第4話 女神の死の抱擁(4)
「石膏像にいたずらしていた人が校長先生を殺した犯人なのかな?」
空は爪先立ち、小窓から美術室を覗き込んだ。旧校舎のドアはすべて同じ造りで、ちょうど顔の高さに小窓がしつらえられている。小窓ゆえに美術室全体を見渡せるわけもなく、空の視界に入ってきた物は、買い揃えられて棚に並んでいる石膏像と窓際に立つビーナス像だけだった。石膏像は落ちないように棚の奥、壁際に寄せて置かれていた。
石膏像が戻ったと舞から聞いてからというもの、空と陸は部活後に美術室に立ち寄るようにしていた。石膏像へのいたずらはなりをひそめているらしいものの、犯人は活動を再開するかもしれない、その現場をおさえてやろうという計画だった。
「いたずらしていたところを校長に見つかって、逆切れしたとか?」
陸はしきりにドアノブを回し、鍵がかかっているかどうかを確かめていた。部活動の時間はとっくに終了し、美術部員の姿はない。鍵は当然のごとく、かけられていた。
「校長が美術室で死んでいたって最初に聞いた時、なんで美術室で?って疑問だったんだけど、石膏像にいたずらしていた人間を発見して入ったっていうのなら、筋が通るんだよね」
「誰にしてもさ、犯人は美術室の鍵をもっていた人間ってことになる。市川が鍵をちゃんと閉めるようになったのにもかかわらず、いたずらは続いたんだから、犯人は鍵を使って美術室に入ったんだろ」
「校長先生に見つかって、事故に見せかけて殺した――そこまではいいとして、どうして鍵を閉めたのかな?」
「さあな。海がわかんねえって言うものが俺にわかるわけねえし」
「おい、君たち、そこで何をしている!」
低い怒鳴り声に続いて、パタパタと廊下を走る音が聞こえてきた。近づいてきた小さな人影は守衛の小野和彦だった。
正門をくぐるとまず最初に出会う人間、それが守衛の小野和彦だ。正門右脇にある小屋の小さな窓口から顔を覗かせ、小野は登下校する生徒たちに挨拶をする。生徒たちも小野への挨拶を欠かさない。
六十代の男性で、小柄で小太り、絹のような見事な白髪の持ち主だ。いつ見かけても優しい笑顔を浮かべていて守衛というよりは近所の子供たちを気にかけている親切なおじいちゃんといった感じの人物で、威圧感はまったくない。それでは守衛としては失格かもしれないが、生徒たちに安心感をもたらすという役割なら十二分に果たしている。
「なんだ、御藏くんか。君はえっと……」
「陸です。出来の悪い方」
「そんな言い方をするものじゃない。海くんは……人のお子様にこういう言い方も何だが、変わっとる。海くんと比べちゃいかん。二人とも、ご両親にとってはかけがえのない子だ」
陸と海の母親は二人が幼い頃に亡くなっている。しかし、小野にその事実を告げず、陸はそうですねと相槌を打ってみせた。
「こんな所でぐずぐすしていないで、もう帰りなさい。下校時刻はもうとっくに過ぎている。正門まで送っていこう。もう閉めてしまったからね」
小野は先だって歩き始めた。空と陸はぐずぐすしていたが、歩みの遅い小野にはすぐに追いついてしまった。
「いつもこの時間に校内を見回っているんですか?」
「遅番の時はそうだね。大体、この時間かな」
空はスマホを取り出し、時間を確認した。下校時間と決められている五時半を十分ほど過ぎていた。校長が殺されたと考えられる時間帯と重なる。
小野は道すがら、守衛のスケジュールを説明してくれた。警備員の仕事はスケジュールがかっちりと決まっているのだという。午前七時に昇降口と正門を開け、午後五時半に閉める。正門を閉めた後、異常はないか確認するため校内を巡回し、遅くても午後六時半には帰宅の途につく。朝番と遅番のシフト体制で、何人かいる学生アルバイトと交代で勤務にあたる。学生たちが朝が弱いのか、年寄りの朝が早いのか、どちらの理由にしろ、小野は朝番を務めることが多いらしい。
「校長が死んだ日は? 小野さんが巡回してました?」
「校長先生だろう」と小野は陸をたしなめた。
「あの日は遅番で、美術室も見回ったよ。石膏像にいたずらしている輩がいるらしいからって聞いていたから特に念入りにね。さっき君たちを見かけた時、てっきりいたずらの犯人かと思ったよ」
「校長先生は、いたずらとは考えていなかったみたいですよ?」
陸は「先生」の部分をわざと強めてみせた。
「いたずらでしかあり得んだろう。市川先生も美術部の子たちも気をつけていたって言うんだし。まさか、石膏像が動くわけはないて」
怪談話を揶揄するように小野は声をたてて笑った。笑い声が八角の間に不気味に響き渡った。
