第2話 女神の死の抱擁(2)
屋上から見渡せる旧校舎前のテニスコートに数台のパトカーが停まっていた。赤色灯が無言で点滅し続け、正面玄関からは警官があわただしく出入りしている。
「教頭先生が呼んだんだ」
背後からした声の主は海だった。海が授業を抜け出して屋上にくるのは珍しい。この頃では誘っても断られてばかりだった。さすがに今日は海も授業どころではないのかもしれない。
屋上のフェンスに身を投げ出すと、海はそのままコンクリートの上に崩れ落ちるようにして腰を下ろした。
「教頭先生は大事にしたくないようだったけど、救急隊員にも、不審死扱いになるから警察を呼ばないといけないと言われて」
メガネを外した海は目頭を強く抑えた。
「海は死体を見た?」
“死体”という言葉を口にしただけで、空の動悸が強まった。
「ああ……。教頭先生と一緒に美術室に行ったから――」
今にも降り出しそうな曇り空を見上げる海の目が充血していた。
「昨日の夜、五時五十分頃に地震があったの、覚えてるか? 教頭先生が言うには、校長先生はその時の地震で倒れてきた石膏像に押しつぶされて亡くなったんじゃないかって……」
「海はそうは思っていないんだ?」
メガネを弄びながら海はうなずいた。
「昨日の地震は震度三程度の揺れだったんだ。揺れているかなと思うくらいの地震で石膏像が倒れるものだろうか。校長を押しつぶしていたのは本物のミロのビーナスと同じ大きさ、高さ二メートルのビーナス像だった。そんな簡単に倒れる代物じゃない。他の石膏像にしても倒れたら危険であるものだから置く場所を考えるとか管理はきちんとしていたはずだ」
「でも、校長の死体はビーナス像に押しつぶされていた。なんつーか、ビーナス像にラリアットくらって床に叩きつけられたって感じだった」
「ラリアット?」
腕を横に広げ、正面から相手の喉元めがけて体当たりをするプロレス技だと陸は説明した。
「ビーナス像に腕はない」
「いや、だから単なる喩えだって!」
「腕はないんだから、その喩え方は適切じゃないな、陸」
「あー、もういい!」
顔を真っ赤にしながら、陸は髪をかきむしった。
「他の石膏像も木っ端みじんに壊れていたぜ」
「事故にみせかけようとして、石膏像を叩き割ったんだとしたら?」
「殺人事件だってこと?」
唾をのみこもうとして、空は喉がカラカラに乾いていると気づいた。
「凶器はおそらく石膏像のどれかだろう。全部粉々になってしまったから特定は難しいだろうけど。凶器をわからなくするために犯人はわざとすべての石膏像を破壊したんだとしたら――」
「事件だっていうけどさー」
陸がすかさず口を挟んだ。
「美術室の鍵は閉まっていたんだぜ」
「密室殺人ってこと?!」
興奮した様子の空にむかって、海は冷静に
「美術室の鍵はなくなっていたんだろう? なら、犯人が持ち去ったってことだ。美術室に限らず、旧校舎の教室は出入りに鍵が必要だ。犯人は校長を殺した後、美術室の鍵を閉めて立ち去った」
「海のその推理はつじつまがあわないな」
陸がすかさず口を挟んだ。
「事故にみせかけようとしたのなら、なんで鍵を閉めたんだ? 犯人の考えたシナリオは多分こうだ。美術室にいた校長は、置き方の悪かったせいで倒れてきた石膏像に押しつぶされた――。死んだ人間に鍵はかけられないだろ? 鍵をかけてしまったら、第三者の存在が疑われてしまう。海、お前が犯人なら、鍵はかけないだろ?」
「かけないだろうな」
海は即答した。
「鍵がかかっていた理由はわからないが、確かなのは校長は殺されたってことだ」
「海は、誰が犯人かわかってるの?」
空はおずおずと尋ねた。殺人事件だと言い切り、凶器がどうのというくらいだから海には犯人もわかっているような気がしていた。
しかし、メガネをかけた海は首を横に振るだけだった。
「たぶん、校長をよく思っていなかった人間……。こういう言い方は何だけど、人格者っていう人物ではなかったし」
校長が死んだと聞いて、悲しいというよりも驚きの感情が先だった。事故かもしれないと思った時はさすがに気の毒に思ったが、殺されたかもしれないと海が言っても、同情の気持ちが湧いてこない。むしろ、あの校長なら殺されても仕方ないかもしれないと思ったくらいだ。死んだ人間を悪くは言いたくないが、校長の評判は良くはなかった。生徒たちからは蛇蝎のごとくに嫌われていたし、マスメディア部の顧問、宮島はあからさまに悪口を言わないまでも、態度に嫌悪感が漏れていた。
「そうなると、犯人は学園関係者――生徒の可能性もあるってことだ」
陸がぽつりとつぶやいた。
大粒の雨が空の頬を打った。コンクリートの地面は水玉模様へと変化しつつあった。それでも、誰も屋上を離れて教室へ戻ろうとはしなかった。
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