棚もそれまで抱いてきた石膏像を失って寂しそうにみえた。

「地震などで倒れてきたりしたら危ないから、デッサンし終えた後にはきちんとしまっておくようにと普段から美術部の生徒たちには言ってきたんだけどなあ」

 市川は四十代半ば、小柄で髪には白髪が目立つ。教師とはいうものの美術を教えているとあって他の教科の教師とはまとっている空気が異なる。美のエキスパートだが、自分の外見には無頓着で、無精ひげは当たり前、スモックがわりに身につけている白衣には絵の具が飛び散らかり放題、洗濯されているような様子がない。

「校長先生からも、石膏像の管理をきちんとしておくようにって言われていたんだけどねえ」

「校長先生が?」

「ああ。あの事故の前、石膏像が床に落ちてしまうということが何度かあったんだよ。部活を終えた後、ちゃんと棚に戻しておいたはずの石膏像が翌日来てみると床に落ちて壊れていたってことがね。授業中や部活中に石膏像が生徒に落ちてきたりしたら危険だから顧問として管理をきちんとするようにって校長先生にきつく言われて、気をつけていたつもりだったんだが」

「私たち、気をつけてました!」

 突然割って入ったのは、美術部員の石橋舞だった。

「校長先生に言われなくても、石膏像は落ちてこないように棚にきちんと戻してた。石膏像が棚から落ちていたのは誰かがいたずらしたからだって。空にはわかってるよね」

「動く石膏像の怪談」

 きょとんとしている空にかわって、いつの間にか近くにやってきていた陸が答えた。

 我が意を得たりとばかりに舞はうなずいて

「美術部の子たちを脅かそうとして、誰かがわざと石膏像を床に落としたんじゃないかな。まるで石膏像が勝手に動いて棚から落ちたと思わせるために」

「誰がそんなことを」

「新入部員を怖がらせようとしたんだと思う。誰かがふざけただけなのに、校長先生ったら、私たちの管理が悪いって言いがかりをつけてきてさ。私たち、石膏像を大事にしてたよ。埃がたまらないようにもしてたし、まめに掃除もしてた。像だけど、美術部の一員だとみんな思っていたから」

 ビーナス像は美術部のシンボルとなっていて、文化祭ではビーナス像をモチーフにした作品が必ず展示される。ビーナス像を失ってがらんとした美術室をみやる舞はさびしげな表情を浮かべていた。

「校長先生の事故があった日も、部活の後、デッサンに使った石膏像はちゃんと棚に戻した」

「美術室を出る前に、僕も確認したよ」

 舞の言葉を、市川が裏付けた。

「先生が美術室を出たのは何時頃ですか?」

 空が知りたかったことを陸がかわって市川に尋ねた。

「五時少し前だったかな? 人に会う約束があったもんで、いつもより早く部活を切り上げてもらって、後片付けと翌日の授業の準備をして。さっきも言ったけど、石膏像がきちんと棚の奥、壁側に戻されているのを確認して、美術室を出たんだ」

「鍵は閉めましたか?」

 すかさず空は尋ねた。

「もちろん、閉めたよ。実は美術室の鍵のことでも校長先生からいろいろ言われていたんだ」

「何をですか?」

 空と陸と同時だった。

「鍵をきちんと閉めるようにって注意されていたんだよ。盗られるようなものもないし、特に危険なものがあるわけでもないからって、ドアの戸締りはしていたけど、鍵はかけたことがなかったんだ。開け閉めが面倒だったんでね。でも、石膏像へのいたずらが続いたものだから、校長から鍵をきちんとかけるようにって言われたんだ」

「その鍵は普段はどこにしまっているんですか? あの日、先生は鍵がなくなったって言ってましたけど」

 市川は困惑したような表情を浮かべた。あの日、美術室のドアを蹴破ったのは実は陸だが、市川にとっては海である。陸に、さも自分が聞いた情報のように確かめられて混乱したのだろう。

「事務室のキーボックスに戻したよ。そういう決まりになっているんだ」

「戻したはずなのに、翌日には鍵がなくなっていた?」

「そうなんだ。変だなと思って、美術部の部長の子のクラスまで行って鍵を持ってないか訊いたんだ。僕が来る前に美術室に何か用時でもあって鍵を使って入ったのかなと思ってね。でも鍵のことは何も知らないと言われて。事務員さんたちに訊いても、誰も美術室の鍵を持って行っていないはずだって。しょうがないから、校長室に行ったんだ。校長先生は全教室の鍵のコピーを持っているからね。でも秘書の新井さんに、校長先生は無断欠勤していると言われて。授業はとっくに始まっていたから、しょうがなく美術室に行ったら――」

「校長が倒れているのを発見した……」

 市川は陸にむかって頷いてみせた。

「鍵は見つかったんですか?」

「無くなったままだよ」

「でも、さっき、鍵を使ってドアを開けてましたよね?」

「松戸先生と御藏くん――海くんの方だけど――ドアを無理やり開けた時に鍵が壊れてしまったんで、新しい鍵をつけたんだ」

「もともとの鍵のコピーは?」

「校長先生が持っていたらしい。後で警察から返してもらったけど、美術室に関しては鍵を取りかえたからコピーを返してもらっても意味がないけど」

「先生、石膏像は全部元あったものを買い揃えてくださいね!」

「もちろんだよ。もう注文してあるから、来週には揃うんじゃないかな」

 空は美術室の後方にある棚に再び目をやった。

 高さは一メートルほどの棚には文房具店のように画材が収められている。高さ二メートルのビーナス像は別として、胸像の石膏像はかつて棚の上に並べられていた。それなりに重さのある石膏像だが、視線の高さにあるものが仮に落ちてきたとしても、胸の中に受け止めることができそうなもので、命に危険が及ぶようには思えなかった。

「石膏像へのいたずらはまだ続いているんですか?」

「鍵を変えてから――事件があってからはピタリとおさまっているよ」

 市川の返事に、空は何かひっかかるものを感じた。

「鍵を変えてからってことは、鍵を閉めるように気をつけていたのに石膏像へのいたずらは起きていたんですか?」

「そう。私たち、誰かがいたずらしているんですって言ったけど、校長先生はまったくとりあわなかった。いたずらだなんて嘘に決まってる、自分たちの杜撰さをごまかしているんだって言って怒られて、美術部の管理が悪い、つまりは顧問の市川先生が悪いの一点張り。私たちの話を聞こうともしなかった」

 憤る舞を横目に、市川は苦笑いを浮かべていた。

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