「あの日も、また誰かが石膏像にいたずらしたと思ったんだ。地震があったらしいけど、そんなにひどい揺れじゃなかったんで、気づかなかった。後でニュースで地震があったと知ったくらいだよ」
「あの日って、校長の死んだ日のこと?」
「校長先生!」
口調は強かったが、陸を見やる小野の目は孫でもみているかのように優しかった。
「警察にも言ったけど、あの日、美術室を見回って、ビーナス像が倒れているのに気が付いたんだ。他の石膏像が倒れていたかどうかはよく覚えていないな。とにかく、ビーナス像に気を取られていてね。あれだけの大きさのものだから、小窓から見えないとすぐに気がつくだろう? あの日は、見えていていいはずのビーナス像が見えなかった。まさか人が、よりにもよって校長先生が下敷きになっていたとはねえ……」
空は美術室のドアを頭の中に思い描いた。身長一六〇センチの空と小野はほぼ同じ背の高さだ。空が小窓から美術室を覗き見た時、ビーナス像は目に入ったが、床の様子は判らなかった。
「よりによって校長って、まるで校長が美術室にいたことがおかしなことみたいな言い方じゃないですか」
「そうだよ、陸くん。校長先生は美術室にいたはずがなかった。それどころか、学園にすらいなかったはずなんだ」
「それはどういう意味ですか?」
「校長先生は五時少し前には帰宅されたんだ。正門で少し立ち話をしていて、時間をきかれた。五時十分前だと答えたら、五時に駅前で人と会う約束があると言って急いで行かれたよ。走れば間に合っただろうから」
「でも、美術室にいた……」
何かを考える時のくせで、陸は両手を顔の目の前でこすりあわせていた。
「正門以外に学園への入り口はあるんですか?」
考え事の世界に行ってしまった陸をよそめに空は尋ねた。
「荷物搬入用の裏門があるね。車で通勤してくる先生たちのための駐車場への入り口で、朝晩の通勤時間以外は閉めっぱなしだ」
「その裏門から戻ったのかも」
「それはないだろうね。裏門を開けられるのは中からだけで、外から入るにはインターコムで正門の守衛室に連絡して開けてもらわないといけないんだ。戻ったのなら、正門からなんだろう」
「校長先生が学園に戻るところは見かけなかったんですか?」
「見かけなかったなあ。まあ、戻ってきたとしても、下校してくる生徒たちと入り混じりになってわからなかっただろうけど」
校長が学園に戻った理由は何だったのだろうと空は思いをめぐらせた。約束に遅れそうだったというのにわざわざ引き返してきたのだから、のっぴきならない事情がそこにはあったはずだった。
「あ!」
突然、陸は素っ頓狂な声をあげ、空と小野とを驚かせた。
「何、急に」
「カバン! 教室に置きっぱなしだった」
美術室前で落ち合った陸がどことなく身軽な様子に見えたのは文字通り何も身につけていなかったからかと空は呆れていた。
「すいません、戻って取ってきていいですか?」
バツの悪い顔で陸は小野をうかがった。
小野は顔をしかめてその場に立ち尽くしていた。返事がないので、陸はとまどっていた。しかしカバンなしには家に帰ることができない。言葉を選んで陸が口ごもっていると、小野は、くわっと目を見開いてみせた。
「思い出した。あの日、校長先生が亡くなった日、学園に戻った生徒がいたっけ」
「それは何時頃ですか?」
興奮をおさえきれずに空は震える声をふりしぼって尋ねた。
「五時半過ぎだったかな。今日まですっかり忘れていたけど、陸くんのおかげで思い出した。その生徒も忘れ物をしたと言ったんだ。下校時間の五時半を過ぎていて正門は閉めてしまっていたんだが、どうしても明日まで待てないって言うんで学園に入れてあげた。十分ぐらいで戻ってきたんだったかな。その生徒が正門を出るのを見届けてから巡回に行ったんだ。そうだ、うん、思い出してきたよ」
「その生徒が誰だか分かりますか?」
空の声が上ずった。小野がいつもの時間より遅れて巡回に行った時にはビーナス像はすでに倒れていた。すなわち、校長はすでに死んでいたことになる。忘れ物を取りに生徒が学園に戻ったのはその少し前だ。もしかしたらその生徒は校長の殺害事件に何らかの関わりがあるかもしれない。
「いやあ……」と、無情にも小野は首を横に振った。
「女の子だったってことしかわからないねえ。陸くんのように遅刻の常習者だっていうなら、誰だかわかるんだが」
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